第九十七話 難境
『グランギニョール』序列再考トーナメントの予選・第二仕合。「コッペリア・ベルベット」は「コッペリア・クロエ」の放った戦闘用ネットによる攻撃を避けきれず、足に被弾してしまう。その様子を観戦している闘技場の貴族たちはしかし、ここから展開されるであろうベルベットの逆転劇に仄暗い期待を寄せるのだった。
一方的な展開が繰り広げられていた。
クロエが水色のショートドレスを翻し、鎖で編まれたネットを力強く振るう。
脚を負傷しているベルベットは回避が間に合わず、被弾を重ねる。
漆黒のワンピースドレスは無残に引き裂かれ、飛沫く様に鮮血が舞う。
クロエの攻撃によるダメージは、もはや全身に及んでいた。
脚はおろか、腕にも、胸元にも、脇腹にも、浅く無い裂傷を負っている。
濃縮エーテルの紅が円形闘技場の石床に、点々と飛び散っていた。
反撃の糸口は未だ掴めていない。
防戦一方だ。
それほどにクロエが扱う『投網』は、攻略が困難なのだ。
細い鎖で編まれた重厚なネットは、投擲されると扇状に広がり、三メートル先までの空間を一気に薙ぎ払う。
キラキラと煌めくのは、ネットの縁に取りつけられた無数の鏢だ。
近ければネットにて打撃され、遠ければ鏢が鋭い斬撃を放つ。
変則的な武装であり、扱い難さは類を見ないが、使いこなす事が叶えば、これほど凶悪な武装はあるまい。
クロエは大きく踏み込みながら、横薙ぎにネットを打ち振るう。
更にはそのまま背面に旋回し、上から叩きつける様な袈裟掛けの斬撃を放つ。
迅速に繰り出される攻撃を、ベルベットは、鈍い反応で辛うじて回避する。
その鈍重な動きを追い討つ様に、クロエの連続攻撃が止まらない。
縦横に空間を切り裂き、一歩たりともベルベットを近づけない。
いにしえの闘技場で『投網』を用いて戦闘を行った『網闘士』は、網以外にも三叉槍――トライデントを併用していたと伝えられている。
しかしクロエは、トライデントを装備していない。
副武装は腰の後ろに取りつけられた、刺突用のミゼリコルドのみである。
両手で『投網』を操作する事に、専心しているのだ。
その結果が、変幻自在かつ強烈無比な連続攻撃に表れていた。
◆ ◇ ◆ ◇
美しくも豊満な肢体を包み込むのは、臙脂色のイブニングドレス。
ビロード張りの椅子にゆったりと腰を降ろし、右手でワイングラスを傾ける。
ウェーブ掛かったライトブラウンの長い髪、整った相貌に涼しげな眼差し。
銀縁眼鏡の奥で、ヘーゼルの瞳が冷たく光る。
大理石造りのバルコニー席より闘技場を見下ろす、ベネックス所長だった。
「大ピンチじゃないか、イザベラ。この調子で勝ち上れるのかな?」
悪戯っぽい口調で、そう問い掛けたのは、傍らに立つ長身痩躯の男だ。
シルバーグレーのラウンジスーツに、シルクの白いシャツ、タイの色は赤。
オールバックに整えたグレーの頭髪、瞳の色もグレー。
左眼ではモノクルの細い鎖が揺れ、左腕は黄金の色に輝く義肢だ。
天才錬成技師・マルセルだった。
「最後に勝てたなら、ピンチはピンチで無くなるのさ、マルセル君」
砕けた調子でベネックス所長は応じる。
振り向いたその表情には、焦りの色など微塵も無い。
不敵な笑みと、ある種の余裕が感じられた。
ベネックス所長は、更に言葉を続けた。
「そんな事より――良く来てくれたね、マルセル君。『相互不干渉』の通達を理由に、口性無い連中が八百長だなんだと騒ぎ出しそうだが、キミなら気にしないと思っていたよ」
マルセルは苦笑する。
そんな事より――という切り出しに笑ったのか。
全身を朱に染めたベルベットの姿を見てなお、そう言うのかと。
そして答える。
「当然だね、会話や挨拶まで制限される謂れは無いさ。八百長だと思う奴には思わせておけば良い、どうせ勝つのはボクだし、ボクが勝てばみんな黙るんだ」
世間話の様な軽い口調だ。
トーナメントに際し、絶対の自信があるという事か。
「――それで? ボクを呼びつけた理由はなんだい?」
先の言葉に続けて、マルセルは質問する。
ベネックス所長は卓上に置かれたデキャンタに腕を伸ばした。
そのまま空いているグラスに、ワインを注ぐ。
マルセルに勧めつつ口を開いた。
「賭けでもどうかと思ってね。キミのオランジュと、私のベルベット……どちらがトーナメントで勝ち残るか」
「ほほう、これはこれは大きく出たねえ……」
黄金に輝く左の義肢を伸ばしたマルセルは、グラスを手に取り驚いてみせる。
愉しげに眼を細めつつ、ワインで唇を湿らせながら言った。
「ボクは構わないよ? 賭け事は大好きだ。しかし、何を賭けようと言うのかな? 余程の金額で無ければ――」
「キミが第二皇子と推し進めている事業に、参画したい」
ベネックス所長はマルセルの言葉を遮る様に、そう告げた。
マルセルは口を噤むと顔を上げ、改めてベネックス所長を見つめる。
「……ボクとエリク皇子が進めている事業に?」
「ああ、その通りさ。私のベルベットがトーナメントで勝ち残ったなら、キミが私を推挙してくれ。私なら薬科学の分野で十二分に貢献出来ると思うがね」
マルセルの視線を正面から受け止めながら、ベネックス所長は答える。
黄金の義肢が煌めきながら、ワイングラスを傾けた。
一口、二口、ワインを味わって後、マルセルは探る様に尋ねる。
「んー……ボクと皇子が、どんな事業を起こそうとしているのか、イザベラは知っているのかな?」
「凡そは想像がつくさ。言ってしまえば、こんな『グランギニョール』の為に、キミが八方手を尽くして動き回るワケが無い。そうだな……ここ数ヶ月で急激に、ガラリア国内での『翠玉切片』需要が伸びた――私は素材の卸しもやっているワケだが、職業柄その辺りには敏感なのさ。高価な上に特殊な素材だ、『エメロード・タブレット』や『人造脳髄』の錬成くらいでしか使わない、そうそう特需が発生する様な代物じゃあ無い……」
軽い口調だが、銀縁眼鏡の奥で光る眼差しは鋭い。
挑み掛かるが如き眼光だ。言葉は続く。
「キミがキミの宿願を叶えるべく、無茶を始めたんだろうってね、ピンと来たよ。エリク皇子も巻き込んで『錬成機関院』が作った『枷』を壊し、この世界に革新をもたらそうとしている――ソイツに私も混ぜろ」
そう言い終えたベネックス所長は、グラスのワインを口にする。
マルセルは二度、三度と頷き、おもむろに口を開いた。
「……良いよ? キミのベルベットがトーナメントを勝ち抜けたなら、キミを皇子に紹介しよう。で、キミが負けた場合は、何を支払ってくれるんだい?」
「ベルベットに詰め込んだ新機軸を全てキミに開示する。それでどうだい?」
マルセルは目を閉じると天を仰いで見せた。
改めてベネックス所長を見遣り、唇を歪める。
「ずるいなあ……キミは大して損をしないんじゃないか?」
「どうかな? 私はキミを出し抜きたいと思っているよ? そこに間違いは無いさ。それにこれは、キミにとってもメリットしか無い。私が勝っても、負けても、キミはキミが願う通り、錬成科学の革新と発展の新たな可能性を得る事になる。ベルベットは私の自信作だからね」
事も無げにそう言って、ベネックス所長はグラスを掲げる。
マルセルは苦笑すると、同じ様にグラスを掲げた。
グラス同士の縁が触れ合い、澄んだ音が微かに響く。
マルセルは言った。
「まあ良いさ、交渉成立だ。イザベラ」
ベネックス所長は笑みを浮かべると、グラスのワインを飲み干した。
マルセルもグラスを大きく傾け、一息にワインを飲み干す。
そのまま傍らの丸テーブルにグラスを置き、バルコニーの外に視線を送った。
「とはいえ――あの調子で、本当にベルベットは勝てるのかい?」
その言葉にベネックス所長も、ビロード張りの欄干の向こうを見遣る。
すり鉢状に設けられた観覧席では数多の貴族達が喜色満面、狂喜していた。
大気を揺らすほどの大歓声が、ドーム状の天蓋に反響して降り注ぐ。
闘技場で行われている死闘の行く末に、皆が興奮し切っていた。
「ボクの眼には、半死半生に映るがね?」
そう言って、マルセルは笑った。
◆ ◇ ◆ ◇
いまや逃れる事すら儘ならぬほど、ベルベットの動きは悪化していた。
覚つかぬ足取りでよろめき、不完全な回避を繰り返すばかりだ。
石床の上には、ドロリとした紅い文様が描かれている。
被弾の限りを尽くしたベルベットの、のたうつ様な軌跡だった。
漆黒のワンピースは既にボロボロだ、いたるところ切り裂かれている。
裂かれた個所から覗く皮膚は、爆ぜる様に傷口を開いている。
千切れた布地が、紅く濁った肌にへばりついていた。
対するクロエは全くの無傷だ。
ベルベットを一切寄せつける事無く『投網』による攻撃を繰り出し続ける。
横薙ぎにネットを振るえば、ベルベットは血を流しながら後方へと逃げる。
縦に打ち下ろせば、利かぬ脚を引き摺りながら、横へと逃れる。
両手に携えられた二振りのグラディウスに、どれほどの意味があろうか。
成す術も無く、逃げ惑っている様にしか見えない。
クロエは思う。
過去の仕合でベルベットが見せた、有り得ぬほどの逆転劇。
この状況からでも起こし得るのか、否か。
可能性は、ゼロでは無い――それがクロエの読みだった。
瀕死の深手を負ってなお、ベルベットは稼働し、逆転したのだと聞いている。
信頼に足る主・ランドンが、その仕合を実際に観た上での言葉だ。
故に一切の油断無く、ベルベットを詰む。
一際大きく踏み込んだクロエは、身体ごと旋回する様にネットを振るった。
その攻撃をベルベットは、ギリギリのところで回避しようと後退る。
――が、次の瞬間。
振るわれたネットが、急激な広がりを見せた。
これまでの様な、扇状の広がりでは無い。
ベルベットの周囲一帯を、丸ごと飲み込む様に、ドーム状に広がったのだ。
全身に負った負傷と出血で、動きの鈍いベルベットは回避し切れない。
細い鎖で編まれたネットは金属音を響かせつつ、ベルベットを捕獲した。
直後、クロエはネットから伸びる鎖を引き絞る。
ベルベットに被さったネットの縁部分が、一気に収縮する。
それは魚を獲る網と、まったく同じ仕組みだ。
全身を絡め取られ、締め上げられ、ベルベットはバランスを崩し、転倒する。
転倒したせいで、全身に絡むネットが更に纏わりつく。
しかもネットの縁に取りつけられた鏢が、脚に突き刺さっている。
ネットから逃れる事すら難しい。
ベルベットは両手に握ったグラディウスを、強引に振るおうとする。
しかし、鎖で編まれたネットを切り裂く事など叶わない。
絞り上げられたネットの中にあって、満足に剣を振るう事が出来ないのだ。
クロエは眼前で足掻くベルベットを見下ろしながら、左手を腰へと回した。
そのままコルセットに取り着けた革ケースから、副武装の刺突剣を抜き放つ。
「もはや逆転は無理というもの。敗北の宣言をお勧めします」
煌めくミゼリコルドを手に、クロエは低く告げた。
・マルセル=達士、天才と呼ばれる錬成技師。レオンの実父。
ベネックス所長=レオンを裏切りった有能な技師。ベルベットの主。
・ベルベット=ベネックス所長所有のオートマータ。短剣を駆使する。
・クロエ=ランドン男爵所有のオートマータ。戦闘用の投網を操る。




