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プロローグ

初めまして、露樹です。いつか悲しい思い出は、綺麗に昇華され、思い出に変わると信じています。葵が笑える未来を私は信じています。

 小学生の山口将希にとって、この世界は退屈で窮屈な箱庭だった。

 山と海に挟まれたこの小さな田舎町では、誰もが知り合いで、誰もが同じような顔をして生きている。朝起きて、学校へ行き、部活もせずに家に帰る。そんな変わり映えのしない毎日。そんな日々の中で、どうしようもない息苦しさに襲われることがあった。窮屈な人間関係、未来まで見えてしまいそうな田舎式の一本道のレール。そんな全てから逃げ出したくなる瞬間が、間違いなくあった。


 ただその衝動の受け皿が、町の外れにある森の奥、打ち捨てられたように佇む古い神社だった。


 夏の光は、周囲の木々の葉を透かし、きらきらと乱反射して地面に複雑な模様を描いている。じりじりとアスファルトを焦がす町の熱気は、鳥居をくぐった瞬間嘘のように消え去り、ひんやりと湿った土の匂いが鼻腔と肺を満たす。ミンミンゼミとアブラゼミの鳴き声が、まるで天然のBGMのように降り注ぐ場所。


 そこは、僕だけの秘密基地だった。


 誰にも邪魔されず、誰の目も気にしなくていい。拝殿の縁側に大の字に寝転んで、ただ空を見上げる。風が木の葉を揺らす音に耳を澄ませる。そんな時間だけが、僕を窮屈な日常から解放してくれた。



「いつか、神様にでもなれたら。」



 こんな途方もない空想は、いつもこの場所で生まれた。神になって、この退屈な箱庭を、僕の好きなように作り変えてしまうのだ。空の色も、風の音も、僕の気分次第。そんな全能感を夢想している時だけ、僕は世界の主人公になれた気がした。

 その日は、僕はいつものように境内で本を読んでいた。物語の世界に没頭し、現実の僕をすっかり忘れていた、その時だった。


「……あなた、何してるの?」


 すぐそばで、鈴が鳴るような声がした。

 驚いて顔を上げると、そこに同い年くらいの少女が立っていた。

 息が止まるかと思った。日に透けるほど白い肌に、切りそろえられた艶やかな黒髪。そして、どんな感情も映し出すことを拒んでいるかのような、大きな黒い瞳。まるで、精巧に、そして丹念に作り上げられたビスクドール。この世の人間とは思えない、非現実的な美しさがそこにあった。間違いなくこの島の人間じゃない。感じたことのないほどの強烈な違和感と共に、そう直感した。

 僕だけの聖域に、不意に現れた異分子。戸惑いながらも、どこかで誇らしい気持ちが湧き上がってくるのを止められなかった。


「ん?……」 


 僕は少しだけ得意になって、読んでいた本をぱたりと閉じた。


「ここは僕の秘密基地なんだ」


「ひみつきち……?」


 少女は、僕の言葉を不思議そうに繰り返した。そのガラス玉のような瞳が、僕と、僕の後ろにある古びた拝殿とを、まるで値踏みするように静かに行き来する。何を考えているのか、まったく読めない。

 やがて彼女は、本当に小さく、ほとんど聞き取れないくらいの声で「そう」とだけ呟いた。

 そして、僕が何かを言う前に、すっと踵を返し、森の奥へと消えていく。


 まるで幻を見ていたかのようだ。


 僕はしばらく、彼女が消えた方を呆然と見つめていた。静寂を取り戻した境内に、セミの声だけがやけに大きく響いている。

 去り際に、彼女の横顔が一瞬だけ、ほんの少しだけ和らいだように見えたのは、きっと気のせいだろう。

 これが、神崎葵との最初の出会い。

 この時の僕はまだ、知る由もなかった。僕にとっては何気ないワンシーンが、彼女の心に、忘れられない光景として焼き付いていたことも。そしてこの出会いが、未来で止まってしまった二人の時間を動かす、たった一つの鍵になるということも。






数年後…


 神崎葵にとって、世界から色がなくなってしまったようだった。

 祖母が亡くなり、生まれ故郷の島を離れ、仕事で忙しい両親の住む街へと移り住んだ時から、彼女の世界から少しずつ色彩が失われていった。高層ビルが空を隠し、無数の人々が自分に関心なく通り過ぎていく街。両親は優しかったが、娘の心の機微に気づけるほど繊細ではなかった。食卓に並ぶ会話はいつも、仕事の愚痴か世間話。葵が学校でどんな顔をして過ごしているのか、誰も興味がないようだった。


 葵の色彩を奪ったきっかけは、とても些細なことだった。新しく買った髪留めを褒められた。ただそれだけ。しかし、その髪留めは次の日、教室のゴミ箱の中から見つかった。

 美しさは、時に嫉妬という名の毒を育む。葵の持つ母ゆずりの精緻な容姿は、閉鎖的な少女たちの世界では、格好の標的となった。

 美術の時間、完成間近だった絵に、誰かがわざと絵の具の水をこぼした。下駄箱に入れられた手紙は、最初は好意を装い、開くと「死ね」「消えろ」といった言葉が並ぶ。聞こえるように囁かれる悪口、巧妙に仲間外れにされるグループ分け。

 悪意は伝染し、増殖する。周囲は誰も助けてはくれない。見て見ぬふりをするクラスメイト。問題が大きくなることを恐れる教師。葵はたった一人で、見えない敵意の集中砲火を浴び続けた。最初は悲しかった。次に、悔しさと怒りがこみ上げてきた。でも、抵抗すればするほど、悪意の波は高くなるだけだと知った。

 やがて葵は、感情という自分にとって不要なものを捨てることを覚えた。心を無にすれば、傷つかない。何を言われても、何をされても、何も感じなければいい。彼女は、美しい人形になることを選んだ。精巧なガラスの仮面を被り、その奥に、血を流し続ける本心を閉じ込めた。


 ある雨の日。ずぶ濡れになって家に帰ると、母親が「あら、傘を持っていかなかったの?」と呑気に言った。傘は、下校途中に同じクラスの生徒に奪われ、道路に投げ捨てられたのだ。


もう、限界だった。生きることすら辞めたかった。


 その日を境に、神崎葵の中で時間は完全に止まった。自室という独房に閉じこもり、誰とも会わず、誰とも話さず、ただ過ぎていく時を待つだけの日々。


そして現在。

 逃げるようにして、彼女は故郷の島へと戻るフェリーに乗っていた。

 デッキの手すりは潮風に吹かれて少し錆びついている。キィ、と鳴くカモメの声がやけに大きく耳障りだ。空と海の境界線が曖昧な、灰色の世界。今の自分の心の中みたいだ、と葵は思った。

 もう、誰にも期待しない。誰とも関わらない。そう固く誓ったはずの心に、不意にある光景が蘇る。


 遠い昔の、夏の日の記憶。まだ小学生だったっけ。

木漏れ日が降り注ぐ、静かな神社。そこにいた、不思議な少年。


――ここは僕の秘密基地なんだ。


そう言って、少しだけ得意そうに笑った、彼の顔。

なぜ今、そんなことを思い出すのだろう。


わからない。


でも、あの場所だけが、色褪せた記憶の中で、唯一鮮やかな色彩を保っている気がした。

辛い都会の記憶から逃れるための、ただの感傷旅行。そう自分に言い聞かせる。


「……あの場所へ行きたいな」


ぽつりと、誰に言うでもなく呟いた。

汽笛が鳴り、ゆっくりと島がその姿を現し始める。

止まってしまった時間が、再び動き出す予感を、この時の彼女はまだ知らなかった。

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