後
内から切り裂かれた傷は、思ったよりも治りが遅い。怪我から1か月、見た目にはほぼ傷跡は無くなったが、身の内の重怠さは呪いのように残っている。
医務所の病室のベッドの上で、テオは薬湯を飲み干し息をついた。
病室の扉が開く。
目を向けると、そこにはニーナが立っていた。驚きでテオの顔はこわばる。
「テオ。傷は、もういいの」
心なしか硬い表情で、ニーナはテオのベッドの傍らの椅子に腰かける。顔を合わせるのは、ひと月前、自分が戦いの後ここで初めに目を覚ました時以来だ。あの時、彼女は泣いていた。
「……ほとんど治ったよ。もう何ともない」
掛け布団に目を落とし、ぼそぼそとテオはつぶやいた。ニーナの膝の上の、かわいらしい手が握りしめられるのが見える。
「テオ、ごめんね。ひどいことを言って」
涙交じりの声に、驚いてニーナの顔を見る。
「私のこと、助けに来てくれて、ありがとう」
テオは目を閉じる。
「……ニーナ。もうここには来なくていいよ」
テオの言葉に、ニーナの動きが止まる。
「俺たちは、もう会う必要はない」
テオが目を開くと、凍り付いていたニーナの顔に、苦しそうな笑顔が浮かんだ。
「……分かった。押しかけて、ごめんね」
ニーナが立ち上がろうとしたとき、呆れた声がかかった。
「いやちょっと待て、青少年。コミュニケーション不足が極まってるぞ」
赤毛のケイン教官が、開いた扉にもたれて佇んでいる。
「立ち聞きなんて趣味が悪いが、たまたまだから許してくれ。テオ、さすがに言葉が足りないぞ」
その言葉に、テオはこっそりと唇をかむ。
「ニーナさんに、後ろめたいことがあるんだろ」
教官の言葉に、テオはしばらく逡巡してから顔を上げ、意を決して話し出す。
「俺は、ニーナが白煉瓦亭に勤め出してから、ずっと近くで、様子をうかがっていた。俺の魔術の能力は、地面を通してどんな物音も聞き分けられるものだ。君の知らないところで、俺は君の生活を、覗いていた」
予想もしない告白に、ニーナの表情が固まる。
「どうしてそんなことしたか、説明しないとただの変態だろ」
再び、ケイン教官の呆れた声。
「……あいつ、地の精霊から、君を守るためだった」
ニーナの目がもっと大きく見開かれる。
テオが初めて地の精霊と接触したのは、幼いニーナがあの歌を歌った、7つの時だった。その時、あいつと戦い退けて、テオは自分には特別な力があると分かった。それから、自分なりにその力を研究した。生来のものと言われていた耳の良さも、特別な力と関係があるらしかった。右手で地に触れると、どこまでも遠くの声や音、物の振動が聞き取れた。
自分の中の特別な力が、魔力と言われるものであると知ったのは11の時だ。異様に耳がいい子供の話に興味を持った占い婆が、魔術師とのつなぎを取ってくれた。テオにとって、力をつけられるならばこれほどありがたい話はなかった。魔術師に弟子入りし、半年の勉強で入学試験を突破して、テオは魔術師学校の生徒になった。
7歳の出来事以降、ニーナの周りにあいつの気配を感じることはなかったが、テオには、いつか現れると分かっていた。
ニーナが踊り子を目指している。その話を母から聞いて、テオの胸はざわついた。あいつが、ニーナの声に引き付けられているのは分かっていた。彼女の声には、特別な力がある。もしも、歌い手として、彼女が歌い始めてしまったら。
ニーナが白煉瓦亭に入ってから、テオは東の通りに通い詰めた。通りの端の、立ち飲みの安い店で軽く壁に触れながら、彼女が白煉瓦亭で働いている時間を過ごす。
彼女に知られたら、疎まれるであろうことは明白だった。自分でも、自分の行動は気味が悪いと思う。でも、あいつは必ず現れる。音楽と近い場所にニーナがいる今、できるだけ近くで見守るしかなかった。
その頃から、ニーナの周りにたちの良くない精霊が時々現れるようになった。あいつの手下なのは明らかだった。
テオは、精霊を目で見ることができない。新入生のころから、散々修業したが、無理だった。精霊や悪霊の姿を捉えるには、地に手を付けて、耳を澄ませる。常に魔力を必要とし、彼女の周りを見守るだけで、彼の魔力はすり減った。学校の成績は落ちて行った。魔力が足りなくて練習不足。当然だった。
「それで、あの時、私を西の森に助けにきてくれたのね」
ニーナがつぶやく。
「……間に合わなかった。一番大事な時に」
3か月前、とうとうニーナを歌い手にしようという人間が現れた。何とかして邪魔をしなければならなかったが、ニーナのあまりに幸せそうな様子に、テオは二の足を踏んだ。自分が全力で守ってやれば、彼女は歌い続けられるかもしれない。テオは、学校を落第したら魔術師になるのはあきらめて、見えないように彼女の近くに居続けようと決心した。
だがその人間はあいつの手先だった。テオの限られた魔術では、それを読み取ることはできなかった。あの日、西の森の手前でテオはニーナの音を見失った。必死に痕跡を追い、たどり着いたときには、彼女は地底に取り込まれる寸前だった。
「……助けきれなかった。怖い思いも、痛い思いも、たくさんしたろう。結局、君を助けたのは、リアさんだ」
あの日、追跡に長けた黒犬の姿の雷獣と、浄化の炎を操る火トカゲの姿の炎獣を従えて、ニーナを救ってくれたのは、リア・ユシュツカという王宮の高位魔術師だった。魔術師学校でも伝説と化している、王国でも五指に入る凄腕の魔術師だ。
「俺は結局、役立たずのモグラのままなんだ。君に付きまとって嫌な思いをさせて、肝心なところでは守り切ることもできない。君のそばにいる、資格はないんだ」
テオの告白は、血を吐くような声で彼の胸から吐き出された。
突然、ニーナの両手が、テオの傷の残る左手を取った。テオの全身が固まる。
「テオ。あなたの魔術、痛いんでしょう」
戸惑いながら目をやると、ニーナの薄紫の瞳には、涙がたまっている。
「ケイン先生から聞いたわ。あなたの魔術は、自分が傷つけられないと、使えないものだと」
攻撃中和の魔術のことか。テオは一拍遅れて理解する。
テオの二つ目の特殊能力、攻撃中和とは、相手の魔術攻撃を身の内に取り込み、中和する拮抗魔術を即時に作成し、無効化するという能力だった。魔術攻撃には無数のパターンがあるが、テオはその全てに拮抗する魔術を身の内で作り出すことができる。魔術医療、防御魔術の分野では、その発展にこの能力を持つ魔術師の貢献が不可欠だ。彼の血液は、一滴で千金に値する。
ただし、取り込むと言っても攻撃を受ければ、通常と同等の痛みを伴う。また、拮抗魔術を作成するには、相応の魔力が必要となる。自分の魔力に比較し強大過ぎる攻撃を取り込んだ場合、中和しきれずにダメージを負う。
あの日のテオは、地の精霊の帳に捕らわれた後、その攻撃を身の内に取り込み、中和しきれずに身の内から裂けた。心の臓や、中心の大血管が裂けなかったのは、偶然の僥倖であったと思う。ほとんど意識を失いながら、彼は最後の力で、魔術師学校への転移魔術を発動させた。
「ずっと、私を守ってくれている間、痛い思いをしていたんでしょう」
それは。
テオは戸惑いながら考える。自分の限られた能力で戦うには、避けて通れない痛みだ。その程度で精霊や悪霊たちが葬れるのであれば、わけもない。確かに、何度かニーナの周りに現れた地の精霊の使い魔と戦っては来たが、テオの中でそれは当然の痛みだった。
「ずっとずっと、痛い思いをして私を守ってくれて、ありがとう」
予想外のニーナの言葉に、テオは身動きもできない。
テオの傷だらけの左手に、ニーナの唇が押し当てられる。彼女の双眸からこぼれる涙が、彼の左手を濡らす。知らずに、テオの顔にも涙が伝っていた。
あの、痛み。
それを、分かってくれる人がいる。
「テオ。これからも、私のそばにいてくれる?」
のぞき込まれた薄紫の瞳に、テオは呆然と見惚れている。
ケイン教官は、静かに病室の扉から歩み去る。
秋の重たい午後の日差しが、初めて重なる二人の唇を、柔らかく照らしている。
*
「落ち着いたかな。俺から少し、話をさせてもらうよ」
しばらくして病室に戻って来たケイン教官は、ニーナの隣に座り話し始めた。
「まず、ニーナさん」
彼女の前に、不思議な色を放つ石のついたネックレスが差し出される。
「これは、魔力から身を守る魔石だ。これを、身に着けていてほしい。君の声には、良いものも悪いものも、引き付ける力がある。特に、呪歌を歌う時には、強烈な引力が生まれるようだ。この石は、その引力を吸い取ってくれる」
「呪歌」
ニーナは首をかしげる。
「君の能力は、魔術学的には、『魔声』という。魔声は、それぞれの声に、その特性を最大限に引き出す旋律、『呪歌』が存在する。君の場合は、西の森で最後に歌った、あの歌だ」
あの、おばあちゃんの歌。
ニーナは思い当たりテオを見つめる。
「そう、だからテオは、君にあの歌を歌わないように言ったんだ」
テオは目を伏せている。
「それから、西の森のあの場所には、近づかないでほしい。あそこが地の精霊の巣の出口なんだ。あの広場には、魔力を増幅する作用が働いている。あそこで君が声を出すと、いつもの何倍もの引力が働く。精霊の魔力も増幅される。恒久結界を張ってはあるが、万一の事故は避けたい」
ニーナはうなずいた。
「テオ。君は、お説教だ」
赤毛のケイン教官の声は柔らかい。
「君は、とにかく言葉が足りなすぎる。ニーナさんに呪歌を歌わないように頼んだ時も、誤解を生んだ。今回の地の精霊との因縁も、もっと早く相談してくれていれば、俺たち教官や王宮魔術師が、手を貸すことができたんだぞ」
ケイン教官の手が、テオの頭をポンと叩く。
「もっと他人を信じるんだ」
テオの目が上がる。
「でも、俺の師匠には、地の精霊の話を最初にしたけど相手にしてもらえなかったです」
「うーん……?」
ケインの目が虚空を見る。
「……言いたかないけど、そのお師匠さん、ポンコツだな」
自分の技量で見えないものを、無いものとする人間は一定数存在する。テオの不幸は、初めにそのタイプの魔術師と当たってしまったことだろう。
「それは、大人を代表して、謝るよ。地の精霊の動きを追うのは、腕の良い魔術師でも難しいんだ。そいつを捕まえて戦うなんてのは、尚更さ。7つの子供がそんなことをした、という話は、信じない魔術師がいても、おかしくない」
ケインはがりがりと頭をかいた。
「さて、テオ。少し、練習だ」
ニーナとテオを見比べながら、ケイン教官はニヤリとする。
「テオ。お前、ニーナさんの踊り子デビューの日、見に行ったんだろ。どうだった」
テオの目が瞬く。
あの日のテオの視線を思い出し、ニーナは胸が苦しくなる。
「ケイン先生、そのことはもう」
「……とても綺麗でした」
ニーナの言葉をさえぎって、テオはぽつぽつと言葉を紡ぐ。
「俺、どうしてもニーナの周りに、悪い精霊がいないか見極めなくちゃって、初めはそればっかりでニーナの踊りを見ていたけど、途中から、ニーナがまぶしすぎて、見とれていました」
ニーナの顔が真っ赤になる。
「ニーナの歌声も、とても綺麗です。世界一だと思う。危ないから、あまり歌っては欲しくないけど、本当は毎日、聞いていたい」
テオは表情を変えずにニーナを見つめている。
ニーナはさらに顔を真っ赤にして、目には涙をためている。
(テオ。……こいつ、天性の女たらしの素質があるな)
ケイン教官は目を細めて、無口で物静かな教え子の横顔を眺めた。