81 「オレの名前を呼ぶな!!」
「フィ、ラ……?」
シアが恐る恐る名前を呼んだ。しかし、答えが返ってくることはなかった。
頭の先にゾワッと怖気が走り、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「…………いやだ。オレを……僕を置いてかないで……!!」
シアは、真っ暗な絶望の闇の中で、うずくまって泣いていた。何も出来なかったあの頃と同じように。
大事な者との死別。それは、シアが自分の死より恐れていたことだった。だからシアは、大好きだったおばあちゃんと死別したあの日から、他人とは距離を置くようにして生きてきた。あの悲しみを再び味わうくらいなら一人で生きる。それが弱いシアの選んだ生き方だった。
それなのにフィラたち獣人は、シアが置いた距離など全く意に介さなかった。異世界から来た怪しいヒトにも普通に接してくれて、そしてとても優しくしてくれた。だから、シアもついつい心を許してしまった。そのつけが回ってきたのだ。それも最悪な形で。
自分が逃げたせいで、フィラが死んだ。彼女のあの優しさが、温もりが永遠に失われてしまった。
(この悲しみがイヤで逃げたはずなのに……。オレが逃げたせいでフィラが……。何が救世主だ……、やっぱりオレは、悪魔じゃないか……)
抱えきれない後悔と抱える必要のない自責の念、そしてどうにかなってしまいそうな悲しみ。深い絶望の中で、弱いシアの心は今にも壊れてしまいそうだった。際限のない自己嫌悪の奈落からシアを救ったのは、皮肉にもエヴァンスだった。
フィラが死んだことによって、魔法から解放されたエヴァンスは、剣を抜いているシアを見て、嬉々として叫んだのだ。
「やっと抜いたか! さぁ、今度こそ本気の殺し合いをしよう、シアァ!!」
その瞬間、シアの心は怒りに染まった。後悔も自責の念も悲しみも、ついでに理性までも、全てを塗り潰して怒りが広がっていく。そしてとうとう、体外にまで噴出した。
「オレの名前を呼ぶなぁアアアアア!!!!」
シアの怒りに呼応して、シアの身体からは炎のように真っ赤な魔力が迸った。
「そうだ、ようやくヤル気になったか! なら、俺も本気を出させてもらう!!」
エヴァンスは両眼をギラギラと煌めかせ、嬉しそうに笑った。それから鞘を腰に戻すと、グッと腰を落として刀を両手で持って構える。エヴァンスの全身が淡く輝き、足元からは風が吹き上がった。
シアは、フィラの体をそっと床に寝かせると、エヴァンスに向かって突進した。フィラの血で赤黒く染まったその姿は、まるで悪魔のようだった。その手に握られた抜き身の剣が、シアの心を写したように冷たく、鋭く輝く。
「いきなり不用心に突っ込んでるなんて、油断し過ぎじゃないのか?」
真っ直ぐ突っ込んでくるシアを見て、エヴァンスはニヤリと笑った。そしてその場で刀を振るう。一度ではなく、何度も。
「飛燕・連雀!!」
無数の見えない刃がシアに向かって放たれた。最初の魔力を飛ばしただけの素振りとは違って、それはれっきとした技だった。風魔法で強化した斬撃を飛ばす剣技。威力も速度も天と地ほどの差があるが、マイの放つカマイタチと同じ技である。
シアは速度を緩めなかった。むしろ速度を上げて、真っ直ぐ猛然と突っ込んだ。剣を振り回しながら一気に走り抜けると、エヴァンスに斬りかかる。
ガッキーン! 剣と刀がぶつかり合い、衝撃が空気を震わせた。その衝撃で、ポタポタとシアから血が滴り落ちる。見えない刃が、シアの全身を斬り裂いていたのだ。それでもシアは果敢に……いや、無謀に攻め続けた。迸る激情に駆られるように剣を振り続ける。
エヴァンスはそれを冷静に見切り、受け流して、返す刀でシアを斬りつけた。左腕が折れていてまともに動かせないシアは、エヴァンスの攻撃を回避するしかなかった。しかし、本気を出したエヴァンスの攻撃は、そう簡単に回避できるものではなかった。致命傷こそ避けているものの、フィラの血を上書きするようにマントがシアの血で染まっていく。
「オイオイ、そんなに無茶するとすぐに死ぬぞ?」
余裕の笑みを見せて笑うエヴァンスに、シアは怒りのままに吠える。
「うるさい!!」
エヴァンスの言う通り、シアの全身はあっという間にキズだらけになっていた。だが、シアは気にしていなかった。身体の痛みなど、心の痛みに比べれば取るに足らないモノだったから。それどころか、身体が傷つけば傷つくほど、心の痛みが軽くなるような気さえもしていたから。致命傷さえ受けなければ、どこをどれだけ斬られても構わない。エヴァンスさえ殺せれば、それでいい、シアはそう思っていたのだった。それがねじまがった贖罪だと知りながら。
「何をそんなに怒っている? あのアラクネがそんなに大事だったのか、シア?」
「黙れッ!!」
「ハハハ、どれだけ怒ろうが今の貴様など恐るるに足らん。だが、アンドレイとの戦いに向けて良い前哨戦になった。礼を言うぞ、シア」
「もう勝った気かッ!!」
「アハハハ、まだ分からないのか、シア? 致命傷だけは何とか回避しているつもりだろうが、俺が狙っていたのは最初からかすり傷を負わせることだ。例えかすり傷でもそれだけ激しく動き回れば、傷口は広がって出血は増す一方。どうだ、そろそろ動くのも辛く──」
勝ち誇った顔で得々と説明していたエヴァンスだったが、そこでおかしいことに気がついた。シアの動きは鈍るどころか、どんどんキレを増していたのだ。エヴァンスは顔をしかめた。
(バカな、これほど血を流していて、何故まだ動けるのだ!? すでに気を失っていてもいいはずだ。それなのに──)
エヴァンスは猛攻を防ぎながら、シアを観察した。そして目を見張った。
(血が、止まっている……!?)
シアの傷口は、広がるどころかすでに塞がっているようだった。
(まさか、そんなはずは……。確認しなければ──)
シアの無謀な一撃をかわすと、エヴァンスは刀を振るった。シアは避けようともしなかった。
シアの頬に赤い線が入り、ピッと血飛沫が飛んだ。しかし、血が流れたのは一瞬だけで、傷口はすぐに独りでに塞がった。まるで魔法のように。
(魔法……! そうか、シアは糸を操っていた)
よく見ると、傷口は血を吸ったような赤い糸で縫われていた。全身朱に染まっているせいで注視しないと分からなかったが、シアの身体は、乱暴に扱われたぼろぼろのぬいぐるみのように全身つぎはぎだらけだった。
(戦いながら傷口を縫っているのか!? いつの間にこれほど繊細な魔法を……)
ついさっきまで勝ち誇っていたエヴァンスの顔が、一瞬驚きと称賛に取って代わり、そしてすぐに怒りへと変わった。
(コイツ、まさかっ!?)
怒りと焦りがエヴァンスを突き動かした。なおも無謀に暴れ続けるシアの剣撃を受け流すと、エヴァンスはトドメを刺そうと一歩踏み込んだ。
「この死に損ないがァア!!」
エヴァンスの刀が空気を斬り裂いて、シアの首に迫った。それはかすり傷狙いなどではなく、一気に勝負を決めるための渾身の一撃だった。左腕を使えないシアでは、防ぐことのできない一撃。しかし、シアは折れているはずの左腕で盾を構える。その腕には、包帯のように糸がぐるぐる巻かれていた。
「そんな子供騙しでぇええ!!」
エヴァンスは構わず刀を振り抜いた。
ガッキーン!! と、これまでより凄まじい衝撃音が鳴り響いた。エヴァンスの刀は、シアの盾によって止められた。エヴァンスの両腕がジーンと痺れているのに、シアは何事もなかったように真っ直ぐ立っていた。
「なん、だと……!?」
トドメのつもりで放った渾身の一撃を受け止められたエヴァンスは、心身両面のショックで動けなかった。そこへ、間髪入れずシアの剣が戻ってきた。
「シネ」
死んだ──。迫り来る冷たい煌めきを見ながら、エヴァンスはそう思った。その瞬間、コアが蒼く輝き、エヴァンスの意思を無視して身体が勝手に動いた。大きく後ろに飛び退き、死すんでのところで死を回避した。
何が起こったのか、エヴァンスにも分からなかった。分かろうともしなかった。また負けた。その事実だけで頭が一杯だったのだ。誇りを捨てて敵に教えを乞い、心臓を捨てて新たな力を得たのに、ただ選ばれただけのクソガキにまた負けた。俺のこれまでの努力は無駄だったのか……? 孤児がいくら頑張ろうとも、選ばれた人間には勝てないのか……。
「そんなバカなことがあるはずがない! あっていいはずがないッ!!」
悲痛な叫びとともに、エヴァンスが見えない風の刃を放った。それをシアは簡単に回避する。それでもエヴァンスは止めなかった。狂ったように刀を振り続ける。
「死ね死ね死ね死ねェエエ!!」
床石が削れ、埃が舞い上がり、瞬く間にシアの姿は見えなくなった。それでもエヴァンスは風の刃を放ち続けていた。
埃の向こうから冷たい声が聞こえてきた。
「そんなモノ、魔力を感じれるようになった今のオレには通用しない。目を瞑ってたって避けられる」
その声はゆっくりと近づいてきているようだった。走るのでもなく回り込むのでもなく、殺意の嵐の中を真っ直ぐと。
「嘘をつけ! それは魔法の境地。この世界に来てたかだか数ヵ月の貴様に到達できるはずがない!! 嘘だと言えェエエエエーーーーッ!!!!」
鬼のような形相でエヴァンスが凄まじい叫び声を上げたそのとき、埃の中からシアが姿を表した。闇雲に振っていたエヴァンスの刀を盾で受け止めて、剣を振るう。エヴァンスはとっさにコアを光らせた。ピカッと閃光が炸裂し、シアは目が眩んだ。
「うっ……」
シアが目を開けたときには、エヴァンスの姿はどこにもなかった。シアは迷わず壁の大穴に向かい、眼下に広がる森の中を見た。枯れて茶色に変色している木々の間に、豆粒ほどのエヴァンスの姿があった。
「逃がさない……」
シアはそう呟くと、何のためらいもなく飛び降りた。
それを見て、エヴァンスが高らかに笑った。
「アハハハ!! かかったな、クソガキ! 空中でコレが避けられるかーーッ!!」
そう叫ぶエヴァンスの身体が激しく輝きはじめた。それは膨大な魔力が放つ輝きで、朝陽も霞むほどだった。これほどの魔力、いくら強くなったシアでもまともに喰らえばひとたまりもないだろう。だが、シアは平然と答えた。
「だから飛び降りた」
シアは、重力に引かれるままに速度を上げて落下していく。
エヴァンスは、落下しているシアに左手を向けて、狙いを定める。全身の輝きが左手に集まっていく。そして叫んだ。
「跡形もなく消え去れェエエエエ!!」
世界を染色するほどの強烈な光が炸裂し、ついで質量を感じされるほどの光の塊──レオナルの槍が、シアに向かって放たれた。
ほぼ同時に、シアの背中から、まるで天使のような白い翼が生えた。それは、本物の翼ではなく糸で創った翼だった。レオナルの槍を受け止めようとは、受け止められるとはシアは考えていなかった。そこで、世界が染色される一瞬前に、魔法を発動させていたのだ。
シアは、バサッと翼を羽ばたかせた。糸の翼では流石に飛翔することは出来ないが、落下速度を落とすには十分だった。そのせいでレオナルの槍はシアの数十センチ下の空間を貫き、要塞の外壁を消滅させた。そのままの速度で落下していればシアも跡形なく消滅していたであろう。
エヴァンスは膝から頽れた。
「ふざけるな……。俺は何十年も努力して、こんな物にまで頼ったのだぞ。なのに何故勝てない! 貴様らはただ選ばれただけなのに……! ふざけるなッ!!」
地面を叩いて喚くエヴァンスの背後に、シアは処刑人のように立っていた。役目を終えた翼から糸を伸ばし、樹に巻き付けて一気に移動したのだ。
「どうでもいい」
シアは冷たく言い放った。そして無防備なエヴァンスめがけて剣を振り下ろした。




