26 国境越え 後編
光を抜けた。
徐々に目が光に慣れ、外の光景がわかるようになる。要塞の屋上からは遠くまで一望できた。
「あっ……!」
光に慣れた目が映したその光景に、シアは思わず心を奪われた。
地平線の先に、どこまでも広がるような青々とした森。そこに限りない陽光が降り注ぎ、木々が生命の輝きを放つ。その輝きの中を鳥たちが羽ばたき、命を謳歌していた。世界は光で満ちていた、まるで天国のように。
シアは、その光景に惹き付けられるように歩き出した。ヴェルフも見張りの兵士たちも目には入らなかった。その目からはただ一筋の涙が零れていた。見張りの兵士たちは、あまりのことに呆然と立ち尽くしていた。彼らだけでなく、ヴェルフもそうだった。シアが何をしているのかわからずに動けなかった。
森に近づこうと、要塞の端に近づけば近づくほど視界が広くなる。すると、壊れた石柵の隙間から眼下に広がる一面の大地が目に入った。
しかしそこは、地獄のようだった。見渡す限りの荒れた大地。そこここで地面が大きく抉られ、無残に破壊されたゴーレムの残骸が無数に転がる。それに血の痕だろうか、至るところで地面が赤黒く変色していた。そこにどれほどの光が降り注ごうとも、何も輝かない。この広大な大地には草木の一本も生えておらず、生命の欠片すら感じられなかった。まさに地獄。すぐそこに天国のような森があるというのに……。
この地獄は、人間が戦争で作ったのだろう。そう思うと、シアは急に苦しくなった。そのままその場に頽れる。
「お、オイ! 大丈夫か、シア」
ヴェルフが心配そうに声をかけた。その声はシアではなく、見張りの兵たちをハッと我に返した。
「……じ、人狼だーーーッ!!」
「警報を鳴らせッ!!」
突然の人狼の出現に、兵士たちはまだ色めき立っていたが素早く行動に移った。けたたましい警報音が鳴り響く中、武器を抜き、侵入者たちを包囲する。後方では弓兵たちが狙いをつけていた。
「観念しろ! 貴様らは完全に包囲された。大人しく降伏するなら命だけは助けてやるぞ!!」
隊長が型通りの降伏勧告を叫んだ。ヴェルフが不敵にニヤリと笑った。その口元からは恐ろしげなキバがのぞく。
「その程度の数でどうにかできると思っているのか? 俺は、人狼だぜ」
ヴェルフは、低く唸るように言った。その唸り声に、兵士たちは気圧された。無意識にじりじりと後退する。
「ク、クソォ! 弓隊、射てッ!!」
隊長の号令で、弓隊は一斉に矢を放った。ヴェルフは倒れているシアの前にスッと入り込んで、矢を全て打ち落とす。絶技と呼べるその華麗な剣さばきに、弓隊は射つのを止めた。隊長が、目を剥いて叫ぶ。
「何をしている!? もっと射たんかァ!!」
「ですが、矢の残りがもう……。先の戦闘で消費した分の補給がまだで……」
「クッ……もういい! 弓隊は下がれッ!!」
兵士たちは慄然とした。俺たちは援護もなしにアレと戦わないといけないのか、と。
その隙に、ヴェルフは左手に持っていたロープ付きの剣を要塞に突き刺した。ガッキーーン!! と、鋭い音を響かせ、剣は深く深く突き刺さった。その音は、ついでにシアも現実に引き戻した。
「す、すいません。ちょっと……ぼぉーっとしてました」
シアは、涙を拭いて立ち上がった。ヴェルフは、前にいる兵士たちを警戒しながら、肩越しにチラリとシアに視線を送る。
「ようやくお目覚めか。もう大丈夫なのか?」
「はい、大丈夫です」
シアは、自分に何があったのかよくわかっていなかった。それでもこれ以上ヴェルフに迷惑をかけるわけにはいかなかった。
「じゃあ剣と荷物は任せたぞ。俺は、アイツらを黙らせてくる」
ヴェルフは荷物を置いて、包囲の一番厚い部分に向かって突っ込んでいった。
「ヒィィ! き、来た!」
「ビ、ビビるな! 敵はたったの二人だ!!」
隊長の叱咤は、自身に向けたものでもあった。彼もまた、迫ってくる人狼が怖くて怖くてたまらなかったのだ。だが内心はどうであれ、隊長を任されている以上、強気でなければいけない。
「人狼から先にヤる。囲んですりつぶすぞォ!!」
隊長の号令で、ヴェルフを中心に包囲が狭まっていく。だが、ヴェルフは意にも介さなかった。わざわざ包囲の中心で足を止め、四方八方から襲いかかってくる兵士たちをばったばったとなぎ倒していく。ヴェルフは約束を守るために、剣は防御のためだけに使い、拳と蹴りで兵士を倒していた。
隊長の命令を無視して、十数人の兵士たちがシアに近づいてきた。
「へっへっへ、あんなバケモノと戦えるかってンだ。それにひきかえ……こっちのガキは俺たちにビビってさっきまで泣いてやがった」
「こっちのガキもバケモノと同じ侵入者だ。どっちを殺しても手柄にゃあ変わんねぇ」
「あのバケモノが強けりゃあ強いほど、その仲間を殺した俺たちの株が上がるってもんヨ」
兵士たちは下卑た笑い声を上げながら、逃げ道を塞ぐように広がり、じりじりと間合いを詰める。彼らは人狼に恐れをなして、弱そうなシアに狙いを付けたのだ。
シアは敵を睨み付け、フゥーーーっと大きく息を吐いた。
(オレは、ここを任されたんだ!!)
シアはカバンを置き、それから鞘をくるんっと一回転させて、構える。救済の武具に叩き込まれた隙の無い構え。救済の武具に操られて、何百、何千と繰り返してきたその動きは、完全にシアの身体に染み付いていた。
「来いッ!!」
兵士たちはひるんだ。さっきまで泣いていたガキのくせに、隙の無い構え。剣を腰に差しているのに、なぜか鞘を構えている。そしてバケモノのように強い人狼の仲間。シアの全てが、兵士たちにとっては不気味でならなかった。
「へへへ……こんなガキが強いわけがない。ハッタリに決まっているゼ」
兵士の一人が自分に言い聞かせるように呟いた。
「そうだ! ハッタリに決まってる!!」
その呟きを信じたバカがいた。
「それにそんな武器じゃあ誰も殺せねぇぜ!!」
その兵士は、叫びながら剣を振り上げ、一気に飛びかかった。ほとんどやけくそだった。シアは冷静に兵士の動きを見切り、兵士の首が来るであろうところに鞘先をスッと置いた。空中で身動きが取れなかった兵士が吸い込まれるように自らの喉を差し出した。
「ぐえっ!!」
と、短い悲鳴を残して、床にひっくり返った。ひくひくと身体は動いているが起き上がる気配はない。どうやら気絶しているようだった。
「バカが! 先走りやがって!」
「だがバカのお陰で奴に殺す気がないことがハッキリした。全員で一気にヤるぞ!!」
「まぐれで一人倒したからって、チョーシに乗ンじゃねぇぞ!!」
死にはしない。その事実が兵士たちを活気づけた。兵士たちは武器を構えて、再びシアに近づきはじめた。だが、シアにそれを待つ通りはない。シアは一番端の兵士に狙いを定め、ダッと走り出した。走りながら、救済の武具での戦い方をイメージする。
一対百のドミニクの上級試験をクリアしたシアは、多数の敵との戦闘に慣れていた。敵の数が多ければ多いほど、守りに回ればそのまま手数の差で押し負ける。だから、決して足を止めることなく動き続け、局所的に一騎討ちの状態を作り、短い時間で確実に一人ずつ倒していく。それこそが、何度も何度もドミニクのゴーレムに泥だらけにされて、シアが見つけ出した攻略法だった。
「お、俺!?」
狙われた兵士は、ビビりながらも迎え撃とうとしていた。シアの動きに合わせて、剣を振り下ろす。シアはそこで一気に加速した。一応盾で身体を守りながら、鞘を一直線に伸ばし、一本の矢のように兵士に突進する。
剣が振り下ろされる前に、シアの鞘が敵を捉えた。ドンッ!! と兵士は吹き飛ぶ。
「まぐれじゃねぇ!!」
「コイツ強いぞ!?」
兵士たちは、驚きのあまり動きを止めた。こんなガキが、俺たち兵士より強いのか。俺たちと同じヒトのくせに……。
シアはそのまま駆け抜け、数歩行ってから振り返った。そしてすぐに敵の位置を確認し、走り出す。
「いくら強くたって、たかがヒトのガキだ。数で押せば勝ち目はあるッ!!」
「そうだ! いくらヤられたって死にゃあしねぇんだ、死ぬ気でヤるぞ!!」
シアは手応えを感じていた。これまでの訓練が確実に自分のものになっている手応えを。
(よし! 戦える。救済の武具じゃなくたって、オレは戦える!!)
彼らは兵士と言っても、所詮、隊長の命令を無視して弱い者を狙うような弱兵だった。それに要塞に突き刺した逃走用のロープとシアたちの荷物には目もくれず、まっすぐシアを狙ってくれた。そのおかげで、今のシアでもなんとか渡り合うことができた。
最後の一人を倒したシアは、肩で息をしながらヴェルフの方を見た。ちょうど、ヴェルフも最後の一人を倒したところだった。しかし、足元に転がる兵士の数には歴然たる差があった。
「よし、次が来る前に逃げるぞ」
ヴェルフが涼しい顔で言った。そのとき、東と西の両方の扉から増援の兵士たちが現れた。見張りの兵士たちと違い、全身を甲冑で包んだ重装備の兵士の大軍だった。その中で一人、軍服姿の男がいた。
「マイヤー、警報を切れ。獣人たちに異変を嗅ぎ付けられたらやっかいだ」
その声を聞いて、ヴェルフはニヤリと笑った。
「おっ、来たか。ちょっくらディクソンに挨拶してくるから、もうちょい頑張れよ、シア」
言うが早いか、ヴェルフはディクソンに向かって走り出した。
猛スピードで迫ってくる人狼を見て、ディクソンも走り出した。走りながら、懐から一本のナイフを取り出す。
次の瞬間、剣とナイフがぶつかり合った。ぎりぎりと擦過音を響かせ、二人は鍔迫り合う。力比べはヴェルフの方が優勢だった。ヴェルフの剣がジリジリとディクソンに近づいていく。
「よお、この距離じゃアンタの得意なナイフ投げも使えないだろ?」
「あいにくだが、この格好でナイフを投げるつもりはない。戦闘服を着ていないのでね──」
ディクソンは言いながら、スッと力を抜き、ヴェルフの剣を受け流した。力が流れ、ヴェルフの上体が前へと崩れる。
「今はコレ一本しかないのです!」
その顔を狙い横一閃、ディクソンがナイフをひらめかせた。のけ反ってそれをかわすのは不可能だった。ヴェルフはさらに前へと、ナイフへと向かっていった。当たる寸前でガクッと身体を地面スレスレまで沈み込ませ、繰り出された白刃の下を潜る。そして、そのままディクソンの背後へと抜けた。
二人は鏡合わせのように同時に振り返り、さらに斬り結んだ。両者の間に無数の火花が散る。
リーチが長く重いヴェルフの剣撃を、ディクソンは巧みにナイフで受け流した。そして一瞬の隙を突いて、鋭い反撃をお見舞いする。
ディクソンの変幻自在の受けに、ヴェルフは機動力で対抗した。一気に突進し、切り抜け、間髪いれずにまた突進する。東階段からの増援をシアの方へ行かせないように牽制しつつ、高速移動しながら四方八方からディクソンに斬りかかる。ヴェルフがナイフの射程に入るのは、攻撃の一瞬だけだった。いくら受け流されたところで、ナイフの距離に居なければ当たることはない。
ヴェルフの高速の剣撃を全て受け流しながら、ディクソンは思い出したように言った。
「ところで、王への手紙を渡し──」
「やっぱり気づいていたか」
手も足も休めることなくヴェルフが遮った。二人は、目にも止まらぬ攻防を繰り広げながら会話を続ける。
「あの命令書、けっこーちゃんとしてたんだけどな」
「たしかに、あれは精巧な偽物でしたね。ですが、マギア王の使者が四天王でなかった時点でわかってました。一応王都に確認を送っていたのですが、こんなに早く馬脚をあらわすとは」
「で、あの手紙を返せってか?」
「いえ、あれはただの儀礼的な感謝状ですから、もう一枚書けばそれで済みます。そうではなくて、あのとき一緒にいた少年、救世主様ですよね? 名前はたしか……シア、でしたか?」
「せっかく麦わらを貰ったてぇのに、そっちも気づいていたのか……」
ヴェルフは残念そうに呟き、足を止めた。そして構えを変える。腰をグッと落とし、片手を地面につき、まるで本物の狼のような構えに。
「残念だが、シアはこんな最悪な国にゃあいられないってんで獣人連合国に避難すンのサ!!」
ヴェルフは全身をバネのように弾ませて、トドメの一撃を放った。ちなみにシアはそんなこと言っていない。
「それもいいのですが……」
ディクソンは、それすらも完璧に受け流した。そしてヴェルフの背後を指差して、至って普通に言った。
「彼、ピンチですよ」
ヴェルフは思わず足を止め、振り返る。
「はぁ?」
シアは、大勢の重装備の兵士に囲まれ、防戦一方、逃げ惑っていた。重装備の兵士は鞘で殴ったところでびくともしなかったのだ。
「ヤベェ! 忘れてた!!」
ヴェルフは、シアに向かって一目散に走り出した。ヴェルフが遠退くと、ディクソンはガクリとその場に膝をついた。
(あのまま続けていれば危なかった。人狼ヴェルフ、流石にこの姿では勝てないか……)
「ディクソン様、大丈夫ですかッ!?」
部下が慌ててディクソンに駆け寄った。ディクソンは、何事もなかったように立ち上がる。
「ああ。流石に人狼、今の我々が白兵戦で仕留めるのは難しいようだな」
そう言っている目の前で、ヴェルフがシアを取り囲んでいた重装備の兵士たちを、甲冑の上から次々と殴り倒していた。
「攻撃を止めて防御に徹するぞ。合図を出せ」
「むざむざ人狼を取り逃がすのですかッ!?」
「逃げるのであればそれでいい。我々の任務はこの要塞を守ることだ」
「ハッ!!」
部下は自らの盾と剣をガンガンガンッ! と打ち鳴らし、全軍に防御の合図を出した。兵士たちは一瞬偽計か、と疑ったが、合図を出している兵の隣にディクソンの姿を認め、すぐに攻撃を止め侵入者たちから距離を取った。扉の前に集まり、防御陣を組む。
「えっ? 兵士たちが、離れてく……? なんでッ!?」
「なんであれ、今のうちにさっさと逃げるぞ」
流石のヴェルフも、アリのようにわらわらと湧き続ける敵に辟易としていた。肉体的ではなく精神的に。殺さないように手加減をしながら戦う、というのは存外ストレスの溜まることだった。
「俺が殿をするから、シアは先に降りろ」
「ハイッ!」
シアは鞘を投げ捨て、カバンとロープを持って大急ぎで壊れた石柵のところまで走った。そして下を見ないようにロープを屋上から投げ捨てた。
ズートア要塞から垂れたロープは細く頼りなく、時折吹く突風にあおられ、ゆらゆらと揺れていた。まるで天国から地獄へと垂れる一本の蜘蛛の糸のように。しかもそれは、地獄まで届かない切れた後の糸だった。シアは下を見なくて正解だった。それを見てから降りるのは、常人には不可能である。
「バカな!? あんなロープでここから降りるつもりなのかッ! 自殺行為だ……」
「自殺にしてももっとマシな方法があるだろうに……」
兵士たちの驚愕の声が聞こえてきた。敵のことなのに、心配の成分が多分に含まれたその声を、シアは聞かなかったことにした。そして下を絶対に見ないことを心に誓った。
シアはロープをしっかりと握り、要塞の壁に足をつけて一歩一歩慎重に降りた。
『そうだ、壁に足をつけて一歩ずつ降りろ』
ドミニクの言葉がシアの脳裏によみがえった。
ドミニクの筋トレメニューにロープ降りはなかったが、ロープ登りがあった。ドミニクの造った高い土壁をロープで登るトレーニングなのだが、頂上に到着すれば当然降りなければならない。しかし飛び降りれるような高さではなかった。ドミニクの魔法があればどうとでも降ろしてもらえたのだろうが、ドミニクはそれをしなかった。『降りるまでがトレーニングだ』などと訳のわからないことを言うので、シアは自力で降りるしかなかったのだ。
(まさか、こんなところであの経験が役に立つとは……。ドミニクさん、ありがとうございます)
シアは、心の中でお礼を言った。
しばらくして、屋上からヴェルフの声が聞こえてきた。
「俺もそろそろ帰るわ。じゃあな、近いうちにここを落としに来るから覚悟しとけよ!」
それからすぐにヴェルフが屋上から顔を覗かせた。
「げっ、まだそんなとこかよ!?」
ヴェルフの驚いたような声に、シアは驚愕した。シアの体感では、もう半分以上降りていて、そろそろ終わりが来るはずだった。だが言われてみれば、屋上にいるヴェルフとそれほど離れていなかった。
これは時折吹く突風のためだった。シアは、突風が吹く度に必死になってロープにしがみつかなければならなかった。もし突風に吹き飛ばされでもしたら、まさに必『死』。そのせいでトレーニング時よりも降りる速度が格段に遅かったのだ。
「オイ、呆けてないでさっさと降りろ! 捨て台詞吐いちまったんだ、恥ずかしくて戻れねぇよ」
ヴェルフは、するするとロープを降りてきた。シアよりも何倍も速い速度、この分ではすぐにシアに追い付いてしまいそうだった。
「お、おい、アイツら、本当に降りてったぞ……」
「みすみす逃がしてたまるものか。引っ張り上げるぞ!!」
兵士の誰かが叫んだ。弾かれたように兵士たちはロープへと走った。しかし、
「止めろッ!!」
ディクソンの鋭い怒声が響いた。兵士たちは、その場に石像のように固まった。ディクソンの感情的な声を聞いたのが初めてなのもあったが、それよりも敵を逃がそうとしていることに唖然とした。そして、そのあとに続いたディクソンの言葉に戦慄した。
「わざわざ引き上げずとも、ロープを斬ればそれで終わりだ」
ゾッとするような冷徹で合理的な正論。その冷たい声は決して大声ではなかった。それなのにシアの耳までハッキリと聞こえた。その瞬間、シアの両目はこれ以上ないほどに開かれ、顔は死人のように色を失った。
「えっ!? ウソ……」
「おいおいおい、マジかよ、アイツ」
下を見なくてもわかる。この高さから落ちれば確実に死ぬ。人狼といえども即死だろう。
シアの頭の中を、走馬灯のように色々なことが凄まじい速度で駆け巡った。
どうすれば助かる、登るべきか降りるべきか、それとも壁に掴まるのか、その前に掴まれるのか……。どれも、無理だ。どうやったって助からない。どうやったって『死』。そもそもなんでこんな無謀な作戦を信じたのだろうか、代案なんかなくても無理なモノには無理と言うべきだった。ヴェルフはどうするつもりなのだろう。どうすればいい? どうすればいい? どうすればいい? どうすればどうすればどうすればどうすれば……。
ド ウ ス レ バ イ イ ノ ? ? ? ? ?
恐怖と混乱とが頭の中に渦巻き、シアはパニックに陥った。そのとき、全てを押し退けて二人の幼い弟妹の顔が浮かんだ。
(藍! 紫苑! そうだ……紫苑の病気を治すまでオレは死ねない!!)
その瞬間、プツリ! と、ロープが斬られた。ディクソンが投じたナイフだった。
「あっ……!」
重力が突然眠りから目覚めたように、二人は落下をはじめた。まさに天国から地獄。上が天国とはほど遠い状態だったことを差し引いたとしても下は紛れもなく地獄だった。
シアの頭は不可避の『死』に凍りついた。目の前が真っ暗になり、弟妹の顔も何処かへ消えた。
続いて身体が凍りついた。何の抵抗をすることもなく、ただただ落下していった。
次は心だった。肉体が『死』を迎える前に、その恐怖から逃げるために心が凍りつきはじめたのだ。完全に凍ってしまえば、奇跡的に助かったとしても二度と解けることのない心の『死』。
シアの心が完全に凍りつきそうになったとき、凍りついたはずのシアの耳に声が届いた。
「シア! 大丈夫だ、お前はロープを掴んでいるだけでいい。あとはオレに任せとけ」
ヴェルフの声だった。その声には不思議な響きと暖かさがあった。まるで、冬の終わりを告げる春の陽光のような、全てを解かす暖かさが。
その瞬間、シアの全てが解けた。そして、シアは『助かった』と心の底から信じることができた。
その間にも、二人はどんどん速度を上げて、落下していた。好転はおろか、悪化の一途を辿っているというのに、それでもシアは、何があってもロープさえ掴んでいれば助かるんだ、と信じ、死ぬ気でロープにしがみついた。
ヴェルフは、シアがロープを掴んでいることを確認すると、ロープごとシアを引っ張り上げた。
「シア! 次は俺に掴まれ。剣を借りるぞ!」
シアは、操られているようにヴェルフの命令に従った。死ぬ気で掴んでいたロープをポイっと投げ捨て、ヴェルフにしがみつく。ヴェルフはシアの腰から剣を抜くと、咆哮一声、渾身の力で要塞の壁に剣を突き立てた。
ズガガガガッ!! と激しい音を立てて外壁を斬り裂きながら、二人は落ちていった。突き立てられたシアの剣がブレーキの役割を果たし、徐々に速度も落ちていく。だが、その程度の減速ではまだ足りなかった。すかさずヴェルフは自身の愛剣を抜き、さらにブレーキを増やした。
「止まれぇええええ!」
ヴェルフの魂の叫びが轟いた。
「よし、もういいぞ、シア」
シアは、言われるがまま手をはなす。ポスンッ! と尻餅をついた。
「助かった、の……??」
シアは、茫然自失としていた。助かったのか、死んだのかもよくわからない。座ったまま上を見ると、少し上でヴェルフが壁にぶら下がっていた。
ヴェルフは壁に足をかけ、グッと力を入れて剣を引き抜くと、そのまま一回転して華麗に地面に降り立った。
「あーーークッソ! 俺の剣までボロボロじゃねぇか。ったく、ディクソンのヤツめッ!!」
ヴェルフは愛剣の悲惨な現状を見て、憎々しげに吐き捨てた。シアの剣は根本でポッキリと折れていたので、それに比べれば遥かにマシだった。
ヴェルフは、初めっからこの方法で要塞から降りるつもりだった。当初の予定では、シアの剣を突き刺せば事足りるはずだったのだが、ロープの終わりに到達する前に斬られたことと、落下時にシアと距離が離れていたことで、愛剣も使うはめになってしまった。こんなことなら初めっからシアをおぶるんだったと、ヴェルフは少し後悔していた。
「立て、シア。まだ終わってないぞ」
ヴェルフは、いまだにぼぉ~~~と座っているシアの頭をポンッと叩いた。
「へっ!?」
と我に返ったシアの目の前に、十数人の兵士がいた。
「なんであそこから落ちて生きているんだッ!?」
兵士たちも目を真ん丸にして驚いていた。いち早く正気を取り戻した兵士が叫ぶ。
「だが、下ならゴーレムを使える。早く召喚士に知らせるんだ!!」
シアは急いで立ち上がり、戦闘態勢を取った。剣を失ったが、鞘はもう一本残っていた。
「ゴーレムがなんだ! 何体でもかかってこいッ!!」
シアは吼えた。地獄への落下を乗り越えた今、シアに怖いモノはなかったのだ。しかし、
「よし! ……逃げるぞ!」
と、ヴェルフは一目散に逃げ出した。ヤル気満々のシアを担いで。一瞬の間をおいて、兵士は叫んだ。
「……に、逃がすなァー! 追えー!!」
ヒトの脚力で人狼に追い付けるはずがなかった。兵士たちの頑張りもむなしく、ヴェルフの背中はどんどん小さくなっていった。




