応報〈黒田長政と敵弓兵の逸話〉
馬に揺られるたび、錣の内で音が谺する。
数多の火筒が、ぱらぱらと弾ける音。
矢羽根が空を切る音。それらが、甲冑を叩く音。
鎖を破り、肉を貫く音。
呻き声。嬉声。怒号。
人波が川面を攫って、泥が跳ねる。
彼我の槍と剣とが、鎬を削る。
「敵に背を向けるな! 背を向けたらば士分を剥奪するッ! 戦え、殿を守るのだッ!」
喉を擦り切るような声は、足並みを乱した足軽たちが響めく中に埋もれている。だが六尺を超える偉丈夫の姿は、金の法螺貝兜も相俟って瞭然と見えた。
「六之助は負傷したか!」
「菅どのは、矢に撃たれたようにございます!」
組頭のひとりが馬上の長政に駆け寄り、そう応じた。長政の目に、顔を押さえる六之助の姿が映る。太刀を左手に持ち替えている。足軽数人が、傾ぐ巨体を支えていた。
鉄砲組頭でもある彼の負傷を受けて、兵の多くが動揺している。敵に背を向け逃げ出す者らに向け、六之助が先の言葉を繰り返していた。
長政は奥歯をぐっ、と噛み締めた。
怒りと焦燥とで、胸の早鐘が鎧を打ち砕かんほどになっていた。
「六之助は退らせろッ。他の者はなにをしているッ! 奴らは所詮、明の犬どもに過ぎん。怯むなッ!」
違う。長政は己の発破を否定する。
今相手をしているのは、明の犬……従僕の朝鮮の兵だけではない。その後ろ盾である明の軍勢がいる。いずれも火器は持たないが、近接戦闘に特化した短弓の扱いに秀でている。そして両者は、矢の取り扱いに違いがあった。明軍の矢には、附子の毒が塗布される。
現にいくらかの兵は、急所を外したにも関わらず命を落としていた。
六之助の体に矢柄は見えなかった。恐らくは掠めただけだ。なのに、右半身がまともに動かず、刀も握れなくなっていたのだ。
「恐れるのも当然か」
敵味方の喧噪の中で、ぽそりと呟く。
長政は目線を落とした。がたがたと、手綱を握る手が震えていた。ちっ、と舌を打つ。提げ持っていた白熊の采配を腰に差すと、鞍に手を掛け馬を降りた。
「殿」
周囲の将兵らに、一層の緊張が走る。長政は腰の鞘を掴んで、すらりと刀を引き抜いた。
手の震えは、止まった。
「皆共かかれェ!」
刀を掲げ声を大にし、泥濘を蹴って駆け出す。
「俺より後ろに退かば斬るぞッ!」
水牛の金角と刀の白刃とが先陣を照らす。大将の単騎突撃を無視はできない。弱腰だった者もみな、踵を返して大将に従う。
敵軍は川の向こうだ。川はさほど広くない。深さも脚の付け根に届くか否かという程度だ。それでも、川の流れと水の重さで動きが鈍った。
──客、水を絶ちて来たらば、之を水の内に迎うること勿く、半ば済らしめて之を撃つは利なり。……渡河を試みる敵はすぐには迎え撃たず、中軍までが川に入ったところで討つべきである。孫子の一節だ。
「殿、これ以上は危のうございます!」
先刻より傍にいる組頭が長政を諌める。
今〝半ば済らしめて〟いるのは寄手である黒田の軍だ。いわれずとも、危険なことは百も承知なのだ。長政は敵軍を見据えたまま、苛々と顔を顰めて足を止めた。
「貴様、臆したかッ」
「臆してなどおりませぬ! お傍にて、殿をお守りするのが我ら家人の役目にて。しかしながら、この矢の雨を掻い潜り渡河をするのは」
「なんだ。いってみろッ」
口を噤んだ組頭に、長政が振り向いた。
いない。
浅く震えるように息を継いで、足元を見た。倒れている。長政の目がふるふると揺れる。水没した首から矢柄が延びて、水を赤く濁らせているのが見て取れた。
正面を見ると、敵将のひとりと目があった。日ノ本のそれよりも小型の弓に矢をつがえて、長政に狙いを定めている。
「きさま、かァァァ゛ア゛!」
こめかみに青筋を浮かべて、長政は川の半ばにまで進んだ。撃たれた組頭の同輩が慌てて声をあげ後を追うが、長政には聞こえていない。
ここぞとばかりに、敵将の手から矢が離れた。長政は咄嗟に、刀を顔の前で構えた。
「ぐッ」
長政は体をくの字にして唸った。左の前腕に、矢が深々と突き刺さっている。左腕の先は痺れ、感覚が鈍い。
おのれ。おのれッ!
血で濡れた柄を握り直す。切先が震えるのは、指先が覚束ないからばかりではない。長政は怯むどころか、鞭打たれた駻馬のごとく川を進み、
どすっ──
と、狼狽する射手の脇をひと突きにした。
川面に伏した部将を見て、大陸方の雑兵たちが叫喚する。その声の中心に、長政がいる。別な敵将が繰り返し号令している。正気づいた兵士らが、次々と怨敵長政へ槍先を向ける。
長政は退くでもなく、刀を構えて応えとした。
「殿!」
と、視線の先に見知った黒具足の集団が、水飛沫と共に割り込んだ。
長政は瞬いで、刃先を下に向けた。
「お前たち、なにゆえここに」
又兵衛、善助、太兵衛。それぞれ組を任され、他所で指揮を執っていたはずだ。
「殿の兜は目立ちますからなあ」
と、太兵衛が哄笑する。さりながら、構えた大身槍で隙なく敵兵を牽制している。彼らは己が大将が深入りしているのを見るにつけ、慌てて駆けつけたようである。
太兵衛が続けざまに口を開いた。
「兵らに紛れて退がるがよろしい。我らが時を稼ぎますゆえ」
「ならぬ」
間を置かず、長政が噛みついた。
「殿は撃たれたのですぞ!」
「この程度、撃たれた内には入らん!」
同じく槍を持ち諫めに入る又兵衛を、長政が睨め上げる。その左腕からは、どくどくと血が流れ続けている。まるで怒りを火種に、血が沸くかのようだ。
「菅どのが毒矢に撃たれたことを、失念されたのですか!」
「なればこそだ! 今も俺の目の前でひとりやられた。みな恐れておるのだ。黙って見ておれるか!」
また、これだ。
ひくりと目の下を引き攣らせた。又兵衛の心の内に不満の言葉が湧いて出る。──その言葉を丸のまま返してやりたい。この殿様は、あまりに己を軽視しすぎる。己のような、一介の侍大将とは違うというのに。
「この……ッ」
「大将が討たれては、元も子もないではござらぬかァ!」
わからずやめ云々と悪態を吐くつもりが、筆頭家臣の雷火のごとき怒号に、さしもの又兵衛も息を呑んでしまった。
善助は大きく息を吸うと、目尻に皺を寄せて穏やかに言葉を続けた。
「手負いの者を庇って戦えるほど、余力はありませぬでなぁ」
「善助……」
「ここは我らに任せて、お退きくだされ」
長政が首を振って拒絶する。がちゃがちゃと、具足が鳴いている。そうしている間にも、いくらか気骨のある敵兵が槍を手に襲い来ている。
「おい、又兵衛! 殿を引き摺ってでも連れて帰れ!」
敵兵を迎え撃つ太兵衛が、痺れを切らしてがなりたてる。藪から棒な指名に、又兵衛は眉を寄せた。
「俺も退け、と?」
それは、喉の奥から不意に滑り出た程度の、小さな呟きだった。太兵衛にとっては、不満から黙りこくったように思えたのだろう。
「返事ィ!」
と、鼓膜にじんと響く濁み声で一喝した。
「……はっ。引き摺ってでも、殿を連れて戻ります」
又兵衛が一礼して応じる。長政も観念した様子でひと息つくと、刀を鞘に収めた。
「六之助を見舞い、治療を終え次第すぐに戻るからな。それまで指揮を頼むぞ、善助」
「お任せくだされ」
力強く応えた善助が、ふたりに背を向ける。「これよりは儂の下知に従え」という言葉に、「応」と声が上がった。
「参りましょう」
又兵衛が促すと、長政も頷いた。
長政を先に行かせ、又兵衛がその背を守る。人波から浮かんで見えた水牛兜の金角も、やがては姿をくらました。
※
ふたりの来た道には、猪の掘り返したような軌跡が残っている。当の長政は、己が耕した道端に座り込んで、又兵衛に左腕を預けている。
と、いうのも。はじめは足早に歩いていた長政だったのだが、周囲に人気がなくなるや足取りが覚束なくなった。そこで又兵衛が脇を抱え、ほとんど引き摺るようにして歩いてみたが、長政の気が萎えるばかり。
どうやら、矢傷が思いの外に厄介なようだ。と、応急処置をすることになったのだ。
「まさか、本当に引き摺るはめになるとは思いませんでしたよ」
矢傷が帯紐で包まれ、きつく縛られた。
「はは。少し失血し過ぎたかな」
「笑ってる場合ですか」
ちっ。と主人の目も憚らず舌打ちする又兵衛に、長政は眉を八の字にして苦笑した。原因は明確であったから、何もいい返せなかった。
「身体に障りはありませんか」
「左手は使い物にならんが、それだけだな。……ああ、目眩もする」
又兵衛の「本当に、それだけか?」といいたげな視線に、渋々、口を尖らせながら付け加えた。又兵衛はやれやれと首を振って、紐の端切れを懐に突っ込んだ。
「毒ではなさそうですが、早く診て貰わなくては」
「もう、引き摺られるのは嫌だぞ」
「仕方がないでしょう。肩を貸したくても、できないんですから」
ふたりは一尺近く身の丈が離れている。逆の立場ならば、長政が又兵衛の身体を下から支えてやったことだろう。もっとも、又兵衛は断るに違いないが。
「馬留まで目と鼻の先なので、我慢してください」
又兵衛が脇を抱えると、
「目と鼻の先なら歩く」
長政が突っぱねて、よろけつつ自立して見せる。
「そんな調子じゃあ、日が暮れてしまいます。駄々を捏ねんでください」
先刻までの張り詰めた様子はどこへやら。主従の間には長閑な時が流れ、尉鶲の木枝が打ち合うような声すら、聞こえて来るほどであった。
「殿ぉー」
ふと、ふたりの耳に聞き慣れた声が届いた。歩いて来た方角に目を向ける。どたどたと走る皆朱の具足姿は、緑に覆われた景色の中では鮮烈に映った。
「兵助か」
「なぜあいつがここに」
両人とも訝しげな表情で見ている。それもそのはず。兵助は何を置いても武働きせんという男だ。自ら戦場を離れるなど天地が返ってもありえない。
「おい、兵助。まさか善助が嫌で逃げ出したのか」
「ええ。はい。左様です」
ふたりの前でゼイゼイと息を切らす兵助に、長政は天を仰いだ。
呆れて物もいえないとはこの事だ。善助と兵助は猫と鼠。加えて兵助は我儘気質だ。今更叱る気にもならない。
案の定、兵助は呆然とする長政のことなど気にも止めない様子で、「後藤、おい」と又兵衛の腕を小突いた。「なんだ」と又兵衛が鬱陶しそうに腕を引っ込める。
「見りゃあわかるだろうが、今は殿の護送中だ。お前は戻れ」
「その役、俺に替われ」
「はぁ?」
突然なにをいい出すんだ。目を丸くする又兵衛に、兵助は幼子がぐずるような素振りで
「あの爺の下で働くのは嫌なんだよぉ。働かない俺なんかより、お前が行った方がいいだろぉ?」
と訴えた。爺というのは善助のことだ。
堂々とした横着さは、いっそ清々しさすら覚える。又兵衛はやれやれと首を振り、長政を一瞥した。「行け」と長政が顎をしゃくったので
「わかった、わかった。殿は失血しておられるから、介助してやれ」
とだけ伝えて、己は来た道へ駆け戻って行った。
こうも易々と事が成るとは。兵助は、又兵衛の背と長政を交互に見てぽかんと口を開けた。
「兵助。軍規違反だ。ただでは済まんぞ」
剣呑とした声音に、兵助は依然けろっとしている。
「首を切られますか」
「俺を無事に陣中へ送り届けたら、謹慎で済ませてやる」
「後藤どのは、なにゆえ戻りましたか」
「お前が槍を取る理由と同じだろうな」
「ふぅん……」
長政の言葉に釈然としていないようにも見える。が、元より打てども鳴らずという性格の男だ。
「いいから、肩を貸せ」
急げ急げと手招きして、寄せられた肩を支えに立ち上がった。
「はよう前線に戻らねばならん」
「傷が治るまでは、六之助のやつが離しません。それでもというなら、手負いであろうと殿について回りますよ」
「それは困るな」
くっくっ。と笑いが零れる。皆が皆、長政という若殿に命を預けている。己の命運を賭してでも守らんとしている。長政から家臣への想いもまた、──殿様にしては軽率なところもあるが──同様である。
「俺は、果報者だな」
かくして、日が傾く前には馬留を出発し、本陣に向かうことができた。出迎えにはやはり六之助がおり、左腕の怪我を見るや長政を療治所へ押し込めてしまうのだった。
〈了〉