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「……もしもし」
ささやくような呼びかけに、ケインはゆっくりと目を開け、あわてて飛び起きた。
いつの間にか、寝込んでしまっていたようだ。目の前には見慣れない人物が座っている。
「夏の終わりとはいえ、日が落ちれば少し冷えます。こんなところでお休みになっては、風邪をひきますよ」
柔らかい口調で、その人物は微笑んだ。それほどの年齢とは思えないが、蓄えられた長い髭や落ち着いた瞳には老成した空気が漂っている。長く垂らされた髪、ゆったりとした衣服は、ケインにはあまりなじみのない異国の風習を思わせた。
「……これは失礼」
ケインは礼を取る動きをしながら身構える。人の形をとってはいるが、目の前の人物の気配は人ではなく、かつ圧倒的な魔力を帯びている。今日は繊月、夜更けた頭上に月はない。あまり良い状況とは言えなかった。
「そのように用心されなくとも、大丈夫ですよ」
相手の微笑みが深くなる。ほのかに漂ってくるどこかで嗅いだことのある香りに、ケインは目を見開いた。
「貴方は、……槐の精?」
そう、とうなずく顔はひどくうれしそうで、ケインも知らずに微笑みを浮かべる。
「どうして私にお姿を」
「いえその、ちょっとですね……あなたが、地底の精霊に、取り込まれそうになっていたもので」
その言葉にケインの背筋に悪寒が走る。
「あなたにはたくさん守り手もいるようですし、余計なお世話かとも思ったのですが、今、あまり、気の流れも良くないようなので。何かお悩みなのか、ここの兄弟たちも、非常に気を揉んでいまして」
人の言葉を話せるのは、私くらいしかおりませんで。私も、得手とは言えないのですが。槐の精は少し困ったように笑う。
そもそも精霊が呪言以外の人語を解するということすら、知らなかった。木陰でベスと交わした言葉のあれこれを思い出し、ケインは思わず赤面する。
「……あなた方が、俺にそれほど心を砕いてくださるのは、何故なのですか」
思わず漏れ出たつぶやきだったが、本当に聞きたいことは別にあった。俺は、自分で思っていたほどあけっぴろげでも何でもないな。ケインは再確認する。
「奥様がご心配ですか」
槐の精はニコニコと言う。かなわないな、ケインは苦笑いしかできない。
「奥様に伝言があります。湖の主から」
「湖の主……?」
まさか。嫌な予感に思わず顔をしかめる。
「奥様のお父様と契りを結ばれている、水竜です。この湖に住まわれています」
やっぱり。ケインは頭を抱えたくなる。
「大丈夫ですよ。あの方はそれほど無粋ではありません。人語も操れないですし。お父様に、告げ口などされてはいませんよ」
「いや、それはそうでしょうけど、単純にものっすごく恥ずかしい……」
「主からの伝言は、『もちょっと自信をもって、声を張れ。小さすぎて、全然聞こえない』だそうです」
「小さすぎ」
ケインは気の抜けた声を出した。
「彼女の声は、私たちにはとても魅力的ですよ。ただ、とても遠慮がちで、聞き取りにくいのです」
その時ふいに強い風が吹き抜けた。
「ケイン」
聞きなれた声に、ケインは目を開きまばたきをする。大樹の葉に遮られ星も見えない暗闇に、白い肌と淡い金髪がわずかに浮かび上がっている。
「……月のない夜に一人歩きは危ないぞ」
「危ないのはあなたも同じよ」
自分が張った結界の中で、ベスは横たわったままの夫の頬に触れる。
「ごめん、ここまで寝こけるなんて」
「……夢から覚めたくなかった?」
寂しい声だった。
「いや。冥府で夢を見続けるには、いくらなんでも早すぎる」
自分の声の響きははっきりと空元気で、ケインは自分が嫌になる。
「……私が、あんなことを、言ってしまったから。……もう、帰って来ないかと」
「エリザベス」
ケインは、暗闇で表情の見えない妻の指を優しくつかむ。その手はひやりと冷たい。
「俺が君をうまく愛せていないとしたら、それは君じゃなくて、俺のせいだ」
彼女の指は優しく彼の手を握り返した。
「昔、他人との距離をいつでも完璧に保っていると、言われたことがある。言った相手は誉め言葉のつもりだったろうが、今の俺には堪えるよ」
話しながら、暗い夜の記憶を、ケインは呼び覚ましていた。一人で母親の帰りを待って過ごしたいくつかの夜。あれほど暗い夜は、あの後に経験したことはない。自分はじっと、一夜ごとに胸の中の母が黒く塗りつぶされていくのを見つめていた。母に恨みや憎しみを感じたことはない。あるのはただ、空虚さだけだ。あの時自分は、他人には無くてもあきらめがつく以上のことを期待してはいけないのだと思い知った。多分、今でも自分は、人より精霊との約束を信じている。
「俺が教師という仕事を好きなのはさ、思う存分相手に与えることができて、そして相手はいつか必ず通り過ぎていく。何も期待しなくていい、多分そこなんだろうな」
ケインはため息をつく。
「俺は恐れている。君に愛されたいと願ってしまうのが、怖いんだ」
でも、一方で自分は今、五感の全てでこの優しい指にすがっている。
彼女の指はいつも冷たい。そうさせているのは自分なのに、俺の胸は苦しくてたまらない。
「……無理を言わないで」
応えたのは、ささやくような声だった。
「そんなに、強がらないで。……私に、あなたを愛させて。強いあなたも、弱いあなたも」
「……」
ケインは黙って、ベスの冷えた指を両手で包む。自分の掌の熱が、彼女の指を早く温めることだけを願う。
その時、湖からざばりと水音がした。ケインは飛び起き、ベスを背に回す。数匹の光る使い魔が飛び回り、薄明かりに湖面のさざ波がきらめいた。
ぽっかりと浮かぶ影に、二人は息を飲む。
(水竜)
精霊の放つ淡い光に銀色の鱗をきらめかせ、何の色もない瞳が静かに二人を眺めている。槐の葉がざわりと揺れ、その葉擦れはケインの背を押した。
「ベス、竜に話しかけるんだ」
「でも」
「大丈夫。集中して、蹴りを放つ要領で気合いをぶつけてごらん」
「そんな」
ベスの声には狼狽がにじむ。あれがもしただの夢だったら。ケインの胸に、ほんのわずかな不安がよぎった。それから彼はニヤリと笑う。それならそれで、面白いじゃねえか。俺がこの子を守りきりさえすれば、万事解決だろ。
ベスは軽くうなずくと、静かに息を吸い、腰を落とした。背中に感じる彼女の闘気に、ケインは若干焦る。
「いや、さすがにそこまで……」
「破っ!!」
遅かった。背後から衝撃波が湖面を吹き抜け、ケインの頭は一瞬真っ白になる。
衝撃波は、水竜の鼻先を正面からとらえた。水竜の首がわずかにのけぞる。
水竜の瞳がぱちくりと瞬いた。次の瞬間、その口が静かに開き、まばたきの間もなく奔流が吐き出される。
自分とベスの防御壁が薄紙のように破られるのが、スローモーションで見えた。やってしまった、これは死ぬかもな。思うと同時に、ケインは小さな一の親友を放つ。ベスが彼女に引かれ溶けるように消える、その直前、無情な水流が彼女らを絡め取った。
ケインの背後から、無数の光が迸る。彼の使い魔たちは、自らの種族の最上位の存在へ躊躇なく突っ込んでいく。ケインが彼らの首尾を確認する間もなく、奔流は彼をも飲み込んだ。
風が頬を撫でる。開いた目の前には、降るような星空があった。それにしても風が強い。びゅうびゅうと吹き続ける容赦ない風に、ケインはたまらず目を眇める。それに、なんだか身体がぐらぐらする。何か不安定な硬いものの上で横になっているようだ。首を巡らすと、隣には、目を閉じたままのベスが横たわっていた。
その後ろに、わずかに白んだ地平線がはるか遠方に見え、自分たちが異様に高い場所に居ることに気づき、ケインは慌ててベスの腕をつかむ。使い魔たちがケインとベスに群がり支えてくれ、ケインはやっと息をついた。
「竜に乗っている……」
おとぎ話の世界の話だ。しゃらり。鱗の音で、なぜかケインには背中の下の竜が上機嫌であることが分かった。
水竜は、やがて自らの湖に着水すると、湖上をゆっくりと旋回する。いつの間にか目を開けていたベスを抱えてその背に座りなおし、ケインはみるみる明るくなっていく地平線を眺める。いつもの草原は、ほぼ対岸に見えた。顔を出した朝日を背に、草原に一本立つ槐の大木が美しいシルエットを描く。その下に、長髪をなびかせた長身の人影が手を挙げているのが見えた。その表情は見えないが、微笑んでいることがケインにはわかる。
ケインは思わず手を振った。何度も大木に手を振る夫を、ベスは少し戸惑った顔で見やる。
ケインにしか見えていないであろう姿に手を振り続けながら、ケインは思う。
これから、また暗い夜の記憶が自分を飲み込もうとするときは、あの大樹の木陰の暗闇で自分に触れた指を思い出そう。緊張と恐れで冷やされながら、自分を慰めようとしてくれた優しい指の感触を。
「ベス」
強い風にかき消されないよう、ケインは妻の耳元でささやく。ベスがくすぐったそうに首をすくめた。
「惚れた女の前で男が強がるのはさ、本能みたいなもんなんだ。子供っぽいとは分かってるけど、多少は大目に見てくれよ」
それから、万感の思いを込めてささやく。
「愛してるよ」
ふいに水竜の鱗がジャラジャラと蠢き、ケインとベスは真っ赤になる。
からかうような竜の笑い声は、ベスにもはっきりと聞こえたのだった。




