70 逃げた先
シアは、真っ暗闇の中を懸命に走っていた。恐怖しかないあの場から逃げるために。一秒でも早く、一ミリでも遠くに、と焦る心の中で、免罪符のようにサムからの命令を呟く。
(サムに頼まれたんだ、援軍を呼ばなきゃ……)
だが、シアは本当はわかっていた。マイが要塞を攻撃した今、わざわざ援軍を呼びに行かずとも向こうからやってくること、それを理解した上で、サムが自分を逃がすためにわざと援軍を呼んでこいと命令したこと、そしてこのままだとサムもフィラも殺されてしまうだろうことも、全てわかっていた。
それでも、殺気をたぎらせたサムとフィラ──初めて見る本気の二人と、そしてその二人をいつも通りの余裕の笑みで圧倒するマイの姿は、シアにとって恐怖でしかなかった。親の喧嘩を目の当たりにした子供のように、その場にいるだけで心が押し潰されそうだった。だから、シアは何をすることもできず、その場に居続けることすらできず、思わず逃げ出してしまったのだった。
これでよかった、これが正しい選択なんだ。全力で逃げるために、シアは自分にそう言い聞かせようとしていた。オレなんかが残っても足手まといにしかならないし、結果は変わらない。それは勇気ではなく無謀、勇敢ではなく蛮勇だ。だからこそ二人はオレを逃がしてくれたんだ。三人で一緒に死ぬくらいなら、一人でも生き延びた方が良いから。あの二人もそれを望んでいるはずだ。それに、オレは『国宝』で紫苑を治さなきゃいけない。だからこれで……。
しかし、ご託を並べれば並べるほどシアの足は遅くなり、そしてとうとう完全に止まってしまった。
逃げなきゃいけないとわかっているのに、シアは闇を一心に見つめて、動けなくなっていた。そこには、小さな子供が立っていた。
それは、泣きじゃくっている小さな自分だった。心の大穴から這い出してきた小さな自分。おばあちゃんが亡くなったあの日、心どころか身を抉るような悲しみに襲われ、延々と泣きじゃくっていた。このまま泣き続けていたら藍と紫苑を心配させて、おばあちゃんとの約束を守れない。だから心の大穴に閉じ込め、ムリヤリ約束で蓋をして封印したあの日の自分。
(ああ…………そうか──)
シアは、それが幻影だと一目で理解していた。だが、無視できなかった。これまでにも何度も這い出してきた幻影。その度にシアは幻影と向き合い、後悔しないように選んできた。それが正しくはないと思いながらも。
『もうこの悲しみに耐えられるようになったの?』
幻影が、いつものように泣きながら聞いてきた。シアもほとんど泣きそうな顔で首を左右に振った。追い討ちをかけるように悪魔が囁く。
(このまま生き延びたとしても、お前は一生後悔し続けるんじゃないか? だったら一緒に──)
最後まで聞くことなく、シアは逃げ出した。目の前の幻影に背を向けて、来た道を全力で引き返す。重りのように心にのしかかっていた迷いがなくなったおかげか、足取りはすこぶる軽かった。
「──ッ!!!? バカ、なんで戻ってきたの!!」
「お前がおったところで勝てる相手とちゃう!! ただの無駄死にや!!」
フィラとサムが絶叫した。シアも負けじと絶叫する。
「サム! 後ろッ!!」
シアに気を取られているサムに、マイが背後から襲いかかろうとしていたのだ。
「戦闘中によそ見は厳禁よ♪」
飛び上がりながら穏やかに言うと、マイは強烈な蹴りを繰り出した。サムはシアの声に反応し、とっさに防御姿勢を取った。全身に力を込めて、さらにこん棒で身体を守る。
ドンッ!! と、身体の芯まで響くような重い衝撃がサムの右半身を襲った。マイがこん棒ごとサムを蹴り飛ばしたのだ。サムの巨体がサッカーボールのように吹き飛び、岩壁に背中から衝突した。そのままずり落ち、尻餅をつく。
「サムッ!!」
「ええから、早よ逃げ……」
座り込んだままのサムが弱々しく言った。もたれていなければ、座っていられるかも怪しい。
「言葉を捨てれれば、もう少し勝負になったのに」
マイはがっかりしたように言うと、フィラを見た。
「あなたたちももういいわ、愛弟子が戻ってきたから♪」
バイバイと手を振りながら、マイが何気なく言った。
フィラは顔を歪めて、マイを睨んだ。サムが戦闘不能になった今、残された手は十体同時の特攻しかなかった。糸を放ちながら接近し、そのまま体当たりで捕まえる。アタシとメガラクネたちの距離が近づけば操作の精度も上がるし、十方向から仕掛ければ一体くらい!
「シア! アタシが時間を稼ぐから早くッ!!」
フィラは叫ぶと、メガラクネたちを操作し特攻しようとした。そのとき、不意にシアが叫んだ。
「フィラ! 剣が飛んできてるッ!!」
「なッ!?」
フィラは目を見張った。左右から空飛ぶ剣が迫っていたのだ。その速度はまるで流星のようで、フィラを乗せたメガラクネ以外の九体はすでに斬られたのか、ばらばらと崩れはじめていた。
(しまった……)
あまりの速さに、フィラは心の中でそう呟くことしかできなかった。次の瞬間、左右から剣が襲いかかり、フィラを乗せた最後の一体を斬り刻んだ。
フィラは、死んだと思ったが、それどころか落下もせずにその場に浮かんでいた。
「えっ……!?」
三人とも目を剥いて驚いた。すると、マイがあっけらかんと言った。
「こんな真ん中で倒れられたら邪魔じゃない。だから、倒れるなら向こうでね♪」
マイが指を指揮棒のように振ると、フィラはそのままサムの横へと飛ばされ、ふわりと地面に下ろされた。
「さぁ、これで準備万端ね、シア♪」
マイは、シアを見て艶然と微笑んだ。いつ戻ってきたのか、その手には双剣がしかと握られている。
シアは、ごくりと生唾を飲み込むと、盾を構えて一歩前に出た。フィラとサムが、倒れたまま悲痛な声をあげる。
「シア、お願いだから逃げてよ……」
「元の世界に帰るんやろ、こんなとこで無駄死にしてええんか!」
マイは、倒れている二人には一瞥もくれず、呆れたようにため息を吐いた。
「わざわざ戻ってきたのに今さら逃げるわけないじゃない。逃げろ逃げろ言ってるけど、それは誰のためなの?」
マイの問いかけに、フィラは言葉を詰まらせた。代わりにサムが答える。
「……そんなん、あんたから逃げ切れる自信なかったから戻ってきたかもしれへんやん」
「それは……」
と言いながら、マイはゆっくりとサムを見た。
「……たしかにそうね。じゃあ、逃げたいなら逃げていいわよ、シア♪ 愛弟子だし、シア一人なら追わないわ♪」
「ホントかいっ!?」
フィラが目を輝かせた。
「ええ、ホントよ。最初から追うつもりなんてなかったし」
「恩に着るよ。シア、聞いただろ、早く逃げな!」
フィラが嬉しそうに言った。だが、シアは動かなかった。サムが怒鳴る。
「何してんねん、シア! ワイらのことはええからさっさと行かんかァ!!」
シアは、倒れているフィラとサムを見た。起き上がれないくらいボロボロなのに、それなのに自分を逃がそうと必死な二人の姿に、思わず体が震える。
(ごめんなさい、二人とも。だけど、オレはもう逃げない)
シアは心の中で二人に謝ると、マイに視線を戻した。
それは前向きな決意ではなく、どこまで後ろ向きな決意だった。シアにとっては、ここが逃げた先だったのだ。『死』によって大事なモノが永遠に奪われたときの、耐え難いあの悲しみから逃げるために、シアは約束も義務も正しさも……全てを放り出してここに逃げてきた。だから、これ以上逃げようがなかった。
「マイさん、お願いです。オレのことはいいから、二人を助けてあげてください。お願いします」
シアは、頭を下げて懇願した。
「……!?」
フィラとサムは絶句した。だが、マイはあっさりと拒絶する。
「イヤよ。私はそんなにお人好しじゃないもの。そもそも彼らが先に仕掛けて来たんだし、バケモノってばかにもしたし、それにシアは知らないだろうけど、この世界じゃ戦いに負けたら殺されても文句は言えないのよ」
シアは、フゥーと大きく息を吐くと、力の限り叫ぶ。
「だったらオレも逃げない! 二人だけでは絶対に死なせない!!」
「そうこなくっちゃ♪」
と、マイは楽しそうに笑った。だが、フィラとサムは真っ青になった。
「なんで逃げてくれないの……アタシはまた……」
「アホ、なんで逃げへんねん」
フィラは目を大きく見開いて呆然とし、サムは苦々しく呟いた。
「当然よ。私が選んだ救世主だもの。こんなときに逃げ出すわけないじゃない♪」
フフンと鼻を鳴らして、マイが自慢げに言った。
「私が選んだ!? マイさんがオレを選んだの??」
思いもよらぬ言葉に、シアは驚愕した。
「そうよ。私一人じゃなくて、四天王の四人とダインで選んだの。だけど、女性は私一人だったから……っと、これ以上は言わない方がいいわね」
「なぜです、教えてください!! なんでオレを選んだんですかッ!?」
必死に頼むシアに、マイは怪訝そうに眉をひそめて聞く。
「選ばれた理由なんて、今さら知ってどうするの?」
「えっ?」
「だってそうでしょ、もう選ばれてるんだもの。この世に生まれた理由と一緒で、知ったところでどうしようもないじゃない?」
「それは……」
シアは言い淀んだ。今まで漠然と知りたいと思っていたが、改めて指摘されると確かにその通りだった。選んだ張本人に言われたのは、ちょっとムッとするが。
「でもそうね、私に勝てたら教えてもいいわよ♪」
その無理難題が、シアをハッとさせた。
(そうだ、マイさんに勝たなければ二人を救えないんだ。何か、何か作戦を……)
無謀だとわかっているが、シアはまだ諦めていなかった。すぐに頭を切り替えて、マイに気付かれないように目だけで辺りを素早く見渡し、勝つための作戦を考える。それに気が付いたのか、サムがマイに話しかけた。
「ところで、四天王最強がこんなところに一人で何しに来たんや?」
「私の目的?」
マイは首を傾げて、サムを見た。
「せや、冥土の土産に教えてくれへんか? やっぱり、ズートア要塞取り返しに来たんか?」
「違うわ。さっきまで落とされたことすら知らなかったし。私は、可愛い可愛いエ──じゃなくて、お姫様に『アデルの悪事の証拠を持ってきて』って頼まれたの」
「悪事の証拠って、新生レオナルの槍のことか!? せやけど、マギアはレオナル条約に参加してないんとちゃうんか?」
「そんなの知らないわよ。私はあの娘に頼まれたから取ってくるだけだもの」
シアのために少しでも会話を引き伸ばそうとサムはしているのに、知ってか知らずかマイはあっさりと答えた。困ったサムは、とうとう子供じみたことを言い出した。
「そんな頼まれたからって……、そんならあれか、その娘が死ね言うたら死ぬんか?」
「そんなわけないじゃない。バカなの?」
マイは、凍り付きそうなくらい冷たい目でサムを睨んで、冷たく言い放った。
「……すんません」
サムは思わず謝ってしまった。
「でもそうね。あの娘のことは好きだけど、私は別に依存してるわけじゃないから、また放浪の旅にでも出るのじゃないかしら」
マイは、何処か遠くの空を見ながら、しんみりと言った。それからすぐに、とびきりの笑顔でシアを見る。
「じゃ、そろそろヤろっか♪」
シアはうんと一つ頷くと、意を決したように救済の剣のレプリカを抜いた。ランタンの灯りしかない薄暗いの中でも、ゴン爺の打った剣は冷たい光を放った。それを見て、マイが感心したように言う。
「へぇ~、真剣で戦えるようになったんだ。あっ、それとも私が敵になったからもう殺しても平気って感じ? それだったら悲しいなぁ~」
それは両方とも違った。相手が他の誰でもないマイだからこそ──救済の剣でもかすりもしなかったマイだからこそ、シアは迷うことなく剣を抜いたのだ。今の自分が真剣で真剣に斬りかかったところで当たるはずがない、そう確信していた。
「本気で行きます。もし死んでも怨まないでくださいよ」
シアは不敵に笑って、軽口を叩いた。少しでも勝率を上げるための小細工である。
「心配しなくても、死んだらそこで終わり。怨むも怨まないもないでしょ。死んだことないから知らないけど」
「オレもそう思います」
シアも賛同した。しかし、その本質には天と地ほどの差があった。
「さぁ、殺す気でかかってきなさい。どれだけ剣が上達したか、師匠が試してしんぜよう♪」
マイは右の剣をシアに向けて、嬉しそうに言った。




