悪魔との契約
私はその日、いつものように王立図書館に行った。王立図書館は国内最大の図書館で蔵書数は数十万に上るとか。広大な館内には本が所狭しと並んでいる。司書さんでも、どこに何があるか完璧には把握していないだろう。
いつものようにずらりと並んだ本を見ていると、気になる本を発見した。それは図書館の隅の本棚にひっそりと置いてあった。装丁が荘厳で美しい本だ。手に取って触ってみると、この本がかなりの年季ものだということがわかる。
ただ美しくアンティークなわけではなく、その本には魔力のようなものがあった。言葉にするのは難しい。本から妖しげな何かがにじみ出ているのだ。人を魅了させる、不可視の何かが……。
本のタイトルは『メフィスト』。
正確には、それが本のタイトルなのかはよくわからない。表紙にはそれしか書かれていない。本を開こうとするが、私が開く前に本が自ずから開いた。勝手にページがめくられていく。本が淡く発光した。
「え、なにこれ……!?」
周囲には人はいない。なので、他人に迷惑がかかることはない。――なんてことを、のんきに考えていてはいけない。
私は本を置いて逃げようとした。どう考えても普通じゃない。早く逃げなくちゃ。――しかし、私が逃げ出す前に、本の中から何かが現れた。その何かは人間のように見える。だけど、人間は普通、本の名から出てこない。よって、彼は人間ではない。
彼はタキシードのような黒い服を着ていた。しわ一つなく、埃もついていない、真新しい服。長い前髪は真ん中で分けられていて、顔は整いすぎていて人間味がない。肌は白いを通り越した青白さで、生気に欠ける。
「し、死神……」
私が呟くと、彼は顔をしかめて首を振った。
「違いますよ。私は死神ではありません」
「じゃあ、なんだっていうの?」
「ふむ。この本を――」と彼は地面に落ちた本を指差す。「読まれませんでしたか?」
「読む前に勝手に開いて、光って、あなたが……」
「なるほど。そうですか」
彼は側頭部をトントンと叩くと、
「まあ、ずばり言いますと、私は悪魔です。名前はメフィスト。表紙に書いてあったでしょう?」
「悪魔って、あの?」
「え? ええ。まあ……あなた方人間が、我々のことをどのような存在だと思っているのかは、正直よくわかりませんが……」
「じゃあ、私は悪魔を召喚してしまったっていうのっ!?」
悲痛な叫びをあげた私を慰めるように、あるいは落ち着かせるように彼は言う。
「なに。取って食ったりはしませんよ」
「じゃあ、私に何するの?」
「うーん。別に、あなたによからぬことをしようと思って、現れたわけじゃないんですけれどねえ。私がこうして召喚されたのは、ある種の事故のようなものですし」
悪魔メフィストは本を拾うと、本棚に収めた。
「そもそも、我々は人間に対して、むりやり何かを行ったりはしません。あくまでも、契約に則ってですねえ――」
「契約?」
「ええ」
「契約って……例えば、何かをしてもらう代わりに、代償として何かを差し出す、みたいな感じ?」
「その通りです」
メフィストは微笑みながら頷いた。
「私が人間との契約の際に差し出してもらうのは、主に――『魂』ですね」
「魂?」
言い換えれば、命ということ?
「魂を抜き取られると、人間は死にます。魂というのは生命の根源とも言うべき代物ですからね。肉体はその器でしかない」
「つまり、私があなたと契約したら、願いをかなえてもらう代わりに、その代償として魂を奪われて死ぬ、と?」
「まあ、そうなります」
ですので、と悪魔は微笑んで続ける。
「自らの魂を差し出してでもかなえたい願いがある、と言うのなら、私と――悪魔と契約を結びましょう」
そこまでしてかなえたいような願いは一つもなかった。私は今、それなりに幸せだ。その幸せを自ら壊すことなんてないじゃないか。
私は首を振った。
「お断りさせていただきます」
「そうですか。残念です」
さして残念でもなさそうに彼は言うと、本棚に収めた本を――悪魔を召喚する魔導書を、手に取ってぱらりと開いた。
「それでは、私は戻らせていただきます。もしも、私と契約したいという気持ちになったなら、もう一度この本を手に取って、私を召喚してください」
そう言うと、メフィストは無数の光の粒となって、魔導書の中へと消えた。
地面に落ちた魔導書を拾うと、本棚に収めた。
夢を見ていたような気分だ。だけど、ほっぺたをむにっと抓まなくても、これが現実だってことくらいはわかる。
生まれて初めて悪魔に会ったけど、意外と紳士的だったな。私をうまいこと騙して、魂を奪い取ることだってできただろうに、そういうことはしなかった。きちんと契約やその代償についても説明してくれた。悪魔にも悪魔なりの流儀があるのか……?
私は他にも魔導書が隠れてないか、図書館を一通り探してみた。しかし、それらしきものは一冊もなかった。
私は不思議な気分になりながら、家に帰った。
◇
私には婚約者がいる。
その相手は貴族で、実は私も貴族だったりする。婚約・結婚というのは、同じ階級同士でしなければならない、というルールがあるらしい。誰が決めたのかはわからないが、大体の人はそのルールを律儀に守っている。
平民は平民と、貴族は貴族と結婚する。貴族の中でもランクがあり、大体が同じ爵位の人と、まれに自分より少し上か下の人と結婚する者もいる。
私は『男爵』、彼は『子爵』。彼のほうが序列的に上である。
どうして、私の婚約者が同じ男爵ではないのか? 詳しいところはよくわからない。婚約は親同士が勝手に決めた。その内情は娘であり、当事者である私には知らされない。私の父がうまいこと子爵に取り入ったのか……?
この婚約に対して、私が拒否することはできない。私の家のほうが爵位が下なのだから。婚約を破棄する権利を持つのは彼の家だけだ。
彼――ダミアン・アルベールは、優しい人だと私は思う。私はダミアンの外見も内面も好きだ。つまり、すべてが総合的に好きというわけだ。
私とダミアンはいわゆる恋愛結婚ではない。だけど、お互いに恋愛感情を抱き、好き合っている。これはとても幸せなことだと私は思う。私は幸せ者だ。
だから、私がこの幸せを壊してでも、自らの魂を悪魔に差し出してでも、かなえたい願いなんて存在しないんだ――――
「ア、アンナ……」
部屋に入ってきた私を見て、ダミアンは言った。
ダミアンは裸でベッドにいて、彼の下には同じく裸の女が荒い息を吐きながら、勝ち誇ったような優越感に満ちた目で私のことを見ている。
その女に、見覚えがあった。
「ローラ……」
私は呟いた。
ローラ・ボワレー。
ダミアンと同じく彼女も子爵だ。私の学院時代の友達で、私にとって彼女は親友と呼べる子で……。どう、して……?
聖女のような清楚さ美しさは、今は魔女のような淫猥な艶やかさへと変貌を遂げていた。本性はもしかして、今のこの姿なの……?
「どうして、君がここに……?」
ダミアンが私に尋ねた。
「どうしてって……言ったよね? 今日、ダミアンの家に遊びに行くって」
「そうだった……っけ?」
私は視線を、ダミアンからローラへと移した。彼女と目が合った瞬間、悪魔のように微笑んできた。めまいが……した。
「ローラ、あなたはいつからダミアンと――」
「ずっと前からですよ、アンナさん」
ローラは異常なほど落ち着いていた。ベッドから降りて、白いローブをまとう。
「いつになったら気がつくんだろう、って私はずーっと楽しみにしていたんです。もっとずっと前に気がつくと思ってたのに、アンナさんってば――本当にお・ば・か・さ・ん、ねっ」
私がその場に崩れ落ちそうになっているのを、必死に堪えて震えていると、ローラはうっとりと恍惚とした顔をした。
「私ね、ずっとずうーっと見たかったんです。あなたが真実を知って絶望するお顔を。ようやく。ようやく見れました! 私は今、とっても満足。満ち足りた、最高の気分です!」
ガラガラ、と。
私の中で何かが崩れ落ちた。これはなんだろう? 幸せが、崩れ落ちた……? 私はダミアンに愛されていると思っていた。でも、それは偽りだった。ダミアンは私を愛してはくれなかった……?
嘘。嘘よ。ダミアンはローラに騙されている。それか、彼女とはちょっとした遊びだったんだ。遊びとはいえ、他に女がいるのは嫌だった。だけど、許そう。ローラとは別れて、もう一度、ゼロから関係を構築しよ――。
「アンナ」
白いローブをまとったダミアンが言った。
「悪いとは思うけれど、君との婚約はなかったことにしたい」
「…………え?」
「つまりだね、婚約を破棄させてもらいたいってことなんだ。わかるかい?」
「そん、な……。どう、して……?」
「うん。俺はね、ローラと婚約することに決めた」
そう言うと、ダミアンはローラの肩を抱き寄せた。
「嘘……そんな……」
「大体、俺は君と結婚するのが嫌だった。君は俺の好みのタイプじゃないからね。それに、君は――エルミート家は『男爵』で、我がアルベール家は『子爵』だ。同じ貴族といっても、俺のほうが序列が上だ。言っていることがわかるかい? 俺と君では釣り合わないってことさ。その点、彼女――ローラ・ボワレーは、俺と同じく子爵なわけだ。ルックスも彼女のほうが上だし、俺のタイプだ」
ダミアンは早口で言った。
「ま、というわけで、アンナ・エルミート。君との婚約を破棄させてもらう」
「待って――」
「申し訳ないが、君に拒否権はない。このことは、君の御父上にも伝えておこう」
ダミアンとローラは部屋のドアの前までやってくると、
「アンナ、君もそこそこ美しいのだから、婚約相手は探せばいくらでもいるはずだ。君が良い相手と結婚できることを心から祈るよ。では」
「アンナさん、ごめんなさい。あなたの幸せを奪った私は、きっと悪女なのでしょう。私のこと、恨んでくれても構いませんのよ?」
勝利の美酒に酔いしれたローラは、私の肩を両手で強く押した。
よろけた私は、尻もちをついた。そんな私に、二人は一切の興味をなくしたようで、ドアがゆっくりと閉められた。
キイイイイイ…………。
めまいが、した。
◇
それから数日して、私――アンナ・エルミートとダミアン・アルベールの婚約が破棄されたことが正式に発表された。その後、ダミアン・アルベールとローラ・ボワレーの婚約が発表された。
父は私を慰めてはくれなかった。深いため息を漏らし、がっかりしていた。
「どうして、アルベール家との婚約が破棄になったのだ? お前が粗相をしたからではないのか? せっかく私が頑張って、子爵であるアルベール家の嫡男との婚約にこぎつけたというのに……」
そして、最後に一言。
「お前には失望した」
世間は私たちの婚約が破談となったことに対して、『アンナ・エルミートに非があったのでは』という考えを持っていた。それが主流だった。
一方、ダミアン・アルベールに対しては多少同情的であり、新たな婚約者であるローラ・ボワレーの評判は上々だった。
私は家に引きこもりがちになった。家の中にいれば――自分の部屋に閉じこもって入れば、周囲の声は聞こえない。静かだ。雑音は何も耳に入らない。
けれど、いつまでも引きこもっているわけにはいかない。このままだと、私の魂はどんどん淀んでいくだけだ。魂。魂……?
ああ、そういえば、と私は思い出す。王立図書館で出会った、悪魔のことを――。
あの悪魔――メフィストは、魂を対価に願いをかなえてくれる……。つまり、私の魂を差し出せば、ダミアンとローラ……あの憎き二人を殺してもらうことができる。
私の魂を差し出す。それはつまり、私が死ぬってこと。今の私にとって、死はそれほど怖いものじゃない。だって、今の私は幸福の欠片もないのだから。生に対して執着がない。もういっそのこと、死んでしまってもいいかも。そんな気分。
私は王立図書館に向かうことにした。悪魔でもなんでもいい。誰かとお喋りしたい。あの悪魔なら、それなりに優しくしてくれるだろう。だって、彼にとって私は、お客様になりえる相手なのだから――。
◇
「こんにちは」
魔導書の中から現れた悪魔に、私は挨拶した。
「ああ、あなたでしたか。お久しぶりです。どうしましたか?」
隣人と喋るかのように、メフィストはフレンドリーだった。彼が悪魔のようには見えない。彼以外の悪魔を知らないけれど、悪魔というのはみんな一見紳士的なんだろうか? 私のイメージしている悪魔像とはかけ離れている。
「あの、少しお話がしたくて」
「お話?」
「ごめん。駄目だったかしら?」
きっと彼は、契約ができる、魂をもらえる、とうきうきだったのだろう。きょとんとした顔を一瞬浮かべてから、いつものように柔和な笑顔に戻った。その笑顔は、どちらかというと、悪魔というよりも天使のように見える。
でも、彼は確かに悪魔なんだ。
「いえいえ、構いませんよ。暇でしたから」メフィストは言った。「それで、どんなお話をしますか?」
「あの……私の話を聞いてほしいの」
「つまり、私に聞き手になってほしい、と?」
「あ、これ、契約になる?」
私は慌てて確認した。話の聞き手になってもらう代わりに、魂を差し出すのはちょっと……。さすがにそれは嫌だ……。
「いえ、聞き手になるくらいだったら、別にただで構いませんよ。人間の話を聞くのは、なかなか面白いですし」
「ありがとう」
私はダミアン・アルベールに婚約を破棄されたこと、彼の新たな婚約者が友達のローラ・ボワレーだということなどを話した。それは、『話す』という行為によって、胸にためていた鬱憤をはらすようなものだった。
こんな話をただ一方的に聞かされて、面白いものなのか。仕方がなく、嫌々聞いているのではないか。そう思って、彼の顔の表情をじっと観察してみたが、彼はとても面白そうだった。少なくとも、退屈はしていない。
私が話を終えると、
「いやはや、人間という生き物は実に醜いですねえ」メフィストは言った。「人間も我々悪魔と本質的にはさほど変わらない」
確かに、人間は時に悪魔のように――いや、悪魔以上に恐ろしく醜い。人間には人間なりの、生々しい怖さや醜さがあるのだ。
「私ね、あなたと契約がしたいの」
「契約? それはつまり……私に魂を差し出す覚悟がある、ということでしょうか?」
「うん」
「悪魔の私がこんなことを言うのはなんですが……」
メフィストは苦笑しながら、
「命は大切にされたほうがいいですよ。一つしかないのですから」
まさか、悪魔にこんなことを言われるとは思わなかった。大して深い仲でもない悪魔が、私に対して一番優しいなんて……。
思わず、泣きそうになった。周りに誰もいないとはいえ、図書館で泣くのは恥ずかしいので、ぐっと耐える。
「まあ、最終的に決めるのはあなた自身なのですが」
そう、命は――魂は一つしかない。
メフィストと契約すれば、私は死ぬ。死んでも構わない。この世に未練はない。というか、この世に希望はない。私の死に、ダミアンとローラを巻き込んでやる。めらめらと、暗くて黒い炎が、私の心で燃え上がる。
「私――アンナ・エルミートは、メフィストと契約したいと思います」
「あなたがこの私――メフィストにかなえてほしい願いはなんですか?」
「ダミアン・アルベールとローラ・ボワレーを殺して」
「どのように?」
「どんな殺し方でもいい。とにかく殺してほしいの」
「……わかりました」
メフィストはゆっくり頷いた。だがしかし――。
「わかりました、が――一か月、待ってほしい」
「一か月?」私は首を傾げる。「それって、二人を殺すのに一か月時間がかかるってこと?」
悪魔なら一晩あれば、二人を殺すことくらいできると思ったけど……。ただ殺すのではなくて、毒か何かでじっくりと殺すつもりなのだろうか?
「違います」
メフィストは首を振って否定した。
「一か月経って、それでもまだあなたが、二人のことを殺したいくらいに憎んでいるのなら、そのときは契約を交わしましょう」
「今は、私が激情的になってる、と?」
「まあ、そうですね。人間の感情は激しく揺れ動くものですから」
「わかった。一か月後にまた来るね」
そう言って、私が立ち去ろうとすると、
「できるなら、明日も来てください」
メフィストが声をかけた。
「明日も? どうして?」
「言ったでしょう、私は暇だと」彼は言った。「暇だから、いろいろとお話を聞かせてください。どんな話でも構いませんよ」
私にはメフィストの目的がわからなかった。彼が何のために、一か月も猶予を与えて、その間私とお喋りしたいのか。
ただ単に、暇だから。……本当に? わからない。悪魔の考え方は、人間とはまったく異なるのかもしれない。
「明日は、何かご予定が?」
「いえ、ない。ないから――いいよ。明日も図書館に行く」
「ありがとうございます。それでは、また明日」
メフィストは微笑んで手を振りながら、魔導書の中へと帰っていった。
◇
それから、一か月の間。
私は毎日のように王立図書館に通い続けた。メフィストを召喚して、二人で長々と楽しくお喋りをして家に帰る。その繰り返しだった。
彼とお喋りするのが、今の私にとっての生きがいだった。どん底に落ちた気分が幾分か回復したが、けれど私はやっぱり――ダミアンとローラを許せない。憎きあの二人を、この世から消し去りたい。たとえ、私という存在がこの世から消えることとなっても。
メフィストは人間と契約しなければ、自由に動けないらしい。契約を交わしている間だけ、この世界で好き勝手時自由に生きることができるのだ。
「旅行とかしてみたいですねえ」
メフィストはのんびりとした口調で言った。彼は自分の住む世界より、この世界のほうが気に入っているようだった。
もしも、私がメフィストと契約したとして――彼は自由を楽しむために、ダミアンとローラを殺すのにたっぷりと時間をかけるのだろうか? さすがにそんなことはしない、と信じたい。
一か月という月日は、あっという間に過ぎ去った。
私がいつものように王立図書館に行き、メフィストを召喚すると、彼はいつもより真剣な表情をしていた。今日が契約の日だということは、彼もわかっているはずだ。
「一か月が経ちましたね」
「ええ」
「それで、どうです? 気持ちは変わりましたか? それとも、まだダミアン・アルベールとローラ・ボワレーを殺したいほど憎んでいますか?」
「私の気持ちは変わらないわ」
「そうですか」
メフィストは頷く。何秒かの沈黙ののちに、話を続ける。
「それでは、契約を結ぶことにしましょう。改めて聞きます。あなたがこの私――メフィストにかなえてほしい願いはなんですか?」
「私の願いは――ダミアン・アルベールとローラ・ボワレーを殺すこと」
「二人を殺せば、あなたは幸せになれるのですか?」
幸せ?
二人が殺されれば、契約が遂行され、私の魂はこの悪魔に奪われる。死ぬのだから、幸せとか不幸とかはないと思う。多少、晴れやかな気持ちにはなれると思うけれど……。それがちょっとした幸せだというのなら、まあ幸せになれると言えなくもない、のかな……?
「ほんの少しだけ、幸せになれると思う」
「ふむ……。では、契約の内容を少し変えませんか?」
「変える?」
「ダミアン・アルベールとローラ・ボワレーを殺すことで、あなたが多少なりとも幸せな気持ちになれるのなら、『私を幸せにして』という願いを私は叶えることにします。その願いならば、二人を殺すことも包含されます」
確かに、『私を幸せにして』という願いなら、二人を殺すことが包含されるかもしれない。だけど、それだとすごく曖昧だ。どれくらい私のことを幸せにしてくれる? どうすれば、願いが叶ったことになって、魂が奪われるのか……。
そもそも、そんなややこしい願いにして、メフィストにメリットがあるのか。私には大いにメリットがあるかもしれないけど……。
利己的じゃない悪魔というのは、とても悪魔らしくないと思う。実際のところはよくわからないが、彼は私のことを思ってアドバイスしてくれているような気がする。
「わかったわ。あなたのアドバイスに従う」
「よろしい」彼は微笑んだ。「あなた――アンナ・エルミートが、この私――メフィストにかなえてほしい願いはなんですか?」
「私の願いは――『私を幸せにすること』」
「了解しました。あなたの願いをかなえさせていただきます。ですが、その対価にアンナ・エルミート――あなたの魂をいただきます。よろしいですか?」
「ええ」
メフィストは懐から契約書を取り出すと、それに契約内容を書き込み、最後にサインと血判を押した。
「確認と、サインと血判を」
私はそこに書かれた内容を確認すると、サインと血判を押した。血判をするのは初めてだったので緊張したし、正直けっこう痛かった。
「これで、契約は成立しました」
メフィストは契約書をしまうと、
「では、さっそく、ダミアン・アルベールとローラ・ボワレーを殺すことにしましょう。二人を殺すところを見ますか?」
「うん」
「わかりました。行きましょう」
◇
私とメフィストはダミアンの家へと向かった。
ダミアンの家は大きく、屋敷には使用人がいた。メフィストは催眠術のような技を使って、彼らを眠らせた。超常の力を使うメフィストを見て、彼は本当に悪魔なんだな、とようやく実感する。人間には、こんなことはできない。
屋敷の二階にダミアンの部屋はあった。
「ダミアン・アルベールとローラ・ボワレーは、そこにいます」
どうして、二人の居場所がわかるんだろう? そう思ったけれど、催眠術が使えるのだから、ターゲットの居場所くらいわかるものなのかも。
メフィストは鍵のかかった部屋を蹴り開けた。スマートな体形とは裏腹に、ものすごい膂力を持っているようだ。
「こんにちは」メフィストは言った。
ダミアンとローラは前と同じく、裸でベッドにいた。二人は私――というより、メフィストを見て『誰だ、こいつ』といった表情を浮かべている。
「私の名前はメフィスト。一応、これでも悪魔だったりします」
「何言ってるんだ、お前は!?」
ダミアンはローブをまとうと、こちらへやってくる。メフィストの姿が一瞬ブレて、次の瞬間にはダミアンのみぞおちに拳を叩きこんでいた。
「ぐおえっ!?」
ダミアンは床に嘔吐した。
「アンナさん、何しに来たんですか……?」
ローラが尋ねた。
「あなたたちを殺しに」
「なっ!? 殺す!?」
ローラの顔色が変わった。
私が冗談ではなく、本気で二人を殺そうと思っていることを察したのだ。
「誰か! 誰か助けて! 侵入者です!」
ローラはできる限りの大声で助けを呼ぶが、残念ながら助けは来ない。二人以外は今頃夢の国に旅立っている。かなり深い眠りらしく、5時間は眠ったままだとか。
「私はね、あなたたちが憎いの。とっても憎い。殺したいくらいに。だからね、悪魔と契約したの」
「悪魔だって? ふざけるなよ!」
メフィストに殴りかかったダミアンは右腕を掴まれ、小枝を折るかのように、かるくパキッと骨を折られた。
「あああああああっ!」
絶叫しても、誰も助けに来ない。誰も起きない。
ローラは助けが来ないことを察したのか、自力で逃げ出そうとした。窓を開けて、外へジャンプした。いや、ジャンプしようとした。しかし、その前にメフィストの影が伸びて、ローラの体に巻き付く。実体化した影につかまり、ずるずると引きずられて、私の前に連れてこられる。
「これは……夢……?」
「夢じゃない。現実よ」
私はローラの頬に思い切り平手打ちをした。パンっと小気味いい音がする。彼女の白い頬が赤くなり、痛さからか涙を流した。
二人はメフィストが悪魔だということがわかったのか、必死に謝った。それは心の底からの謝罪じゃない。反省しているわけじゃない。ただ、生き延びようとして、こびへつらうような、形だけの謝罪だ。
ごめんなさい、ごめんなさい、俺が悪い、反省しています、許してください、もう一度俺とやり直そう、本当は君のことが好きなんだ、私はこの男に騙されただけなんです、私たち友達でしょう、ユルシテ、ゴメンナサイ、タスケテ…………。
二人の声が途中から意味のない音にしか聞こえなくなった。
「どうしますか?」とメフィスト。
「できるだけ残酷に殺して」と私。
メフィストは悪魔のように微笑みながら、嬉々とした表情で二人を拷問する。
二人の悲鳴、泣き叫ぶ姿。それらをぼんやりと見ながら、考える。私はこれで幸せになれたのだろうか? 復讐を遂げて気が晴れた。でも、これって幸せ?
やがて、二人は死んだ。
私たちはダミアンの家から出た。
「アンナさん」
メフィストに名前を呼ばれた。
「これで、幸せになれましたか?」
「……あんまり」首を振った。「でも、これで契約は――私の願いはかなった。だから、私の魂を――」
「いいえ。まだ契約は終わっていません」
「……え?」
「あなたが幸せになっていないのだから、契約は続いています。『私を幸せにすること』――それがあなたの願い」
「……そういえば、そうだった」私は言った。「でも、それじゃあ、これからどうするの? どうやって私を幸せにするの?」
「あなたが幸せになって満足して死ぬまで、私は一生あなたの傍にい続けます」
真剣な表情でメフィストは言った。思わず、私は笑ってしまった。
「何それ、プロポーズみたい」
悪魔は微笑む。
「あなたを幸せにするためには、傍にい続けなければいけないし、時間だってとてもかかる。悪魔の私とともに、これからの人生を歩んでゆくのは嫌ですか?」
「いいえ。嫌じゃないわ。でも、あなたはそれでいいの?」
「ええ。好きな人とともに人生を歩んで行けるのだから」
「…………」
…………。
今、さらっととんでもないこと言ったよね……? 好きな人――私。つまり、私はこの悪魔に惚れられたということか。
でも、まったく嫌な気分じゃない。むしろ、とても嬉しい。
「何それ、やっぱりプロポーズ?」
「ええ。プロポーズです」
メフィストは私に手を差し出した。その手を握る。悪魔の手は冷たいのかと思いきや、けっこう温かかった。
「まずはどうするの? どうやって私を幸せにしてくれる?」
「そうですね。自由に動けるようになったのだから、思い出作りのために旅行とかどうですか?」
「……それ、ただ単にあなたが旅行したいだけでしょ」
「その通り」悪魔は笑った。
「まあ、いいわ。死ぬまでに私のことを幸せにさせてね」
「もちろんです」メフィストは自信満々に頷いた。「そういう契約ですから」