2話——作戦は効果覿面だったようです。
◇ ◇ ◇
長い夜が明けた。
淵が白み始めた空を確認すると、アルクはその場を立ち、近くの小川へと足を向けた。
見張りは交代制で、一定時間になると振動する魔道具を使って時間を測っている。皆が起床するまではもう少し時間があるだろう。その前に冷たい水で顔を洗った。
遠征中は比較的眠りが浅くなる。それはいつもの事だったが、昨夜はそれに拍車を掛けて眠れなかった。
『今更何を迷う?』
昨夜、ハワードと二人、焚き木を囲んだ時の彼の台詞が耳から離れない。こちらを見透かしたかのような夕日色に射抜かれ、身動きが取れなくなった。
『散々自分のもののように振る舞っておいて、今更怖気づいたのか?』
えみに対しての戸惑いが日に日に大きくなる事は、とっくにバレていたらしい。そしてそれはルーベルにもだった。
『選べるくせに迷うくらいなら、いっそオレに預けてくれ』
そう言ったあの瞳が実は本心だったのではと思うと、とても眠気なんてやって来なかった。
夜会のあったあの日、シャガールの隣に立ち並ぶえみを見た時、最早自分の手には届かない場所へ行ってしまったと感じて、唯々苦しかった。
『お前などが触れていい女では無い』と言われた気がして震えた。
シャガールの腕に手を添える彼女を奪い取ってやりたかった。なのに、震える体はどうしてもその場から動かなかったのだ。
今だって本当なら側に行きたい。
彼女に触れたい。
叶うのなら抱き締めてしまいたい。
でももしそれを本当はえみが望んでいないとしたら。
嫌だと拒絶されてしまったら……
本当に今更なのに、考えただけで何も手につかなくなりそうだ。えみと出会う前はどんな風に生きてきたのかも、これから先どう進んで行けばいいのかも分からなくなってしまいそうだ。
猛者達が闊歩する騎士団でのし上がり、王宮貴族とも渡り合って来た筈の自分がだ。
なんて脆いのかと自嘲の笑みが零れた。彼女の言動一つでこんなにも心を乱されてしまうとは。それ程までに大きな存在になってしまっていたとは。
もしも離れて行ってしまうのなら……
失うくらいならいっそ……
「あの……大丈夫ですか……?」
後ろから声が掛かり、ハッとして振り返る。そこに立ってタオルを差し出すのはえみだった。
予期していなかったせいか動揺してしまい、アルクは咄嗟に声が出せなかった。
そんな自分を見て何を思っただろうか。彼女は一瞬目を伏せると、困ったような笑顔を貼り付け、手に持ったタオルを押し付けるように渡してくる。
「邪魔をしてすいませんでした。……風邪引かないように、すぐ拭いてくださいね」
それだけ言うとテントの方へと駆けて行ってしまった。
チラチラと起き出してくる騎士達の方へと戻っていくその背に、何も言葉を掛けられないまま、アルクは唯それを見送るだけだった。
◇ ◇ ◇
「なぁえみ……こいつらってさ……」
そう言いながら起きてきたシャルくんに「おはよう」と声を掛けたと同時に静止してしまった。
精霊達が明らかにデカくなっていたのだ。
昨日までは手のひらサイズで、可愛らしくシャルくんの周りをふよふよしていたあの精霊達は、一人一人が彼の頭くらいの大きさになっている。
見た目は変わらず、ただサイズアップしたように。
ワサビちゃんと違うのは、羽が無くなっていない事。手のひらサイズだった頃と変わらずシャルくんの周りをぶわりぶわりと飛び交っている。肩や頭にへばり付くのも変わっていない。
何て言うか、まぁ煩わしそう……。
そしてルーベルさんには見えていなかった。精霊の特徴を残したまま成長を遂げているようだ。
驚いたのは、成長したのが彼ら四人だけでは無かった事だ。
「えみ様、おはようございます」
少し遅れて起きてきたワサビちゃんもまた、大きく成長を遂げていた。
「ワサビちゃん……また大きくなったね」
見た目五歳くらいだったワサビちゃんは、十代に突入しました。十二、三歳程の少女へとその姿を変えていたのだ。
こちらはルーベルさんにも騎士団の皆さんにも、普通の人間のように見えているので、軽くザワついている。可愛らしかった見た目はすっかりお姉さんになり、少々色気が加わった。騎士様の中には何やら熱い視線を送っている方もちらほら見受けられる。
「また器が大きくなったって事?」
ソラへ確認すると、ふむとひとつ頷き、ワサビちゃんを観察しながら答えてくれた。
「そのようだの。魔素の量も質も昨日までとは比べられない程増えておる」
あの夏の思い出カレーには、思い出だけで無く、精霊の成長を促してしまう何某かが含まれていたようだ。特に特別な事はしていないのだけれども。
今の所精霊以外には効力を発揮していないようなので、取り敢えず様子見でいいのかな?
「なんでシャルくんの精霊とワサビちゃんの成長の仕方が違うの?」
「さてな」
「なんで急に大きくなったの?」
「さてな」
「まだ大きくなるの?」
「さてな」
何もわからないじゃねぇか!
「言ったであろう、前例が無いのだ。我にもわからぬ」
おっと。心の声が聞こえてしまったようですね。
いけないいけない。
「これが上位精霊の姿なのか?」
レンくんの質問にソラが首を振った。
「違うな。上位精霊とは、分かりやすく言えば一人一人が災害だ。こんなものではすまぬよ」
……それ、大丈夫なの?
地震や竜巻と一緒に旅するって事でしょ? 考えただけで恐ろしいのですが。
「何だか背中が寒くなってきましたね」
「朝だからか……冷えるな」
ルーベルさんもハワード様も、とうとう現実逃避、始めました。
今は考える事はしないでおきましょう。
いい頃合いにお湯が沸いたようで、カップスープとサラダ、ベーコンエッグのオープンサンドで朝ごはんにする。
私は塩こしょう派なのだが、醤油派が多かった。ルーベルさんはやっぱりソース派だった。
朝食を手早く済ませ出発の準備をしていると、ソラとレンくんがいち早く異変に気付いた。
「囲まれているな」
「アルクさん、周囲に魔物が展開しています。……恐らく群れです」
レンくんの報告にアルクさんはすぐに部下の騎士達へ指示を出す。事前に決まっていたのか、ハワード様と私を囲むように陣形が組まれた。
私の側にはソラがいるからか、ルーベルさんはハワード様の側で臨戦体勢だ。
「魔素の匂いにつられて来たのだろう。旨そうな者がおるからの」
そう言いながら何でこっちみるのかなぁ。怖いから止めてよ。
私とワサビちゃんがソラにへばりつくのを確認し、シャルくんが結界を解いた。
途端に今まで分からなかった妙な気配や、悪意のこもった視線を感じて悪寒がせり上がってくる。寒くも無いのに体がぶるりと震える。
「オレがやります」
そう言って前へ出たシャルくんの体からは、有り余る魔力が湯気のように立ち上っていた。




