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ケインが、深刻な表情のベスから相談されたのは、マーガレットの15回目の命日が過ぎて少しした頃だった。
「アニサカ家を継ぐにあたって、水竜を引き継ぐか、その力がなければ、一線から引け……」
ケインは首をかしげる。
アニサカ家の後継者の伴侶となり、ケインが驚いた事実の一つなのだが、この家には、他家に真似できないいわゆる秘術はほとんどない。基本の魔術の質が卓越しているということらしい。加えて特筆すべきものと言えば、水竜の存在だ。
「竜って、『引き継ぐ』ようなもんなのか」
自分と使い魔の関係を考え、ケインは思わず尋ねる。魔術師と精霊の契約は、個と個で結ばれる。精霊の最上位である竜との契約は、世襲とは縁遠い存在であると思っていた。
「普通はありえないことのようね。でも、代々アニサカ家には、強弱はあるにせよ、竜とつながりを持つ者が必ず現れて、後継者となって来たの」
現当主のアーノルドは、5男坊だった。通常は養子に出されてもおかしくない末席に近い立場であった彼は、幼少時に水竜と強い契りを結び、アニサカ家を継いだ。
「私は私、お姉さまはお姉さま。得意なことは違っていても、認められる実力があればいい。私は完全な攻撃型で、オールラウンダーとは到底言えないけれど、そのことで、自分がアニサカ家の後継者足りえるか悩んだことはないわ。ただ、ひとつだけ、明らかに及ばないことがあるの。お姉さまは、竜に認められていらした」
彼女の緑色の瞳が厳しい色を帯びた。
「私の呼びかけに、竜は反応すらしなかった」
ベスは唇をかむ。
「私は、昔から自力で精霊を引き寄せられたことがないの。これは、努力でどうにかなるものなのかしら……」
基本的に努力で壁を乗り越えてきたベスは、珍しく縋るような目でケインを見つめた。
どうにかならなくもないかもしれないが。ケインは難しい顔をする。多分、問題はそこじゃないな。
(要は親父殿、ベスが心配なんだろ)
近接戦を得意とするベスに万一のことがないよう、無理な注文を付けて一線を引かせようとしているのだろう。ベスに次期当主たる実力が認められた以上、今後の怪我は婿がすればいいというところだ。
(相変わらず愛情表現がへたくそなんだよな……)
現アニサカ家当主、ベスの父親であるアーノルドは、見た目や噂でケインが思っていたより相当懐が深く、柔軟な人物だった。ただ、多分目に入れても痛くないと思っている末娘のことになると、常に柔軟とは言い難く、大体は娘を叱咤したりむやみに高いハードルを課したり、愛情は残念な形をとることが多い。またベスの方も生真面目で、父の言葉をそのまま受け取り真剣に悩んでしまうのだ。はたから見ているケインはいつも二人が気の毒になる。
精霊に好かれるにはコツがある。言いかけて、ケインは口をつぐんだ。おそらく、自分が精霊に好かれるのは、心をあけっぴろげにしているからだ。でもそれを告げることは、多少なりともベスを傷つけるのではないだろうか。
言いよどむ様子のケインを横目で見て、ベスは先ほどよりも深いため息をついた。
「ケイン。……あなたはいつも、肝心なことを言ってはくれないのね。分かっているわ、私を、傷つけたくないんでしょう。……大事にしてくれて、ありがとう。でも、私たち、このままずっと生徒と先生のままなのかしら」
ぞっとするような寂しい笑みがその美しい緑色の瞳に浮かんでいた。
ケインは言葉もなくベスを見つめる。
「時々無性に寂しくなるの。あなたは無限に優しいけれど、私は本当のあなたに触れるどころか、視界にも入れてもらえてはいない気がして。……私は、対等な人間として、あなたに愛されているのかしら」
ベスの絞り出すような言葉は、ケインには頭を殴られたような衝撃だった。
***
赤い玉はまごうことなく面白い奴だ。
オレが初めてアイツに見える形をとったのは、アイツにブチ切れたアーノルドに呼び出された時だった。赤い玉はオレを見た時かなりビビった顔をしていたが、オレの方はやつをよく知っていた。オレの住まいの近くで、前々から兄弟たちにちょっかいをかけていたヤツだ。
初めにアイツが住まいの近くに現れた時には、追い払ってやろうかと思ったものだが、湖畔の兄弟たちにアイツと遊ばせてくれとせがまれて、様子を見ることにした。アイツの呼びかけは兄弟たちにはひどく心地よいらしく、たくさんの兄弟が我先にとアイツと友達になった。何をするのか分からないが、しばらくすると兄弟たちはアイツとの鎖が切れて戻って来る。そして、姿を変えてはまたアイツの友達になりたがる。
アーノルドに呼び出され、目の前にいた赤い玉と目が合ったとき、久しぶりにニンゲンのむき出しの魂に触れた感触を思い出してオレはワクワクした。赤い玉がアーノルドに向かって突っ込んでいき、アイツの一の友達と名乗る風の兄弟が、オレの逆鱗に手を当てながら、(ご勘弁を、ご勘弁を)とつぶやいていたのは、近年まれにみる愉快な茶番劇だった。
二人目の金色のポワポワの逢引きについて言えば、赤い玉に連れられてあの子が湖畔に現れた時は、さすがのオレでも驚いた。そのあと、湖畔の兄弟たちが、二人の仲を取り持つ悪戯をしていたことは、オレは全く知らなかった。知っていれば、赤い玉との対面はさらに面白かったろうに、惜しいことをした。二人が夫婦の契りを湖畔で行いたがっているようだと、そこまでのいきさつを槐のやつに聞かされたとき、オレはそこだけ残念に思った。
***
湖に晩夏の夕日が沈みかける時、その最後に燃え上がる紅い炎に湖面は真っ赤に照らされる。ケインは全身を赤く染められながら木にもたれ、その光景を眺めていた。
自分が意識的に他人に心を開け放っていると気づいたのはいつのことだったろうか。
もちろん、初めは無意識だった。幼くしてみなしごになったケインにとって、それは自分を守り生きていくための手段だった。孤児院には、心を鎧うことで生き抜いていく子供たちがたくさんいたが、ケインは違う方法を選んだ。限界まで心を開いて素通しにして、相手の心に触れる。そうやって、ケインは周囲の人の優しさや、信頼を勝ち得てきたのだった。
ケインが初めて使い魔――当時は「友達」と呼んでいた――を得たのは、母が出て行った直後の6歳の時だ。夏のはじめのことだった。ある日ふいに出て行った母を、ケインは10日ほど、家で一人、じっと待っていた。やがて近所が異変に気付き、隣のおばさんが、文字の読めなかったケインに母の残した書置きの内容を聞かせてくれた。
母はもう戻ってこない。それがはっきり分かった日、とにかくその場に居たくなくて家を出て彷徨い歩き、日の暮れたころ、気が付くとケインはこの場所にたどり着いていた。
宵闇が下りたばかりの大木の下には、薄黄色の頼りない光が無数に咲き乱れていた。光の一つが、ふわふわと飛んできてケインの胸に止まる。黒い小さな昆虫の尾が、ぼんやりと光っていた。その点滅する微かな光を眺めていると、だんだんにその光はゆがんで見えなくなる。ケインは立ち尽くしたまま、歯を食いしばって泣いた。
必死に目をこすり涙を払うと、目の前に、虫たちとは違う、光る小さな人のようなものが静止して、ケインの顔をしげしげとのぞき込んでいた。それは、にっこり笑うとケインの涙を掌に掬い、飲み込んでくるりと回って見せた。ケインは思わず泣き笑いになった。こうして、ケインは初めての「友達」を手に入れた。
それからたくさんの精霊がケインの前に現れた。ケインはいつでも、初めの友達にそうしたように、自分の与えられる唯一のもの、飾りのない心を精霊に与えた。それが、人の世を渡っていく上でも大事なことであると、少年のケインは徐々に理解していった。自分が曲がらず生きてこれたのは、胸の内にいつもあの蛍の飛び交う夜があったからだ。
それなのに。
今の自分は、一番大事なはずの妻に対して、ありのまま向きあうことすらできていないのだろうか。だとしたらそれは何故なのか。
茜色の空が徐々に薄墨に侵されていく様を眺めながら、ケインはぼんやりと考える。




