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「受傷から解毒までの時間が長すぎた」
医務所の病室。横たわるロベルトの隣で、ケインは唇をかむ。
「俺の処置の時点で、中枢神経に潜り込んだ毒が、一体化を始めていた。自我が保てるかどうかギリギリのところで、彼は殻にこもったんだろう」
ソシギの声は低い。何とか解毒処置は間に合い、ロベルトは一命をとりとめたが、昏睡状態が続いていた。毒に精神が支配される直前、意識的にか無意識にかは不明だが、彼は自分の精神を殻に閉じ込め、毒から守ろうとしたらしい。しかし、身体的には回復した今も、彼の精神は閉じ込められたままだ。
「魔力の刺激から解呪まで、考えられる方法は尽くして呼びかけているが」
回診してきた魔術医療専門の魔術師も、声に力はない。
「このままの状態が続けば、身体のみを生かし続けるか、判断を迫られることになるだろう」
ロベルトが毒を受けて1週間。身体の生命維持には問題ない状態は続いているが、意識の回復には手掛かりのない状況が続いていた。
「どんなことがあっても、あいつの最大限の生命維持を主張する。定期的に魔力を入れてやれば、身体が衰えることもないはずだ。誰が何と言おうと殺させはしない」
薬湯を手にうつむくメイの隣で、ケインはきっぱりと言い切った。
メイはほぼ完全に回復し、明日には退院が決まっていた。隣の病室にいるロベルトの病状を聞かされたのは、今日が初めてだった。
1か月を目安に、王宮魔術師の会議で、ロベルトの処遇を決定する。宣告が出されたのは昨日のことだ。ケインは、数日後に迫った魔術師学校の通常運営に向け、魔術師学校の教官および王宮魔術師に正式登用されていた。
「ケイン様。……お願いがあります」
うつむいたままのメイの声に、ケインはメイをのぞき込む。
彼女の瞳に、決然とした光を見てケインは目を見開いた。
*
王宮の医務所に魔楽器が持ち込まれるのは、異例のことだった。
自分の背中の大きな荷物に、あちこちから注がれる好奇の眼差しを、メイはまっすぐ前を向きはじきつづける。彼女が魔音使いだということを、ほとんどの魔術師たちは知らなかった。
ロベルトの病室には、3重に防音結界が張られている。病室への入室は、ケインのみが許された。
横たわるロベルトの隣でチェロを抱えて椅子に座り、メイは軽く弓を動かし調弦している。音はもちろん全く聞こえないが、微かに結界の振動が伝わってくる。
ふいに彼女の右ひじが上がり、弓がまっすぐに引かれた。
(ロベルト)
甘い旋律が流れ出す。二人で弾いた、思い出の曲。二人ぼっちの音楽室で、二人はいつもむき出しだった。彼のピアノは、繊細に時に残酷に、彼女の旋律を抉った。あきらめも舐めあいもない、ぎりぎりとせめぎあう世界。私たちは、それを切望していた。
彼の瞼は動かない。
(ロベルト、……私の音を見つけて)
ゆっくりと音階を奏でながら、メイは語り掛ける。低音から高音、そしてまた低音。滑らかな音の階段に、ロベルトの閉じられた瞼の反応はない。
一音ずつ。テヌート、ビブラート。ゆっくり探るが、暗闇の中に石を投げるように、ただ消えていく音に唇をかむ。
暗闇。虚空。何の波紋もない空気。
ゆっくりとメイの瞳が見開かれる。
キッと、彼女の顔が上げられた。
(私も、結局、チェロ弾きじゃない。ーー魔術師なんだ)
突然防音結界が大きく震え、ケインは驚いて飛びずさる。結界全体が、拍動するように震えている。メイの両耳から血が流れているのを目にし、ケインは驚きで凍り付く。
(鼓膜が、破れている)
メイの弓は、恐ろしいスピードで跳ねている。それは、メロディーを奏でているとは思えない構えだった。
結界内の光景が揺れている。空気と魔力の密度が偏り、あちこちで物の形が歪んで見える。
(やめさせなければ)
ケインが手をかざそうとしたとき、ふいに拍動は停止した。
しんと澄んだ防音結界の中で、ロベルトの手がメイの弓をつかんでいた。
「ひどいな、目覚まし時計よりなお悪い」
顔をしかめて、笑いを含んだいつもの声で、ロベルトは一言つぶやいた。
*
「チェロ弾きが、耳を犠牲にするなんて」
防音結界の内部に、不透明の不可侵結界が張られている。外から魔術師たちが結界をこじ開けようと騒いでいるが、結界を張った当のロベルトはどこ吹く風だ。
両鼓膜が破れ体の平衡も保てないメイは、ベッドの上の彼の腕に抱き取られている。
ロベルトは優しく彼女のうなじに口づけながら、そっと耳に手をかざす。
「なんて無茶をするんだ、このひとは」
メイは目を瞬く。ようやく音が聞こえだし、めまいのおさまった視界には愛しい人の笑顔がある。
「ロベルト」
「メイ。……起こしてくれて、ありがとう」
優しい口づけ。
次の瞬間、ロベルトは顔をしかめた。
「時間切れだ」
瞬間、不可侵結界に亀裂が生じ、風の長剣で結界の膜を斜めに大きく切り裂きながら赤毛の痩躯が飛び込んでくる。
肩で息をし、怒髪天を突く勢いでケインは叫んだ。
「ロベルト、お前いい加減にしろ!!」
ロベルトは、ベッドの上で首をすくめた。
「そう、確かに五感はすべて閉じてはいたが、頭一発叩いてくれれば目が覚めるはずだったんだけどな……」
ケインだったら最初にやるだろうと思ったんだが。
自分が10日も眠っていた、と聞かされてロベルトは苦笑いする。
魔術師の医務所では、患者に対して直接触れるということがほとんどない。ロベルトの意識回復に対して、様々な外的刺激も試みられたが、物理的にひっぱたくなどという方法は誰も試みなかった。
メイのチェロの爆発音レベルの大音響で、ほぼ頬を張られるに近い衝撃を受け、ロベルトはようやく目を覚ましたのだった。
「お前は俺を何だと思っている」
病人をひっぱたく魔術師がどこにいる。ケインは苦々しくつぶやく。
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「あれから、11年ちょっとか」
魔術師学校の教官控室で、3・4年生の実技指導担当、ケイン主任教官はつぶやき葡萄酒を含む。
新制魔術師学校開設10周年記念、などという冊子が教官たちに届けられたのは、昨日のことだ。あの、はじめの熱く手探りの日々を思い出し、集まった4人はそれぞれ遠い目をする。
「俺たちも、歳をとるはずだな」
かぱりとグラスをあけ、全く容姿に衰えのない、5・6年生の実践授業の総合評価担当、および渉外担当のロベルト教官が笑いを含んだ声で言う。
「それにしても、この10年。お互い死にかかったり生傷絶えなかったが良くやったよ」
1・2年生の基礎理論担当、ソシギ教官の感慨深げな声。
「そういえばケイン、お前、貴族に婿入りするそうじゃないか。とうとう丸くなったか。権力に屈したな」
「愛の力でしょ、言わせないで」
明らかに面白がっている、1・2年生の実技指導担当、メイ教官の声。既得権益の塊ともいえる、魔術師筆頭2家の娘との交際がうわさされているケインは面倒そうに顔をしかめる。
ついに、悲願であった王宮魔術師たちの宿敵の討伐が果たされ、王宮最高位魔術師ナギの魔力が取り戻され1年あまり。魔術師学校にも、本当の平穏が戻っていた。
明日からの新学期も、楽しみだな。
新たな生徒たちとのあれこれを想像し、ケインは自然と笑顔になる。
教官控室に、穏やかな夜が更けていく。




