中
「先生、お客様です」
受付の声に、薬研に集中していた視線を上げ、アンナはゆっくりと部屋を出る。
待合室には、見覚えのない赤毛の男が立っていた。男は、魔術師学校の教員と名乗った。教え子のことで確認したいことがある、との用件に、思い当たる患者のいないアンナは首をかしげる。
「生徒の名は、ルーカス・イワニカ」
1年ぶりに聞く名前に、アンナは目を見開いてケイン教官を眺める。その名はもちろん知っているが、今いる場所は魔術師学校などではないはずだ。
「教員として放置はできない状況なんで、申し訳ないけど、直接話を聞きに来た」
ただならない言葉に、アンナの胸がざわつく。
*
シーツを消毒液に浸け、ルーカスは息をついた。これまであまり身の回りのことをしてこなかったせいで、作業ひとつひとつの手際が悪い。床を掃こうと立ち上がった時、部屋の扉が開いた。
滑り込んできた人影を見て、驚きで目を見張る。
「……消毒なんかは、普通の病院とかわりないのね」
ルーカスの後ろの桶を見てつぶやいたのは、アンナだった。
「どうしてここに」
「ケイン先生に、居場所を聞いたの」
あの人は。ルーカスは唇をかむ。一番知られたくなかった相手に。
「ルーカス。博物館の仕事を断って、魔術師学校に入ったって、本当なの」
彼女の美しい切れ長の目が、まっすぐに彼を見る。
ルーカスは覚悟を決めて、その目を見返した。
「そう、そして今は、ここ――王宮の医務所で見習いとして働いている」
「博物館の研究員は、あなたの天職だったのに、どうして」
彼女の悲しげな瞳は、今でも簡単に自分を傷つける。ルーカスはもう一度唇をかむ。
「……自由に、なるためだよ」
彼女の目が見開いた。
病院の狭い用具室は、自分の職場のようでなぜか落ち着く。
ルーカスに薬草茶のカップを手渡され、一口飲みながらアンナは微笑む。ルーカスは苦しげな表情で彼女を見ている。
「どうして、ここに来たんだ」
彼の荒れた指先を眺め、アンナは小さく息をつく。
「心配だからよ」
「自分で決めた道だ。心配はいらない」
聞いたこともない硬い声だった。アンナはじっと彼の目を見る。先に目をそらしたのは、ルーカスだった。
「このままでは、あなたの才が無駄になる。ケイン先生は、そうおっしゃっていたわ」
ルーカスは黙っている。
「あなたは、それは魔術の才もあるかもしれないけれど、それより何倍も学問が好きで向いている。自分から、脇道にそれるようなことを選ぶ人ではないのに」
「……帰ってくれ」
アンナはため息をつく。
「私の傷痕を治すために、治療の魔術を極める。あなた、そう言ったそうね」
ルーカスは目を閉じる。あの人は。苦々しいつぶやき。
「私の言葉があなたを傷つけたのなら、謝るわ。私はただ、過去の負い目は忘れてほしかっただけなの。あなたがこんな、自棄のような選択をするなんて、思いもしなかった」
「自棄……」
ルーカスは小さくつぶやく。
「……分からない」
呻くような声だった。
「貴方は、自由になってほしいと俺に言った。どうすれば自由になれるのか……考え抜いて、俺は、魔術の道に戻ることを決めた」
彼の灰色の目が、激情をたたえてアンナを見つめる。
「自分の心を差し出しても、何もかも過去の負い目のせいにされるなら、俺は一体どうすればいいんだ。貴方の傷痕を何とかして治して、ただの男と女になって、もう一度あなたに愛してくれと縋るしか、ないだろう」
かすれた、ささやくような叫び声。
「俺は貴方を、愛している。どうして分かってくれないんだ」
アンナは、かすかに口を開いてルーカスの顔をただ見つめていた。
*
「それで、博物館の方は無事始まりそうなの」
退学届けを提出しに教官控室を訪れたルーカスに、ケイン教官は声をかけた。
「おかげさまで、ポストを空けて下さっていました」
ルーカスの清々しい表情に、ケインもほっと息をつく。
「良かったよ、君の本来の力が出せる場所に戻れて。彼女のおかげだな」
途端に複雑な笑顔になる教え子に、ケイン教官は苦笑いする。
「仕事は順調でも、そっちはなかなか、か」
「そうですね。……相変わらず、ふられ続けています」
あきらめないお前も大したもんだよ。ケイン教官の心の声。
きっぱり彼女に拒絶され、魔術師学校の退学を決め、王宮の医務所を辞してからも、ルーカスはアンナの診療所に日参している。
「ど根性だな」
色恋でそこまで粘ったことのないケイン教官は、心底感心する。
ルーカスは自嘲気味に笑うが、その目には変わらず光がある。
「一目ぼれです」
彼女とのかかわりを彼に聞いたとき、ルーカスは一言、答えた。
22歳、就職を目前に控え、ルーカスは身上書づくりのため、自分の過去の記録を見直していた。そこで初めて、9歳の時に起こした火事で、少女に負わせた火傷がかなりの重症であったこと、消えない傷跡を残していたことを知った。居ても立ってもいられず訪れた彼女の仕事場で、医師の姿で現れたアンナに、ルーカスは一目で恋に落ちた。彼女のことを知れば知る程、ますます彼女に惹かれていった。
アンナはいつも優しく接し、楽しそうに話はしてくれる。自分のことを嫌ってはいないと思うが、まったく相手にはされていない。これが現在のルーカスの感触である。
初対面でプロポーズなどという悪手を打ったのが敗因だ、と、ケインには散々くさされた。仮の許嫁と記録にあったため、先走ってしまった。ルーカスは悔やんでも悔やみきれない。
*
「先生、いつものお客様です」
受付からの笑いを含んだ声。もはや、スタッフ全員慣れっこだ。
待合に出ると、花束を持った見慣れた人影。
「アンナ、おはよう」
柔らかい笑みで花を差し出す。
いつもきっかりと同じ時間。時計のように正確に、ルーカスは開所前の診療所にやって来ては、自分の仕事に間に合うように去っていく。休日には馬を駆って、近郊の田舎への遠出を誘いに来る。
どうしたら良いのだろう。無下にするのも気が咎めるが、彼の人生を浪費している気がして、アンナは悩む。自分は彼の気持ちに応えることはできない。
あの時きっぱりと断ったつもりだったが、彼は魔術師になることをあきらめただけで、自分のことはあきらめなかった。
*
ケイン先生と再会したのは、偶然だった。アンナの行きつけの焼き菓子屋で、彼はなぜかお茶を片手にくつろいでいた。
「これはこれは、アンナ嬢」
少し人の悪い笑みで、赤毛の青年は彼女を眺める。彼の隣には、まばゆいばかりの美人が座っていた。
「紹介するよ。妻のエリザベス。王宮魔術師だ」
優雅に一礼される。にこりと微笑まれると、同性でもどきりとしてしまいそうだ。
「この方がその」
なぜか自分を知っていそうな口ぶりに、ちらりとケインに視線をやる。
「失礼。わたくし、アニサカ家の者なのです。イワニカ家とも縁浅からぬ仲でして。イワニカの長男がご執心の娘さんについてのお噂はかねがね。……狭い世界で、お恥ずかしいです」
アンナは顔を赤らめる。いったいどんな噂になっているのだ。
その時ちらりと、美女の目の奥が光った。
「アンナさん。お医者様と伺っていますが」
「そうですが、何か」
「少しお時間いただけるかしら。ちょっと、殿方にはお聞かせできないご相談があるのですが」
ぐいぐいと引っ張られ、カウンターの中に引き込まれる。
「リア。奥の部屋借りるわよ」
店主に声をかけ、勝手知ったる素振りで進んでいく。
連れていかれた奥の寝台のある部屋で、エリザベスは突然言った。
「アンナさん。ルーカスのこと、好きなんでしょう。どうして受け入れてあげないの」
意表を突かれて、アンナは押し黙る。
「……ごめんなさい。私、油断すると人の精神の波長が見えてしまうの。先ほど、彼の話題を出した時に、見えてしまって」
エリザベスは申し訳なさそうに頭を下げる。
「普段は、見えても黙って忘れるのだけれど、……あまりにも、辛そうな色だったから」
魔術師、怖すぎる。でも、そうか。私の心の奥底は、そうなのか。アンナは一人納得する。
「自分では、自分の気持ちは、良く分からないんです。今、教えていただきました」
全く知らない相手だから、かえって話しやすいのかもしれない。アンナは、自分の胸の内をのぞき込む。
「本当は、傷にとらわれているのは、私なのかもしれません。彼が私の傷を見るたび、自分の過ちを思い出して、辛い思いをしているのは、明らかなんです」
アンナは無意識に右手で左手を覆う。エリザベスの瞳が痛ましげに光る。
「一緒に過ごせば過ごすほど、彼の中で、その辛さが育ってしまう。私たちは、一緒にいないほうが、いいんです」
突然自分の双眸が滂沱と涙を流し出し、アンナは途方に暮れる。
あれほど美しく優しい人から、あれほど激しい告白をされて、毎日花を贈られて、好きにならずにいられるはずはない。自分は、どうすればいいのだろう。
「……アンナさん。傷を、見せてもらえますか」
彼女の様子に胸が痛み、ベスはつい声をかけた。治療魔術の私的利用はご法度だが、目くらまし程度の手伝いはできるかもしれない。
アンナの背を見て、ベスは息をのんだ。
むごい。それにしても、この中途半端な治療の跡は何なのだろう。
「アンナさん、どちらで治療を受けられたの」
「王宮の医務所です。14年前、9歳の時に」
14年前。ベスは立ち上がる。
「少し、待っていて」
アンナを残し、ベスは部屋を出た。
戻って来たベスの後ろには、銀髪碧眼、輝くばかりの美貌の男がいた。この店は一体何なのだ、アンナは呆然と考える。男は、魔術師のナギ、と名乗った。
「……確かにこの治療は怠慢だ。しかし、今この傷に治療魔術を行うことは、生命維持ではなく、整容目的の治療となる。許可はできない」
アンナの背を観察したのち、ナギは、淡々とした声でベスに告げる。
「でもお兄様、この傷は、14年前に王宮の医務所で治療されたものなのです」
「14年前」
ナギの声に思案の色が混じった。
「……分かった。彼女の治療は、私が行う」
「お兄様が?」
驚いたベスの声。
「予定を合わせて、医務所の治療室を一室押さえろ。ケイン、頼めるね」
「はい」
いつの間にか背後にいたケイン教官が頭を下げる。アンナは事態が呑み込めずに目を瞬いた。