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ケインが魔術師学校の教員となってから9年後、いまだ王国が傀儡の王の脅威にさらされていた頃。
ロベルトとメイの、もう一つの物語。
「今、私の手に何か見える?」
開かれた彼女の掌に、薄紫の煙がたゆたう。
「紫の、煙が見えます」
煙ごしに、李色の瞳が微笑んだ。
「他には?」
目を移すと、はちみつ色の髪の女性の身体全体から、薄紫の煙が立ち上っていた。ふいに、それが右手に集約する。
「先生の体中の煙が、右手に集まりました」
煙が消え、李色の瞳が少年の琥珀の瞳をのぞき込む。
「ダリオ君。あなたの見えているもの、特別なものよ」
胸の奥に響く、優しい声。
「矯めた魔力が可視化できるのね。訓練すれば、発動前にすべての術が見切れるわ。あなたの力は、無二のものよ」
この日、少年ダリオの魔術師としての人生を決定づける言葉を彼女は発した。
*
「ケイン、お前の友人と名乗る方が、至急面会希望で来訪されている。校門へ来てくれ」
教官控室で事務仕事に追われているケインの耳に響いてきたのは、ソシギの声だった。
通常運営に戻り9年。怨霊や精霊からの断続的な攻撃はあるものの、補強した結界を撃破されるには至らず、魔術師学校には表面的には落ち着きが戻っている。ソシギが、ケインに対してこの緊急の連絡方法を使ったのも久しぶりだった。
駆け付けた校門には、確かにただ事ではない光景が広がっていた。
「カイト、お前、……何をもらってきたんだよ」
憑依体質の幼馴染、近衛兵の隊服に身を包んだカイト・ハーンベルクは、立っていられないらしく片膝をついた姿勢で荒く息をしている。その背後に、おびただしい数の悪霊を認めてさすがのケインも息をのむ。
「ご本人で間違いないか」
動じた様子のないソシギの声に、顔をしかめてケインは答える。
「ああ。王宮近衛隊長、カイト・ハーンベルクだ。これまで取り憑かれた霊の数では右に出るものはいない。しかしカイト、お前……除霊をするにしても何もここに来なくてもいいだろ。王宮の方が人手があるのに」
「今日は、王宮は即位記念式典で手一杯なんだ。ナギに、ここに行けと指示された。生徒の実習に使えとかなんとか。……とにかく、どうにかしてくれ」
確かに、憑りついている悪霊は、一つ一つの力は弱いが数が多い。大人数で一気に除霊に取り掛かる必要がありそうだった。
「しかし、何でこんなことになってるんだ」
「昨日の夜、捜索で西の森に行ったんだ。石の並んでいる広場を通った後、急に体が重くなった」
「昨日……新月か」
ケインは顔をしかめる。善悪さまざまな精霊の力が濃く漂う西の森。地上の精霊の力が弱まり、地底のたちの悪い精霊が力をふるう新月の夜。
「わざとかっていうくらい、タイミングが悪いな」
冷や汗を浮かべている友人を見下ろし、つぶやく。
ケインが思案する間もなく、ソシギの口から低い声がもれ、黒い風が現れる。ソシギの「鉄壁の防御壁」、土と風から成る防御結界だ。黒い風は瞬時に、カイトを運動場へと運び去る。
ソシギの右手が握られる。瞬間、おびただしい数の悪霊は一気にカイトから引きはがされ、防御結界の中に封じ込められた。あまりの鮮やかさに、ケインは思わず口笛を吹く。
「ソシギ。……やるな。あんた、除霊の力、王国一なんじゃないか」
ソシギの返答はない。背を向けてカイトに回復魔法を施そうとしていた手を止め、ケインは振り返る。
「……!」
ソシギの厚い防御壁の中で、すべての悪霊の形をしたものが1か所に集まり、今まさに何かが生まれようとしていた。
「……罠か。シュナギ師がおっしゃる通り、個別に除霊すべきだった。まとめた俺の判断ミスだな」
ようやく発せられたソシギの声は苦い。
「魔獣……」
分厚い防御壁の中で、黒い獣が咆哮している。瘴気が結界内の空気を濁らせる。
ソシギは表情を変えず、防御壁に無言で手をかざし続けている。しかし、内側からの攻撃で魔力が削られつつあるのは明らかだった。
「かなりの力だ。俺の攻撃では、屠れそうにない。ケイン、一撃でやれるか」
ソシギの問いに、黒い風の壁の中で威嚇する魔獣をしばらく眺め、ケインはかぶりを振る。
「見切れない」
なにか特殊な術が施されているのか、黒い塊の表面を視線が滑るのみで、ケインにもソシギにも、魔獣の身体が見通せない。ソシギ自身の攻撃でなければ、魔獣を攻撃する際には一度結界を解く必要がある。瞬殺できなければ、ある程度の損害は覚悟が必要だ。特性が見切れない魔獣に対し、とっさに作戦が立たずケインは唇をかむ。
その時ふいに、二人の前に人影が立った。
「これは、地の精霊の眷属です。分裂し個別に戦うことはできますが、ソシギ先生の壁を削れる威力の魔力を出すには、今の形態を保つ必要があるようです」
現れた亜麻色の髪、王宮魔術師のローブをまとった青年は、冷静な声で告げる。
「飛び道具は使えるようですが、呪術のたぐいの気配はありません。単純な物理攻撃に注意さえすれば、撃破できるでしょう」
ケインの目が上がる。
「……ダリオ。王宮忙しそうなのに、悪いな」
「いえ。私は末席ですので抜けても大事ありません」
ナギにより送り込まれたのであろう、年若い王宮魔術師の、振り向いた琥珀色の瞳がちらりと笑う。
ケインの右手に風の長剣が握られる。
「よし、……あいつの魔力の核の位置は」
「胸元です」
「ソシギ!」
瞬間、防御壁が消失する。魔獣の足元に黒い風がまとわりつくと同時に、ケインの長剣が魔獣の胸元を貫いた。
一言も発さず、魔獣の残骸はソシギの黒い風に吸い込まれる。
「こちらが手薄な日に、憑依の形で使い魔をよこすとは、傀儡の王の策謀の巧みさは相変わらずだな」
すぐにカイトに回復魔法をかけ始めながら、ケインはつぶやく。
「それにしては、いやにあっけないな。何かの前触れでなければいいが」
ソシギの不吉なつぶやき。しかし、宿敵の思惑に馳せた思考は、背後から聞こえた言葉に中断された。
「メイ先生。僕は、シュナギ師に、認められました。約束を、果たさせてください」
駆け付けたはちみつ色の髪の女性教官に向かい、王宮魔術師のローブをまとった青年、ダリオが唐突に告げる。
「……あなたと何かを約束した覚えは、ありませんよ」
柔らかい、しかし断固としたメイの声。2人の教官は目を見合わせた。
*
いつの間にこんなことになったのか。メイは嘆息する。2年前。――
――誰かが結界を叩いている。
閉じていた目を開き、メイは弦の上を滑らせていた弓を止める。宵闇の音楽室。不可侵結界を張ってはいたが、人が来ることは想定外だった。
結界に打ち付けられる力は、それほど強くはないが執拗だ。ため息をつき、防音のドアを開く。
「……こんな時間に、どうしたの」
ドアの前に立っていたのは、青年だった。確か、今年5年生。実践授業に入り、驚異的に実力を伸ばしている生徒。
「先生、見学させてください」
ひどく真剣なまなざしで、青年は彼女を見つめる。
「私は魔音使いよ。あなたに演奏を聴かせることは、できないわ。……ダリオ君」
「構いません。防音結界の外で、演奏を見させてもらいたいんです、後学のために。……魔音がどんな見え方をするか、知りたいんです」
この生徒、ダリオは、形を持たない魔力でも、可視化できる能力がある。それを見出したのは、新入生当時、彼を指導した、自分だった。術を出す前に体内で変化する魔力を見切れれば、常に相手の先手を打つことが可能となり、実戦では絶大な威力を発揮する。彼自身の魔力や攻撃力に特筆すべきものはないが、この能力を利用し、彼は卒業試験の模擬戦ではこれまで無敗のはずだった。
「分かりました。後日、時間を取ります」
一応、主任教官の許可を取ろう。そう答えたメイにダリオは食い下がった。
「いいえ。今日、お願いします。僕は今日『卒業試験』に合格しました。明日から師匠の元での修業に入ります。ここにはもう、来られません」
彼の表情の必死さは、メイの教育者としての良心を刺激した。
「……分かりました、お入りなさい」
防音結界を3重に張り直し、近くの椅子に座らせる。弓を構えなおしたメイを、ダリオの琥珀色の瞳が見つめる。流れ出した旋律を追うように、彼の瞳がゆらめく。
その時間は確かに、メイにとっても快楽だった。自分の音を、感じてもらう。久方ぶりに、彼女は他人と自分の音楽を共有していた。そこに、隙があったのは間違いない。
気が付いたときには、メイの弓は押さえられ、彼女の唇は奪われていた。彼女が反応するより一瞬早く、ダリオはすでに元の椅子に飛び戻っている。
「先生。見学は、口実です。ごめんなさい。僕は、僕の力を見出していただいた日からずっと、あなたが好きでした」
琥珀色の瞳には、からかう光は全くなかった。
「演奏するあなたの姿が素敵すぎて、どうしても触れたくなってしまった。……怒らないで」
虚を突かれ、怒りも起きずに、メイは6歳年下の教え子を眺める。
「今の僕では、あなたに釣り合わないのは、分かっています。一人前になったら、もう一度、あなたに会いに参ります。……どうか、僕を、忘れないでください」
そのまま、青年の姿は掻き消え、弓を持ったまま動けないメイだけが残された。
――そして今。
防音結界の先には、琥珀色の瞳を輝かせた青年の姿がある。自分の弓の動きではなく、音の形を目で追うその視線に、どうしようもなく幸福を感じる自分がいる。二人きりの黄昏の音楽室には、演奏者以外の誰にも聞かれることのない旋律が、鮮やかな色彩でいつまでも漂っている。
*
「まあ、ダリオに関しては若気の至りと言えなくもない。メイに長年の交際相手がいることなんて、学校の接点だけでは分かりようがないからな」
ケインはがりがりと頭をかく。
「問題なのは、それを受けたメイと、ロベルトの方さ」
「それでなんで俺を呼び出すんだ」
東の通り、白煉瓦亭。酒と料理、踊り子で評判のケイン一押しの店である。しかし、隣に座った男は、しかめつらしく薬草茶を飲んでいる。下戸なのだ。
「いやだって、あいつらのいきさつを全部分かってるのは、多分俺とお前だけだし」
「俺に他人の色恋話を分析できるわけもなかろう」
苦々しくつぶやいたのは、眼鏡の教官、ソシギである。いかにもその方面に興味がなさそうな同僚は、しかし実はしっかりと妻と2人の子供がいることを、ケインは知っている。
「ロベルトが死にかかってから、もう9年だ。あいつらがだらだら付き合っているのは多少気にはなっていたが、まあ俺が口出すことでもないと思っていたんだ。だが、この間の騒ぎの話をロベルトの奴にしたら、どんな返事が返ってきたと思う?」
ソシギは肩をすくめる。
「お前が俺を呼び出すくらいだ、別れるとでも言ったのか」
ケインは言葉もなくソシギを眺める。正解だった。
「もう一つ、俺に言えることがあるとすれば、ダリオはメイとロベルトの関係は知っているだろう。あいつは、見た目ほど純朴じゃない。確信犯だぞ」
ソシギはいつもの淡々とした口調で言い切った。
王宮魔術師が大量に失われた大禍から9年。
7年前から、ロベルトは魔術師学校の教職を辞し王宮魔術師となっている。ケインの師である王宮最高位魔術師ナギが魔力を失い王宮を去り、その穴を埋める責務があったケインが教師を辞し王宮での業務に専念しようとしたときに、ロベルトは彼を引き留め、代わりに自分が王宮専属魔術師になると申し出たのだった。
「人には向き不向きがある。俺は、組織の運営は得意だが、物を教えるのはそれほど上手くないからな」
ケインとしても、自分の天職は教官ではないかという思いが芽生えており、ロベルトの申し出をありがたく受けた。その後も二人は度々飲みに行ってはいたが、ロベルトとメイとの付き合いの近況はことさら話題にはならなかった。あの騒ぎまでは。
「会ってない?」
二人でくり出した酒場で、ケインは思わず隣に座った友人に身体ごと振り向く。
「何でだ」
「何でと言われてもな」
一息にグラスを空けるロベルトの微笑みは苦い。
「まあ、自然の成り行きだろう。俺たちをつなげていたのは、音楽、あるいはその喪失の体験だ。出会った頃は、俺たちにはお互いが必要だった。だが所詮、いびつなつながりだ。永遠に続くものじゃない。……若い告白者か。いよいよ潮時かな」
「……お前、彼女を信じられないのか」
「俺が信じられないのは、俺自身さ」
「難しく考えすぎじゃないのか」
ロベルトは目を閉じ押し黙る。その横顔の硬質さは、ケインが見たことのないものだった。
「……お前は、術を暴走させて人を傷つけたことはあるか」
しばらくして目を開けたロベルトから放たれた唐突な問いに、ケインは眉をひそめる。
「ないだろうな。お前の術は、奔放そうに見えていつも完璧にコントロールされている。人との距離感も。お前の天職が教職だと思うのは、その点だ」
ロベルトは、またカパリとグラスを空け淡々という。
「初めてメイと会った日、俺は彼女を、殺しかけた」
ケインは息をのむ。
「本質としての自分の音楽、そしてその師を失い荒廃していた俺の心の、一番痛いところを突かれた。でもそんなことは、言い訳にはなりはしない。人は」
ロベルトの目が上がる。
「人は、とっさの時こそ、その本質が出ると俺は思う。あの時、俺は思い知った。怒りで我を忘れて、人を害することができる、それが俺の本質なんだ」
ケインには言うべき言葉が見つからない。ロベルトの自嘲気味な声。
「俺には許されないことさ。また、失えば我を忘れるようなものを求めることも、手に入れることも」
つぶやいてから、ロベルトはふいに黙りケインに視線をよこした。
「すまんな、酔ったようだ。つまらないことを聞かせた」
それでも。ケインは思い、グラスに目を落とし話し出す。
「……お前が、毒にやられて死にかけた、あの時。お前は意識を無くしていたので知らないだろうが、初めにお前の毒を引き受けようとしたのは、メイだった」
同じように空のグラスに目を落としていたロベルトはケインを振り向く。
「そう、メイは解毒はできない。一つ間違えば、あの時死んでいたのはメイだったかもしれない。もしお前が言うように、とっさの時の行動に本質が出る、そこにしか真実がないとしたら、あの時の彼女の行動は」
そこまで言って、ケインは息をついた。
「……お前は、手放してはいけないもの、もう二度と手に入らないものを、手放そうとしているかもしれないんだぞ」
ロベルトは再びグラスに視線を落としていた。その横顔は彫像のように動かない。
「……まあ、飲むか」
二人はこの日、控えめに言ってもべろべろに酔った。ケインは翌日、久しぶりの猛烈な頭痛と後悔に襲われた。




