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6話——そろそろ貞操の危機を感じますけども。

「アルクさん……遅いな……」


 聞いていた帰宅時間になってもアルクさんが帰って来ない。やっぱり師団を束ねる団長さんは忙しいのだろう。

 昼間、ハワード様やローガンさん達とこのお屋敷で食事をしてから様子が変だったし、心配だ。

 時刻を確認すると、もう間も無くダイニングの時計が零時を指し示そうかというところだった。

 私が座っている席の真ん前には、彼用に作った夕食が置かれている。もちろん私が作った物だ。

 メニューは、煮しめに、彼が好きな角煮、小鉢をいくつかと味噌汁といった和定食だ。

 色々と話したい事もあったから帰りを待っていたのだけれど……今日はもう難しいかもしれない。こんなに遅くなるって事は、きっと疲れているだろうし。

 そんな心配をしながら日付が変わるまで、しかもご飯を作って待ってるだなんて……はたから見たら新妻みたいだ。

 自分でそんな事を考え、恥ずかしいやら恐れ多いやらで、慌てて雑念を振り払うように頭を振った。


 明日にしようと諦めかけた時、外から馬の蹄と嗎が聞こえて立ち上がった。

 玄関で執事に迎えられたアルクさんの元へ行くと、外套を預けながら驚いた表情で私を見る彼と目が合った。


「えみ。こんな遅くまで……まさか待っていてくれたのか?」


 まだ起きていた私に驚愕した様子だったが、それ以上に私がアルクさんの姿に驚いてしまった。

 身体中が土埃にまみれ、腕や足に擦り傷や切り傷まであったのだ。それにいつもよりずっと疲れているように見える。


「アルクさんどうしたんですか!? 怪我してるじゃないですか!!」

「あぁ……ちょっと訓練で、ね。全部擦り傷だから、心配ないよ」


 師団をまとめ上げる団長さんでも泥まみれになる程の激しい訓練て一体……。

 他の団員が死んでしまうのでは? と、心配を通り越して恐ろしくなる。


「えみこそどうしたんだ? こんな時間まで」

「あ、夕食を作ったので。すみません、私は先に頂いてしまいましたが……」

「それはもちろん構わないが」


 ダイニングの入り口まで並んで歩き、テーブルの上に置かれたラップの掛かった器を見て、アルクさんは嬉しそうに破顔した。

 この世界にラップなど存在しない。もちろん日本の技術の賜物だ。


「えみの味が恋しかったから嬉しいよ。ありがとう」

「いえ、そんな……色々聞きたい事もあったのですが、今日はお疲れでしょうし、またにしますね」

「いや、私も丁度説明させて欲しいと思っていたんだ。えみさえ良かったら、少し話そう」


 そう言ってからアルクさんは自分の姿を見下ろし苦笑を浮かべた。


「すまないが、シャワーだけ良いだろうか」

「はい。では、談話室で待ってますね」


「彼女に羽織る物と温かい飲み物を」と執事に声を掛けると、アルクさんはシャワー室へと向かった。



 ハーブティーを飲みながら、一人談話室のソファでくつろいでいると、ふと左手の薬指で光るリングが目に止まった。許可なく外して良いものか分からず、結局つけたままになっている婚約指輪だ。アルクさんの手にも同じ物が付いていた。

 そこではたと思う。

 あれ? よくよく考えたら、こんな時間にこんな格好で男の人待ってるのって、普通に考えたら不味くない?

 これ絶対リア中の所業だよね?

 異世界(こっち)の恋愛事情なんて知らないけど、周りには婚約者だと思わせてるし、既成事実があってもちっともおかしく無いのでは?


『彼は猫の皮を被った猛獣です。油断してると骨も残さず喰われますよ』


 いつぞやのハインヘルトさんの言葉が思い出されて身震いした。

 執事は出て行っちゃったし、これってもしかしていよいよ貞操の危機じゃ無いですか?

 やばい! 急に変な汗が!!

 彼に限ってそんな事、とは思いつつ部屋の中を無駄にうろうろしていると、遂に控えめなノックが!

 びくりと肩を揺らし狼狽えていると、シャワーを終えて爽やかさを纏ったアルクさんが入って来た。


「待たせてすまなかった」

「いっ、いえ!! お仕事お疲れ様でしたっ!!」


 夕食は? と聞くと、後でゆっくり頂くと言われてしまった。もう少し時間が欲しかったところだが仕方ない。

 隣に座るアルクさんに緊張しながらお茶を淹れカップを差し出すと、「ありがとう」といつものスマイルが向けられる。

 ただでさえ無駄にうるさい心臓が更に大暴れしているのを感じながら、優雅な所作でカップを傾ける彼を見た。左手のリングがやけに光って見えてしまい、慌てて視線を逸らす。


「何から聞きたい?」


 聞き惚れてしまいそうな声でそう聞かれて、思わず自分の左手を見る。


「えと、じゃぁ婚約の件から……」


 アルクさんは少し困ったように眉尻を下げると微笑んで頷いた。


「会議中の件でもう気付いたとは思うが、ツェヴァンニ大臣を中心に複数名の大臣達に、えみを通してソラを懐柔しようとする動きがあった」


 ツェヴァンニ……あの口髭大臣の事ね!

 ソラが忠告していたにも関わらず誓約書まで準備済だったのだから、これはもう確信犯だよね。


「私は休暇で領地に帰省していた時からハワード宛に報告書を上げていたのだが、あいつが最初に懸念した事でもあったんだ」

「そんなに前から……」


 ワサビちゃんと契約を結んだ時にアルクさんに言われていた事だった。

 精霊だけならまだしも、ソラ…ホルケウは風の精霊を統べる存在。そんな地上最強の一角が小娘を主にしたのだ。利用しない手はないと思うだろう。思わないで欲しかったが。


「このまま城に置いておけばソラがいるとはいえ、えみに危険が及ぶかもしれないと考えた。そこでこの屋敷に白羽の矢が立ったんだ」

「なるほど。でも、婚約者でなければならなかったのは……」

「都内に家を持つ事を許されるのは役職がつく者のみ。同居出来る人間も限られる。レンのように身元引受人か家族、または家族になる事が決まっている者。これに例外はない」

「それで婚約者……作戦の内だったと言う訳ですね」

「作戦……確かにそうだ。……だが」


 更に近くなった距離感にハッとしたのも束の間、アルクさんが私の左手に自分の手を重ねてくる。


「私は本気だ。えみさえ頷いてくれれば、今すぐにでもハワードに許可証を出して貰うんだがな」


 薬指のリングをなぞられて、幾何(いくばく)かおさまりつつあった鼓動が盛り返してくる。


「取らないでいてくれた事……嬉しいよ」

「かっ…勝手に取るのは……まずいかと、思ったので……」

「えみのそういうところも、好きだよ。相手を思いやれるその心配りが本当に素晴らしいと思う」


 いえいえ。日本ではこれを『空気を読む』というのです。


「これ以上えみとソラに、もちろんワサビにも窮屈な思いはさせたくなかった。城にいれば私やハワードの目の届かない所も多い。えみを危険な目にあわせる前にどうしてもこちらへ連れて来たかった。城ではどこで誰に話を聞かれるかも分からないし、相談も出来なかった。勝手な事をして申し訳ない」


 伏し目な貴方も絵になりますね。

 イケメンは何をしててもイケメンみたいです。


「そんなっ! アルクさんにはきっと考えがあるんだろうと思っていたので。……まぁちょっとびっくりはしましたが、私達の為にありがとうございます」


 アルクさんはどこかほっとした様に微笑むとすんなり手を離してくれた。


「その…私の契約者の件はどうなりますか?」

「契約が成立している以上どうする事も出来ないし、そこはハワードに任せて問題ない。えみは心配しなくていいよ」

「アルクさんやレンくんが怒られたりはしませんか?」

「大丈夫。安心して」


 良かった……

 お屋敷の皆んなにまでお咎めがあったらどうしようかと思っていたから、それが無いと分かっただけでも不安の種は一つ減った。


「昼間、ハワード様が言ってた事は冗談ですか? 大真面目ですか?」


 アルクさんは小さくため息をつくと一度視線を落とした。


「残念だが大真面目の方だ。ああなると九十五パーセント実現する。……すまない。私の力不足もあって取り消せそうにないんだ」

「そうですか」


 まぁそうだろうとは思っていたので、これは確認のつもりだ。

 アルクさんに私が密かに書き溜めていたノートを見せた。もうすでに三冊目に突入している。

 ページを捲りながら、アルクさんが驚きに目を丸めている。


「これは…———」

「実はワサビちゃんに先生になってもらって、食材の勉強をしてるんです」


 さすが風の精霊。とっても物知りなのです。

 ソラにもと思ったが、面倒くさいと言われたのと、ワサビ先生がとっても優秀なので助かっている。


「私が覚えているレシピを参考に、こちらの食材も使いながら調理出来ないか色々と考えてみました。これならこの国の人も抵抗は少ないんじゃないかと思うんです。……問題は私が調理したものを受け入れてくれるかどうかですけど……」


 何も言わずにアルクさんはページを捲っている。

 食材の名前、採れる時期、味、成分、摂取したときの効果など、色々と書き連ねてある。それらを参考にして、私の魔力を加えれば、滋養強壮や強化だけでなく、回復力を高める料理なんかも出来るのではないかと思っている。

 まだ試していないから全くの未知数だが。

 ノートを見せながらアルクさんに説明していく。直ぐに出発にはならない筈だから、第三師団の皆さんに試食してもらえないかという事もお願いしてみた。

 アルクさんはノートを閉じるとこちらへ視線を向けた。


「素晴らしいよ。ここまで考えてくれているとは思わなかった。正直驚いてる」

「ありがとうございます!」

「しかし、遠征にえみを連れて行くつもりはない」

「え……でも……」


 アルクさんはハッキリと言い切った。

 お互いの視線がぶつかる。彼の強い光を宿す青灰色に、私は何も言えなくなってしまう。

 無言でお互いの視線が絡まったまま、時を刻む秒針の音だけがやけに響いて聞こえた。

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