表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔術師学校異聞録  作者:
第2話 埋火
5/18

「先生、お客様です」


 受付の声に、薬研やげんに集中していた視線を上げ、アンナはゆっくりと部屋を出る。

 待合室には、見覚えのない赤毛の男が立っていた。男は、魔術師学校の教員と名乗った。教え子のことで確認したいことがある、との用件に、思い当たる患者のいないアンナは首をかしげる。


「生徒の名は、ルーカス・イワニカ」


 1年ぶりに聞く名前に、アンナは目を見開いてケイン教官を眺める。その名はもちろん知っているが、今いる場所は魔術師学校などではないはずだ。


「教員として放置はできない状況なんで、申し訳ないけど、直接話を聞きに来た」


 ただならない言葉に、アンナの胸がざわつく。



 シーツを消毒液に浸け、ルーカスは息をついた。これまであまり身の回りのことをしてこなかったせいで、作業ひとつひとつの手際が悪い。床を掃こうと立ち上がった時、部屋の扉が開いた。

 滑り込んできた人影を見て、驚きで目を見張る。


「……消毒なんかは、普通の病院とかわりないのね」


 ルーカスの後ろの桶を見てつぶやいたのは、アンナだった。


「どうしてここに」

「ケイン先生に、居場所を聞いたの」


 あの人は。ルーカスは唇をかむ。一番知られたくなかった相手に。


「ルーカス。博物館の仕事を断って、魔術師学校に入ったって、本当なの」


 彼女の美しい切れ長の目が、まっすぐに彼を見る。

 ルーカスは覚悟を決めて、その目を見返した。


「そう、そして今は、ここ――王宮の医務所で見習いとして働いている」

「博物館の研究員は、あなたの天職だったのに、どうして」


 彼女の悲しげな瞳は、今でも簡単に自分を傷つける。ルーカスはもう一度唇をかむ。


「……自由に、なるためだよ」


 彼女の目が見開いた。




 病院の狭い用具室は、自分の職場のようでなぜか落ち着く。

 ルーカスに薬草茶のカップを手渡され、一口飲みながらアンナは微笑む。ルーカスは苦しげな表情で彼女を見ている。


「どうして、ここに来たんだ」


 彼の荒れた指先を眺め、アンナは小さく息をつく。


「心配だからよ」

「自分で決めた道だ。心配はいらない」


 聞いたこともない硬い声だった。アンナはじっと彼の目を見る。先に目をそらしたのは、ルーカスだった。


「このままでは、あなたの才が無駄になる。ケイン先生は、そうおっしゃっていたわ」


 ルーカスは黙っている。


「あなたは、それは魔術の才もあるかもしれないけれど、それより何倍も学問が好きで向いている。自分から、脇道にそれるようなことを選ぶ人ではないのに」

「……帰ってくれ」


 アンナはため息をつく。


「私の傷痕きずあとを治すために、治療の魔術を極める。あなた、そう言ったそうね」


 ルーカスは目を閉じる。あの人は。苦々しいつぶやき。


「私の言葉があなたを傷つけたのなら、謝るわ。私はただ、過去の負い目は忘れてほしかっただけなの。あなたがこんな、自棄やけのような選択をするなんて、思いもしなかった」

自棄やけ……」


 ルーカスは小さくつぶやく。


「……分からない」


呻くような声だった。


「貴方は、自由になってほしいと俺に言った。どうすれば自由になれるのか……考え抜いて、俺は、魔術の道に戻ることを決めた」


 彼の灰色の目が、激情をたたえてアンナを見つめる。


「自分の心を差し出しても、何もかも過去の負い目のせいにされるなら、俺は一体どうすればいいんだ。貴方の傷痕きずあとを何とかして治して、ただの男と女になって、もう一度あなたに愛してくれとすがるしか、ないだろう」


 かすれた、ささやくような叫び声。


「俺は貴方を、愛している。どうして分かってくれないんだ」


 アンナは、かすかに口を開いてルーカスの顔をただ見つめていた。



「それで、博物館の方は無事始まりそうなの」


 退学届けを提出しに教官控室を訪れたルーカスに、ケイン教官は声をかけた。


「おかげさまで、ポストを空けて下さっていました」


 ルーカスの清々しい表情に、ケインもほっと息をつく。


「良かったよ、君の本来の力が出せる場所に戻れて。彼女のおかげだな」


 途端に複雑な笑顔になる教え子に、ケイン教官は苦笑いする。


「仕事は順調でも、そっちはなかなか、か」

「そうですね。……相変わらず、ふられ続けています」


 あきらめないお前も大したもんだよ。ケイン教官の心の声。

 きっぱり彼女に拒絶され、魔術師学校の退学を決め、王宮の医務所を辞してからも、ルーカスはアンナの診療所に日参している。


「ど根性だな」


 色恋でそこまで粘ったことのないケイン教官は、心底感心する。

 ルーカスは自嘲気味に笑うが、その目には変わらず光がある。


「一目ぼれです」


 彼女とのかかわりを彼に聞いたとき、ルーカスは一言、答えた。


 22歳、就職を目前に控え、ルーカスは身上書づくりのため、自分の過去の記録を見直していた。そこで初めて、9歳の時に起こした火事で、少女に負わせた火傷がかなりの重症であったこと、消えない傷跡を残していたことを知った。居ても立ってもいられず訪れた彼女の仕事場で、医師の姿で現れたアンナに、ルーカスは一目で恋に落ちた。彼女のことを知れば知る程、ますます彼女に惹かれていった。

 アンナはいつも優しく接し、楽しそうに話はしてくれる。自分のことを嫌ってはいないと思うが、まったく相手にはされていない。これが現在のルーカスの感触である。

 初対面でプロポーズなどという悪手を打ったのが敗因だ、と、ケインには散々くさされた。仮の許嫁と記録にあったため、先走ってしまった。ルーカスは悔やんでも悔やみきれない。



「先生、いつものお客様です」


 受付からの笑いを含んだ声。もはや、スタッフ全員慣れっこだ。

 待合に出ると、花束を持った見慣れた人影。


「アンナ、おはよう」


 柔らかい笑みで花を差し出す。

 いつもきっかりと同じ時間。時計のように正確に、ルーカスは開所前の診療所にやって来ては、自分の仕事に間に合うように去っていく。休日には馬を駆って、近郊の田舎への遠出を誘いに来る。

 どうしたら良いのだろう。無下にするのも気が咎めるが、彼の人生を浪費している気がして、アンナは悩む。自分は彼の気持ちに応えることはできない。

 あの時きっぱりと断ったつもりだったが、彼は魔術師になることをあきらめただけで、自分のことはあきらめなかった。



 ケイン先生と再会したのは、偶然だった。アンナの行きつけの焼き菓子屋で、彼はなぜかお茶を片手にくつろいでいた。


「これはこれは、アンナ嬢」


 少し人の悪い笑みで、赤毛の青年は彼女を眺める。彼の隣には、まばゆいばかりの美人が座っていた。


「紹介するよ。妻のエリザベス。王宮魔術師だ」


 優雅に一礼される。にこりと微笑まれると、同性でもどきりとしてしまいそうだ。


「この方がその」


 なぜか自分を知っていそうな口ぶりに、ちらりとケインに視線をやる。


「失礼。わたくし、アニサカ家の者なのです。イワニカ家とも縁浅からぬ仲でして。イワニカの長男がご執心の娘さんについてのお噂はかねがね。……狭い世界で、お恥ずかしいです」


 アンナは顔を赤らめる。いったいどんな噂になっているのだ。

 その時ちらりと、美女の目の奥が光った。


「アンナさん。お医者様と伺っていますが」

「そうですが、何か」

「少しお時間いただけるかしら。ちょっと、殿方にはお聞かせできないご相談があるのですが」


 ぐいぐいと引っ張られ、カウンターの中に引き込まれる。


「リア。奥の部屋借りるわよ」


 店主に声をかけ、勝手知ったる素振りで進んでいく。




 連れていかれた奥の寝台のある部屋で、エリザベスは突然言った。


「アンナさん。ルーカスのこと、好きなんでしょう。どうして受け入れてあげないの」


 意表を突かれて、アンナは押し黙る。


「……ごめんなさい。私、油断すると人の精神の波長が見えてしまうの。先ほど、彼の話題を出した時に、見えてしまって」


 エリザベスは申し訳なさそうに頭を下げる。


「普段は、見えても黙って忘れるのだけれど、……あまりにも、辛そうな色だったから」


 魔術師、怖すぎる。でも、そうか。私の心の奥底は、そうなのか。アンナは一人納得する。


「自分では、自分の気持ちは、良く分からないんです。今、教えていただきました」


 全く知らない相手だから、かえって話しやすいのかもしれない。アンナは、自分の胸の内をのぞき込む。


「本当は、傷にとらわれているのは、私なのかもしれません。彼が私の傷を見るたび、自分の過ちを思い出して、辛い思いをしているのは、明らかなんです」


 アンナは無意識に右手で左手を覆う。エリザベスの瞳が痛ましげに光る。


「一緒に過ごせば過ごすほど、彼の中で、その辛さが育ってしまう。私たちは、一緒にいないほうが、いいんです」


 突然自分の双眸が滂沱と涙を流し出し、アンナは途方に暮れる。

 あれほど美しく優しい人から、あれほど激しい告白をされて、毎日花を贈られて、好きにならずにいられるはずはない。自分は、どうすればいいのだろう。



「……アンナさん。傷を、見せてもらえますか」


 彼女の様子に胸が痛み、ベスはつい声をかけた。治療魔術の私的利用はご法度だが、目くらまし程度の手伝いはできるかもしれない。

 アンナの背を見て、ベスは息をのんだ。

 むごい。それにしても、この中途半端な治療の跡は何なのだろう。


「アンナさん、どちらで治療を受けられたの」

「王宮の医務所です。14年前、9歳の時に」


 14年前。ベスは立ち上がる。


「少し、待っていて」


 アンナを残し、ベスは部屋を出た。



 戻って来たベスの後ろには、銀髪碧眼、輝くばかりの美貌の男がいた。この店は一体何なのだ、アンナは呆然と考える。男は、魔術師のナギ、と名乗った。


「……確かにこの治療は怠慢だ。しかし、今この傷に治療魔術を行うことは、生命維持ではなく、整容目的の治療となる。許可はできない」


 アンナの背を観察したのち、ナギは、淡々とした声でベスに告げる。


「でもお兄様、この傷は、14年前に王宮の医務所で治療されたものなのです」

「14年前」


 ナギの声に思案の色が混じった。


「……分かった。彼女の治療は、私が行う」

「お兄様が?」


 驚いたベスの声。


「予定を合わせて、医務所の治療室を一室押さえろ。ケイン、頼めるね」

「はい」


 いつの間にか背後にいたケイン教官が頭を下げる。アンナは事態が呑み込めずに目をまたたいた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ