13話——ハプニングってこうも続くものですか。
ネリージャの脅威が去ったと思ったら、新たな怪物が現れた。
固まる私と守るように肩を抱いてくれるレンくん前には、見上げる程の巨大な白い狼が悠然と立っている。黄金色の鋭い瞳が真っ直ぐこちらに向けられ、言いようのない緊張感に指先すらも動かせない。
ネリージャに襲われた時よりも体がブルブルと震えているのは、それだけ本能でこちらの獣の恐ろしさを感じているからだろうか。
今度こそ終わったと思った。
せっかく異世界で第二の人生を謳歌しようと思っていたのに。まだまだ食べたい料理だって作りたいレシピだって沢山あったのに。
恋だってしたかったし、デートだって……ゆくゆくは大好きな人と結婚だってしたかった。
そんな漠然とだが抱いていた夢が、ここで潰えるのだと覚悟した。様々な思いが涙と一緒にポロポロと零れ落ちていく。
狼が一歩踏み出し、大きな鼻先がゆっくり近付いてくる。
「せめて噛まずに丸飲みでお願いします」と願った時、私の肩にしがみついていたワサビちゃんが飛び出した。
ふよふよと飛び上がり、あろうことか狼の鼻先へぴとっとくっついたのだ。
「うわ〜んホルケウ様ぁ~。もぅ駄目かと思いましたぁ~」
鼻先へわっしとへばりつき、えんえん泣きながら頬をスリスリしているでは有りませんか。
「へ?」
「は?」
「え?」
私、レンくん、アルクさんの声がハモって響く。
メアリはその時恐怖のあまり気絶していて、三人の完璧なハーモニーを耳にすることは無かった。
◇ ◇ ◇
「(動けない……これが恐怖なのか……)」
アルクとレンは、突如現れた巨大な狼を前にして、指の先すら動かせずにいた。
ネリージャとは何とか対峙したレンだったが、今、目の前にいる怪物は次元が違う。相手の放つ魔力を伴ったプレッシャーだけで身動きが取れないのは初めての事だった。
アルクに至っても同様だ。
二十五とまだ若いが、王宮の騎士団に入団し第一線で剣を奮って来た。レンの歳には戦場も経験していたし、魔物との戦闘も何度も経験済みだった。
それがこの様だ。
目の前でえみとレンが獣の脅威にさらされているのに、抜刀するどころか足を踏み出すことすら出来ない。この距離も既に獣の間合いに入っている。動けば死、それを体感させられ、何もさせてもらえない状況に絶望した。
自分の無力さが腹立たしく酷く虚しい。
獣が身動きする。
アルクですら二人の死を覚悟した時、ワサビが飛び出して獣にへばりついた。
極度の緊張の中のワサビの行動であったのだ。三人が間抜けな声を上げたのも無理はない。
◇ ◇ ◇
「ワサビちゃん……お知り合い?」
「四聖獣のホルケウだ。風を司る聖獣と言われてる」
まさかアルクさんが話してくれた、この地を守護しているという、あの?
誰も姿を見た者がいないと聞いていた為に俄には信じられなかったが、レンくんの緊張を含んだ声が目の前に悠然と佇む狼の存在の大きさを物語っている。
この獣が『ホルケウ』と言うことは、風の精霊であるワサビちゃんの上司という事だ。
私は改めて狼を見つめた。
真っ白で綺麗な毛並みは少し硬そうに見え、僅かに発光しているようにも見えた。
ピンと立った耳に通った鼻筋。こちらを見つめる黄金色の瞳は強さを感じながらとても美しく光っている。人間だったなら間違いなくイケメンだろう。
『神々しい』とはきっと彼の事を言うのだろうな。
「チビよ。お前はいつの間に主人を得たのだ」
ワサビちゃんと念話をする時のような、頭に直接響くような声だった。
ワサビちゃんはようやく泣き止み、涙を両手で拭いながら答える。
「えみ様は一人ぼっちだったワサビに名前と魔素をくださいました。だからお側にいると誓ったのです」
「ほぉ」
ホルケウさんの視線が再び私へと向けられ、何となくペコリとお辞儀しておいた。
「で? ぬしらはいつまでそうして縮こまっておるのだ。我にぬしらを害する理由は無い」
言われて初めて顔を見合わせると、自分達の状況を理解した。
レンくんは慌てて私を離して距離を空けると顔を背けてしまった。耳まで赤いのは私も同じだったから言わない事にする。
張り詰めていた空気が緩み、やっと深い呼吸が出来るようになってゆっくり立ち上がる。違和感の残る足に何とか力を入れて踏ん張った。
ワサビちゃんが私の肩へ戻って来ると、いつもの定位置にちょこんと座る。
「あの、ホルケウさん。助けてくれてありがとうございました」
「よい。チビを…ワサビを助けたまでのこと。礼には及ばぬ」
アルクさんが気絶したままのメアリを連れて側までやって来る。レンくんに声を掛け彼女を託すと、私の隣までやって来てホルケウさんに向かって最上礼を施した。
「四聖獣のホルケウ殿とお見受け致します。私どもはここ、アルカン領の一族、アルク・ローヴェン・アルカンと申します。二人の命を救っていただいた事、心より感謝申し上げます」
「よい、領主の息子よ。礼はすでに受けた」
「ホルケウ殿。突然で無礼は承知です。ですが情報が少な過ぎて正直困っています。無理は重々承知しておりますが、我々に少しお時間を頂きたい。場所を変えてお話出来ませんか?」
緊張して話すアルクさんが珍しく、二人のやり取りをレンくんと共に見守る。
ホルケウさんは一度私を見ると「いいだろう」と承諾してくれた。
ハンナさんとルファーくんの待つ丘の樹まで戻る事になったのだが、せっかく集めた木の実がネリージャ騒ぎで散々な事になってしまった。
私のかごは空っぽだし、メアリのかごも倒れた時に落としてしまい、半分以下になっていた。
せっかく来たのにとがっかりしていると、ワサビちゃんがホルケウさんにうるうるしながら「何とかしてくださぁい」と泣きついている。
ホルケウさんはハァと溜め息をついてはいたものの、なんと「これっきりだぞ」と言いながら風を使って落とした木の実を拾い集めてくれたのだ。しかもちゃんと籠に入れてくれるというサプライズ付き。
驚いたが、嬉しさのあまりワサビちゃんと大喜びしてしまった。
顔はちょっと怖いけど、とっても優しい上司のようだ。
樹の下に戻ると、心配したハンナさんとルファーくんが駆け寄ってきた。
ネリージャと戦った時の音や魔物の声がここまで聞こえていて、不安で不安でいても立ってもいられなかったようだ。
そして私達と共に現れた巨大な狼に、二人とも腰を抜かしてしまった。先程よりも体のサイズを小さくしてくれてはいるものの、初見ならやはりデカくて怖いようだ。
その後すぐにメアリも目を覚まし、ホルケウさんに驚き腰を抜かすという流れを終えて、皆んなが落ち着きを取り戻した頃、アルクさんが本題に入った。
因みに皆んなの手元には、メアリの淹れた美味しいお茶と私が作ったマフィンとクッキーが置かれている。
私は助けてもらったお礼も兼ねて、ホルケウさんにもそれらを差し出した。
最初ホルケウさんは「人の作ったものは喰わん」と言っていた。「不味い」からと言う理由かららしい。
しかし、ワサビちゃんが私のご飯はとっても美味しいからと勧めてくれて、少し考えた後にマフィンに口をつけたのだ。
ドキドキしながら見ていたが、成る程なと一人納得するとなんと完食したのだった。聖獣の口にも合ったようで、ホッと胸を撫で下ろした。
「して、領主の息子よ。我に何を問う」
アルクさんは一度こちらを見ると、ホルケウさんへと視線を戻す。
「彼女、えみの事です」
分かってはいたが改めて話題にされると何だか緊張してしまう。だらけていた訳では無いけれども、何となく背筋を伸ばして座り直した。
「分からない事だらけで、何から聞いたらいいものかも分かりません。どんな些細な事でも結構です。『女神の代弁者』と言われる貴方なら、何か知っているのではありませんか?」
沈黙が重い。
何故かこの瞬間だけ、時間がゆっくり過ぎているような気さえしてくる。
ホルケウさんの視線が私へと向けられ、彼の声が頭に響く。
「この娘は『女神の使者』だ」




