89 真夜中の君 後編
「えっ……!!」
シアは目が点になった。耳だけでなく顔全体が熱くなっているのを自覚して、ここが薄暗いことに感謝した。
「な~んてね。冗談よ、冗談♪」
と、イタズラっぽく言って、エルはくるりと振り返った。が、その顔は少し赤らめているようにシアには見えた。ただの願望なのかもしれないが。
「わたし、この世界が好きなの」
夜景を眺めながら、エルがぽつりと呟いた。シアも、エルの隣に移動して夜景を眺める。
空も大地も黒で塗り潰されて、上下に濃さの違う闇が広がっている。上には薄い満天の星空。そして下にも満天の星空があった。まるで水面に映したように、下の濃い闇の中にも星のような輝きがあったのだ。おそらくそれはヒトの生活の灯り。灯りが集合している所には街があり、ぽつぽつとしかない所には村があるのだろう。
闇に満ちている世界。だが、これこそが夜のあるべき姿。それに抗うように灯る素朴な灯り。キレイと言わせるためだけのイルミネーションと違い、生きるための灯り。
「綺麗だね」
「そうでしょ♪」
エルは嬉しそうに言った。それから少し遠い目で夜景を見つめて、穏やかに微笑む。
「母が愛したこの美しい世界を、わたしは守りたいの」
「そっか……」
シアは、目を伏せて呟いた。遠回しにフラれたと思ってショックを受けた訳ではない。彼女の大切な人との死別を乗り越える強さが、シアには眩しかったのだ。
シアは、エルが母親をどれだけ大切に想っていたのかを知っていた。そして、おそらくすでに亡くなっていることも。カレルセにいたとき、真夜中の訓練のあとでよくエルが母親との思い出を楽しそうに語ってくれたからだ。それでも『おそらく』なのは、エルが言いたがらないのではなく、シアが聞きたがらなかったからである。
「ところで、シアの世界って本名をそんなに大事にしてないの?」
シアの気持ちを知ってか知らずか、エルは話題を変えてくれた。
「あっ、うん。ただの名前って感じ。学校の名簿とか、普通に本名だったから同級生全員の本名知ってるし、何なら小学校のとき自分の名前に込められた意味を発表する授業があったし」
「へぇ~。それで、シアにはどんな意味が込められてるの? ……あっ、ごめん。聞いちゃいけなかった?」
シアが微妙な表情をしたのを見て、エルはすぐに謝罪を付け加えた。シアは頭をかきながら答える。
「そんなことはないけど……、オレの名前は響きで決められただけで、特に意味は込められてないんだ。うちの両親はちょっと変わってて、名前は所詮個人を識別するための記号にすぎない。だから大人になってから自分の好きなのに変えればいい。みたいな考えなんだよ」
エルは驚いたような顔をした。この話をすると、大体みんなこの表情をする。そして哀れむような言葉だったり謝罪の言葉だったりが返ってくる。シアはそれが嫌で、あまりこの話をしたくなかった。名前に両親の愛情を感じられなくとも、同情も謝罪もいらない。だが、エルの驚きは全然違うモノだった。
「シアの世界って、名前を変えれるの!?」
「えっ……あっうん。あんまり詳しくないけど、役所に行って手続きをすれば変えれるはず」
「はぁ~、シアの世界とはそんなにも文化が違うのねぇ~。って当たり前か、世界が違うんもんね」
夜景に視線を戻して、エルはしみじみと呟くように言った。それから何気なく聞く。
「それで、シアもこの夜景を見に来たの?」
「あっ、そうだ……!」
プロポーズの衝撃で、来た理由をすっかり忘れてしまっていた。決して忘れたはいけないことなのに。
シアは表情を引き締めて、身体ごとエルの方を向いた。エルもシアの方を見る。
「エル様、さっきは本当にごめんなさい」
シアはしっかりと頭を下げた。
「さっき?」
「うん。ショックなことが立て続けに起こって、後悔だったり罪悪感だったりで頭ん中がぐちゃぐちゃになって、それでエル様は何にも悪くないのに、八つ当たりして、それにひどいことまで言ってしまって……本当にごめんなさい」
「ああ、そんなことゼンゼン気にしてないわよ。急に真剣な表情になるから何かと思ったじゃない。ああービックリしたー」
あっけらかんとエルが言った。
「へ……?」
シアは思わず顔を上げた。エルはにこやかに笑っていた。本当に気にしていないようだった。
「それにしても、ちょっと見ないうちにすごく強くなったわね。剣も上達してるし、魔力もビックリするほど増えてる。救済の武具があれば、今のわたしと良い勝負ができるかもね♪」
「あ、ありがとうございます、姫様」
戸惑いながらのお礼を受けて、エルは突然ムッと口角を下げた。
「エルでいいわよ。堅苦しいのはスパティフィラムだけで十分。様付けなんて、スパティフィラムかカレルセのみんなからしかされないからなんだかむず痒いのよ」
「でも、マギアの姫様なんでしょ?」
「そうよ。わたしはマギアの王ダインの娘。だけどマギアじゃ、未成年はみんな分け隔てなく子供って扱いだから、様なんて呼ばれることないの」
「?」
シアは首を傾げた。
「マギアじゃ、王族の子供でも貴族の子供でも平民の子供でも、同じ学校に通って、おんなじように学んで遊んで、同じく未来の可能性は無限大。流石に自分家の子供と他所の子供じゃ扱いは違うけどね」
シアは驚いた。シアの世界には王族や貴族はいない。だがそれに代わる、いわゆる上流階級というモノが存在していた。そしてその子供たちは、往々にして特別扱いを受けていた。金持ちの学校に通い、金持ちの道楽に遊び呆け、未来の可能性は上と下に最初から分断されている。個人の才覚ではなく、金や権力によって。カレルセほどではないけど、十分に不平等な世界。大なり小なりはあれど、それが世界の常だと思っていた。
「平等で、良い国だね」
シアは率直な意見を言った。しかし、エルは微妙な表情をした。
「一応、わね」
「一応?」
「自分家の子供は例外って言ったでしょ。貴族の子供と平民の子供じゃ、国から与えられるモノは同じでも、元々持っている下地の部分は大きく違うの。貴族の子供は何もしなくても貴族になれるけど、パン屋の子供が貴族になるのはものすごく大変。それは逆もそうで、パン屋の子供はそのままパン屋継げるだろうけど、貴族の子供がパン屋になるには大変。まぁ大半の子供の夢は貴族でもパン屋でもなくて、騎士団に入るか王になることなんだけど……」
「えっ、一般市民でも王様にもなれるの!?」
「ええ、誰でもなれるわよ。王と戦って勝って、王の証である初代王のマントを奪い取ればそれで王様。マギアは弱肉強食──実力がものを言う国だから、強ければそれでいいの。わたしの父も、長子じゃないけど王になってるし。まぁ、わたしたち王家には三種の神器があるから、王家の人間以外が王になったことはないんだけどね」
「三種の神器!?」
シアは目を輝かせて聞いた。神器や伝説など、そういうカッコいい単語には無条件で心惹かれる年頃なのである。
「そう。現王とその子供だけが使える最強の道具。救済の武具もその一種よ」
なるほど、と、シアは思った。全くの素人だったオレが、ちょっと訓練するだけで百体のゴーレムを倒せるほどに強くなれた救済の武具。それを元々強い王が持てば、誰も勝てないのは当然だろう、と。
「誰もが平等に将来の可能性があるからこそ、最終的になれるかどうかはその人の実力次第。でも、その実力も結局は生まれで大きく左右される。お金とか権力とか俗物的なモノじゃなくて、魔法とか魔力量とか、生まれ持った能力の差。それに、お金持ちの家なら栄養満点な食事に魔法や剣の家庭教師も雇えるから、その能力を存分に伸ばすことができる。かく言うわたしも、親が王様だからスパティフィラムみたいな優秀な執事が付いてくれて、カレルセに来ることもできた……。まぁ、どんな家に生まれるかは誰が決めることでもないだろうから、そういう意味では平等って言えるのかも知れないけど」
エルは苦く笑った。
「……それでも、やっぱり平等で良い国だとオレは思うよ」
それはお世辞ではなく、シアの本心だった。親が自分の子供を何より大事にすることは当たり前のことで、そうあってほしいと、シアは願う。エルの話を聞く限り、そう言った親の思いが根本にあって、各家庭の経済力の差によって実力の差が生まれる。権力や賄賂によって実力が正当に判断されないのであれば、それは許しがたいことだが、経済力で差が出るのは仕方のないことだと思う。それに経済力だけじゃなくて、教育への熱心さやそもそも子供に対する関心の度合いにもそれぞれの家庭で違いがあるだろう。これ以上の平等を求めるには、国が全子供を集めて管理する以外ないと思う。だがそれは、いくら『平等』という正義の旗を掲げていたとしても許されない行為だとも思う。
「うん。ありがと……」
エルは伏し目がちにお礼を言った。が、すぐに気を取り直して思い出したかのように言う。
「そんなことより! わたしもシアに大事な話があったんだ」
「大事な話!?」
シアは何故だか身構えた。確かに、急に真剣な雰囲気になられると何だか嫌な予感がする。悪いこともしてないのに、怒られるようなそんな気分。
「あのね。言いにくいんだけど、わたしの父がアデルから異世界の門のカギを奪い取っちゃったから、アデルをいくら脅したところで元の世界には帰れなくなったの」
エルが申し訳なさそうに言ったその瞬間、シアは頭の中が真っ白になって膝から崩れ落ちた。それは悪い予感などかわいいモノではなく、絶望そのものだった。
「だ、大丈夫、シア!?」
大丈夫ではなかった。カギの存在など知らなかったが、エルの言葉は、ヴェルフの作戦が不可能になったことを告げていた。そうなると残された元の世界に帰るチャンスは、姫の言っていた半年後の作戦だけ。
だが半年後! それでは遅すぎる!!
紫苑の病気が本当に魔力異常症だった場合、残された時間はおそらく半年前後。姫の作戦が成功して元の世界に帰れたとしても、間に合うかどうか怪しい。正確に言うと、約一ヶ月前に言っていた半年後なので約五ヶ月後なのだが、苦しんでいる紫苑のことを思うと、五ヶ月後も半年後もあまり変わらない。夢で見た紫苑の姿が、現実なのかもただの夢なのかもわからない。だからこそ、どうしてもシアは焦ってしまう。
兄として妹を助けなければいけないのは当然。それに弟妹を守るのはおばあちゃんとの約束でもある。そしてもう一つ、フィラが最期に言った言葉。
『それは妹に使ってやりな』
フィラの遺言とも取れるその言葉は、おばあちゃんとの約束と同じくらい神聖な約束になっていた。
フィラの死を意味のないモノにしないためにも絶対に果たさなければならないのに、このままでは…………。
シアのあまりの狼狽ぶりに、エルはハッとした。そうでないことを祈って、恐る恐る口に出す。
「……もしかして、シオンちゃんの余命って……」
シアはゆっくりと顔を上げると、虚ろな声で答えた。
「………………うん、あと半年しかないんだ……」
エルは絶句した。
「この世界に来る二ヶ月前、紫苑はいきなり倒れて、いろんな病院で診てもらったけど、元の世界じゃ原因は分からなくて、治せなくて…………。そんなときにオレはこの世界に召喚されて、救世主になる代わりにどんな病気でも治せる『国宝』を貰った。だけど昨日、ヴェルフたちにそのことを言ったら、おそらくそれは魔力異常症だって、余命は発症から一年だって言われて………………あとは帰るだけなのに……」
(シオンちゃんが不治の病って、本当だったんだ……。いつもウソばっか付いてるくせに、ウソであってほしいことだけ本当ってどういうことよ、クソアデル!!)
エルは心の中で悪態をついた。しかし、それを表面に出すことはなかった。今は姫であるべきだった。自信溢れる態度と立ち居振舞いで周りに希望を与える。それが姫のあるべき姿。
「安心なさい、シア。わたしは計画を早めることにしたの。この前は半年後って言ったけど、このままマギアに帰ってすぐに実行する。だからあなたはもうすぐ帰れるわ」
エルは自信に満ちた微笑みで、力強く言い切った。
「ホントに!?」
シアの顔がパッと輝いた。が、またすぐに曇った。必勝を期すために計画通りに遂行すると言っていたのに、それを自分のために早めてくれたのだと思い、シアは引け目を感じたのだった。自分だけのことなら、そこまでしなくてもいいと確実に止めていたが、これには紫苑の命もかかっている。だから何も言えなかった。その思いが顔に出ていたのか、エルはフフッと軽く笑った。
「大丈夫。あれからわたしが何もしてこなかったと思うの? そんなワケないじゃない。わたしもずっと訓練を積み重ねてきて、そして見つけたの。成人を迎えないでも王を倒す作戦を」
「お父さんを、倒す……?」
「そ、このままマギアに帰って、父に挑戦状を叩き付けて玉座をぶん取るの。そしたら、シアのことも獣人たちとのことも全部丸く収められるじゃない♪」
「でもさっきは説得するって──」
「するわよ、一応。ってか、これまでもずっと説得してきたわ。それでも父は止まらなかった」
エルはふいっと視線を逸らして、悲しそうに言った。だが次の瞬間には、拳を突き出して、ニヤリと不敵な笑みを浮かべていた。
「だからマギア流で行くことにしたの。元々マギア王家はそうやって王位を継承してきたし、小さい頃からわたしも覚悟はしてきた。それがちょっと早まったってだけだから、シアが気にすることはないわよ」
ただの言葉。それも成人もしていない小娘の、百戦錬磨の父を倒して玉座を簒奪するという途方もない言葉。作戦の内容も本当に成功するのかも定かではない。それでも姫の自信に溢れた言葉を聞くと、シアは心から安心することができた。黒よりも暗い闇で満ちていた心の中に、まばゆいまでの光が射し込んでくる。やはり彼女は希望の光だった。
シアはゆっくり立ち上がると、笑った。
「エルは凄いな……」
「何が?」
「何がって、全部だよ。マギアの王になろうとしてて、獣人連合と和平を結んで、カレルセの民も救おうとしてる。オレと同い年なのに、自分のことじゃなくて世界のことを考えるなんて、ホント凄いよ」
口にはしなかったが、最愛の母の死を乗り越えていること。それがシアにとって信じられないほどに凄いことだった。
「別に凄くなんかないわよ。だってわたし、姫だから」
エルは平然と言ってのけた。そこには何の衒いもなかった。
「それに世界のためなんかじゃなくて、それがわたしの姫道なのよ。とどのつまり、わたしはただ自分がやりたいことをやってるだけ」
やりたい、より、やらなきゃいけない、で行動してきたシアにとっては、姫の言葉は衝撃的だった。姫道などという謎単語が気にならないほどに。義務感や責任感ではなく、自分の願望で行動する。もちろんシアにも、オモチャやお菓子がほしい、など小さな願望はあった。だが、それ以上の願望など思いつかない。
シアが目を見開いて黙っていると、その表情が説明を求めているように見えたのか、エルは慌てて説明をはじめた。
「姫道って言うのは、大好きなお母様が遺してくれた真の姫になるための心得みたいなものよ」
エルは過去形を使わなかった。大好きだったお母様、ではなく、大好きなお母様と言った。それがシアには不思議でならなかった。聞いてもいいことのかわからないが、それでも聞かずにはいられなかった。何となくでしかないが、そこに大事な者の死を乗り越える秘訣のようなモノがあるような気がしたから。
「なんで、なんで過去形じゃないんだ?」
エルは一瞬首を傾げたが、すぐにあっ! となった。
「確かに亡くなっているけど、今もお母様のことを大好きなことには変わりないもの」
エルは、真剣な表情で言った。それから鎧の胸の部分に手を当てて微笑む。
「思い出せば、いつでもいつまでも変わらない笑顔でここに居てくれる。変わらないってのはすごく悲しいし寂しいけど……。それでも忘れちゃうよりかはずっといいわ」
それは決して強がりなんかではなかった。例え二度と会えなくなったとしても、思い出しさえすればもう一度会える。死別の悲しみを真っ正面から受け止め、乗り越えたからこそ、そう思うことができるのだろう。それが出来なかったシアには、その言葉は深く突き刺さった。それこそが本当の強さなのだとシアは思った。オレも逃げなかったら、そうなれたのかな。
「やっぱり、エルは凄いよ」
それは諦めた者の言葉だった。そうなろうと努力するのではなく、あの人は自分と違って凄いから、天才だから、と、諦めるための言葉。シアにはまだ、あの悲しみを受け止めるはおろか、挑戦しようと思うことすらできなかった。今はまだ。




