第六十五話 血族
前回のあらすじ
壮絶な消耗戦、持久戦の末に『天眼通』を打ち破られたグレナディ。視力の大半を喪失したグレナディに対し、エリーゼは敗北を受け入れる様、提言した。
曾祖父の代から続く錬成技師の家系だった。
ヨハンの父もまた、優れた技量を持つ有能な錬成技師だった。
ガラリアの『電信』システムに統一規格を設定、その普及に貢献したのが父だった。
男爵位を持つ有力な地方豪族が、父の研究をサポートしていた。
その様な家系故、ヨハンも錬成技師になる事を望まれて育った。
ヨハンはその事に、何一つ疑問を抱かなかった。
父の跡を継ぎ、優秀な錬成技師となる、当然の事だと考えていた。
ヨハンには二つ年上の兄、テオドールがいた。
兄のテオドールは、母親似の見目麗しい少年だったが、酷く病弱だった。
些細な事で体調を崩しては床に伏せ、外出さえ儘ならぬ程だった。
ヨハンの母親はいつも病弱な兄を支え、献身的に介護を続けていた。
父も兄の体調を気遣い、寄り添い、出来る限りの支援を行っていた。
その上で父は、ヨハンに大きな期待を寄せていると、常々口にしていた。
ヨハンが『モルティエ』の技術を受け継ぐんだ――それが父の口癖だった。
錬成技師に相応しい教育を、幼少の頃からヨハンに施した。
己が得た錬成の知識を、惜しみ無くヨハンに伝えた。
ヨハンは父の期待に応えるべく、全力で錬成技術の習得に取り組んだ。
十二歳で特別区画の中等学習院へ入学する頃には、既に高等学習院への編入が可能な程の知識と技術を習得していた。
しかし母は、そんなヨハンを顧みようとはしなかった。
いつも病弱なテオドールに寄り添い、尽くしていた。
それも仕方が無い事だと、ヨハンは子供ながらに考えていた。
それほどに兄は弱々しく、消え入りそうで、憐れに思えたからだ。
一日の大半を、香炉の香り漂う寝室で過ごしていた。
身体も小さく、走る事すら儘ならない。
同じ年頃の子供達と一緒に遊ぶ事も禁じられていた。
ならば話し相手くらいなら務まるのではと、ヨハンは兄がひとりの時、寝室を訪ねたりもした。
テオドールはヨハンの訪問をいつも歓迎し、ベッドで身体を起こすと微笑んだ。
そして、最近はどんな事があったのかと、細い声で質問するのだ。
ヨハンは出来るだけ詳しく、最近の出来事や街の様子を伝える、そうするとテオドールは嬉しそうに目を細めながら何度も頷き、耳を傾けるのだった。
――が、そんな時間も、長くは続かない。
母が兄の部屋へ戻ると、ヨハンはすぐに追い払われてしまうのだ。
身体の弱いテオドールに負担を掛けてはいけない、気遣いなさいと。
母の言い分は理解出来た、兄の病弱さは如何ともし難い程なのだ。
ただ、寂しくもあった。
母から邪険にされている様で、辛かった。
思えば、母に優しく接して貰った記憶が殆ど無い。
母はいつも兄に掛かりっきりだった。
兄は病弱で、介護が無ければ生活も出来ない。
その事はヨハンも良く知っていた、それでも寂しい事に変わり無かった。
父に対しても、思う事があった。
父とヨハン……二人の間に他愛も無い親子の時間は、殆ど無かった。
将来を嘱望されている事は純粋に嬉しかったし、『モルティエ』の技術を継がせるべく、高度な教育を施して貰える事にも感謝していた。
ただ……兄に対して見せる様な優しさも、出来れば与えて欲しかった。
そんな寂しさを抱えながらも、ヨハンは錬成技術の研鑽に励んだ。
父の期待に応えたかった。母にも認めて欲しかった。
両親にとって、誇りと思えるほどの息子になれたなら。
自分も兄と同じ様に、優しく接して貰えるのでは無いか。
十二歳だったヨハンは、そんな自身の考えを子供っぽいと恥じ入りながらも、密かに期待していたのだった。
中等学習院へ通う様になり、半年が経過した。
定期試験でヨハンは常に最優秀な成績を納め、すぐにでも飛び級が可能だと、教師から伝えられる程の生徒になった。
ヨハンの評判は、瞬く間に学習院内で広がった。
多くの生徒から、羨望や憧憬の目で見られる様になった。
それは擽ったくもあり、同時に『モルティエ』の人間として、誇らしくもあった。
――が、そんなある日。
ヨハンは嫌な噂を耳にした。
それは、ある種のやっかみだったのかも知れない。
特別区画にありがちな、特定個人の身分や地位に関する下らない噂話だった。
普段なら馬鹿馬鹿しいと耳を貸す事すら無かっただろう。
ただ、その特定個人がヨハン自身であった為、聞き流す事が出来なかった。
ヨハン・ユーゴ・モルティエは『モルティエ家』の血を継いでいない。
作業中に事故死した錬成技師夫妻の息子を、モルティエ家が引き取ったのだ――そんな内容の噂だった。
中等学習院は錬成科学教育にも力を入れている為、ヨハンと同じく錬成技師の家柄に生まれた者も多い、錬成技師同士で技術交流を行う事もある――その為、この噂に信憑性が感じられてしまった。
更に、過去の記憶がその想いに拍車を掛けた。
自分は、両親から優しく接して貰った記憶が無い。
しかし兄であるテオドールは、二人から十分な愛を注がれていた。
兄のテオドールと自分――接し方に差があるのは、兄の病弱さ故では無く、血のつながり故では無いのか。
耐え切れずにヨハンは、父に真相を問うてしまった。
僕がモルティエ家の血筋では無い、そんな噂を学校で聞いた。
本当かどうか教えて欲しい。
問われた父は、隠す事無く真実を告げた、その通りだと。
ヨハンの本当の両親は、錬成作業中の事故で亡くなったのだと答えた。
ヨハンが二歳になる前の事だと。
父親は続けた、私は不器用で、妻はテオドールの事で胸を痛めている、二人ともヨハンと上手く接する事が出来なかったかも知れない。
でも、私も妻もヨハンの事を、実の息子の様に思っている。
今まで黙っていて、すまなかった。
その言葉にヨハンは、頷く事しか出来なかった。
怒りも悲しみも、湧いて来なかった。
父の言う通りだと思った。
父は僕の事を本当に、息子の様に思ってくれているのだろう。
でなければ『モルティエ』を継がせようとはすまい。
ただ、病弱な兄とは扱いが違うだけだ。
同時に、母がなぜ自分に冷たかったのかも理解出来た。
実の息子であるテオドールは、病弱さ故『モルティエ』を継ぐ事が出来ない。
血の繋がらぬヨハンが『モルティエ』を継ぐ事になる。
それが悲しいのだろう。
ヨハンは全てを理解し、飲み込んだ。
兄は病弱な実の息子として、愛されている。
僕は『モルティエ』の技術を継ぐ者として、必要とされている。
どちらも同じ息子なのだ。
その後もヨハンは、優秀な生徒として学習院で過ごした。
ただ、父に対して、母に対して、兄に対して、複雑な想いを抱えてしまった。
でも、どうすれば良いのか解らない。相談すべき相手もいない。
それでも『モルティエ』の家に引き取られた恩は返そうと考えていた。
それが、父と母に対する礼儀だと感じていた。
二年が経過し、ヨハンは十四歳になった。
その年の夏、大きな事件が起きた。
屋敷内で火事が発生したのだ。
瞬く間に火は燃え広がり、やがて屋敷を飲み込む大火災となった。
ヨハンは煙に巻かれながらも、屋敷の使用人達と共に外へ逃げ出した。
難を逃れた使用人達は、休む事無く消火活動を開始する。
男爵の元で働く他の従者宅からも、救助の人員が駆けつけて来る。
炎と熱、灰と瓦礫の中、みな懸命に消火活動を続ける。
不意にヨハンは、悲鳴にも似た声を耳にした。
母だった。
着衣も髪も煤けて乱れ、足元は素足で顔面は蒼白だった。
母は屋敷の使用人達を捕まえて叫んでいた、主人は何処なのか、テオはどうしたのかと。
使用人達は、互いの表情を探る様に顔を見合わせる。
誰かが答えた、ここにはいません――他の者が救助したのかも。
母は目を見開いたまま、口許を抑えて震え始めた。
燃える屋敷を仰ぎ見ると、激しく呼吸を繰り返した。
恐慌状態に陥っているとヨハンは感じた。
声を掛けるべきか迷っていると、母は掠れた声で呟き始めた。
きっとまだ中にいるのよ、だって主人はテオを助けに行くって、部屋を飛び出して行ったもの。
使用人の一人が応じる、奥様、我々が旦那様をお探ししますから。
そんな使用人の言葉を遮る様に、母は言った。
待って! 待って! 聞こえるわ! 聞こえる! 主人の声が、テオの声が聞こえるの! あの中にまだいるのよ!
そして母はふらふらと、炎上する屋敷へ近づき始めた。
ヨハンは驚き、母の前に立って留めようとする。
危ないよ、母さん! 近づいちゃ駄目だよ!
邪魔しないで!
母はヨハンを突き飛ばす様に押し退けると、いきなり走り出した。
そのまま母は、赤々と燃え盛る屋敷の中へと飛び込んで行ったのだ。
あっという間の出来事だった、誰にも止める事など出来なかった。
もちろんヨハンにも止められなかった。
茫然と見送るばかりだった。
数時間後、屋敷の火は消し止められた。
治安官たちの手で現場の検証が行われ、火元は兄・テオドールの寝室である事が解った。
卓上に置かれた香炉が何かの弾みで転倒、カーテンや本が燃え始めたのだ。
そして屋敷の焼け跡から、父と母、兄・テオドールの三人が遺体で見つかった。
三人の遺体は屋敷の裏口近くで、重なり合う様に倒れていたらしい。
信じられなかった。
何故、こんな事になってしまったのか。
火事から数日が経ち、葬儀が行われた。
葬儀には親族と、懇意にしていた錬成技師達が参列した。
ヨハンは言葉数少なに挨拶を繰り返した。
葬儀に参加した者はヨハンを憐れみ、親族達も出来る限りの援助を約束した。
しめやかに葬儀が進行する中、ヨハンはある事を考え続けていた。
なぜ母は、迷う事無く炎の中へ飛び込んで行けたのか。
僕には出来ない、そんな事をすれば死ぬ、間違いの無い事だ。
なのに母は一切躊躇無く、燃える屋敷へ飛び込んだ。
何故、そんな事が出来たのか。
死ぬ事も恐れず出来たのか。
しかも母は、屋敷の中から父と兄の声が聞こえると言っていた。
そんな事は有り得ない、あれほどの火事だ、聞こえる筈など無い。
しかし母は、兄の寝室とは逆方向の裏口で、父や兄と共に命を落としていた。
つまり本当に、父と兄、二人の声が聞こえていたという事だ。
僕には聞こえなかった。使用人達にも聞こえなかった。
しかし母だけには聞こえていた。この差は何か。
そう考えた時、幼少の頃より燻っていた想いが蘇る。
父と母と兄は、血の繋がった本当の家族だった。
自分は『モルティエ』の血を引いていない、だから聞こえなかった。
家族とは、愛とは、人の繋がりとは、それほどのものなのか。
僕は『モルティエ』の技術を継ぐ様に言われた。
でも、結局は家族になれなかったのではないか。
その想いが、ヨハンを苦しめた。
家族なら。血が繋がっていれば。愛があれば。
あの炎の中へ、飛び込めたのではないか。
「いや! キミは間違い無く『モルティエ』の血を引いている、安心して良い」
その男は、黒いスーツ姿に銀のモノクルを煌めかせ、笑顔で断言した。
グレーの瞳に、グレーの頭髪。
長身痩躯で若々しく見えるが、三十代の半ば程だろうか。
特別区画内に於いて、新進気鋭の天才錬成技師として知られる男――マルセル・ランゲ・マルブランシュだった。
一通りの葬儀が終わり、僅かに時間が空いた時だった。
ひとり立ち尽くすヨハンに、マルセルの方から話し掛けて来たのだ。
モルティエ氏とは何度もお会いした事がある、彼は実に素晴らしい錬成技師だった、卓越した技術を有していた、キミがモルティエ氏の息子さんかな?
そう言って微笑むマルセルに、ヨハンは答えた。
僕は父の、実の息子ではありません。
そしてヨハンは、自身の想いを、悩みを、マルセルに打ち明けたのだった。
なぜマルセルに相談しようと思ったのか解らない。
ただ、ひょっとしたら解ってくれるのでは、そんな気がしたのだ。
妙に人懐こくて優しげな微笑みのせいかも知れない。
「だけど僕は……母の様に、父や兄のもとへ走る事が出来ませんでした。僕が本当に父や母の血を引く『モルティエ』の人間なら……助けに行けたのかも知れない……」
ヨハンの言葉に、マルセルは軽く首を振りつつ応じた。
「キミの言う様に、時に『愛』や『想い』は理解を超える。だけどキミが愛ゆえに炎の中へ飛び込んでいたなら、キミは父上から授かった『モルティエの技術』を喪失していたかも知れない。キミは飛び込まないと判断した。それがどういう事か解るかね?」
マルセルは灰色の瞳で、ヨハンの目を覗き込んだ。
ヨハンは固まったまま動けない。
真っ直ぐにマルセルの瞳を見つめ返すばかりだ。
マルセルの言葉が続く。
「――キミは父上より託された『モルティエの技術』と『意志』を守ったんだ。キミは実の息子では無いのかも知れない、だけど錬成技師にとって本当に重要な事は、技術が、知識が、意志が受け継がれ、進化し続けて行く事なんだ。キミはモルティエ氏に言われたのだろう? モルティエの技術を継いでくれと。キミは確かに受け継いだ、生きて進化させる事が出来る……モルティエ氏は亡くなったが、モルティエ氏の『意志』はそこに在る。生けるキミの裡に技術として存在する!」
マルセルはヨハンの眼を見つめたまま、肩を両手で掴んで告げた。
「モルティエ氏も、キミも、ボクも、錬成技師だ。錬成技師が何をすべきか、もう解っている筈だ、苦しくとも前へ、満足する事無く、前へ進む『意志』を持つんだ。キミが折れない限り『モルティエの意志』は消えない。『意志』は『血』よりも濃い!」
「血よりも……」
父を、母を、兄を、全てを失って。
しかしヨハンは、この日を境に変わった。
理解したのだ。
確かに自分は、血を分けた家族にはなれなかった。
しかし自分が『モルティエ』を守ったのだと、ヨハンは自覚した。
父から継いだ『モルティエの意志』を守ったのだ。
ならばすべき事はひとつだ。
進化を、更なる進化を。満足する事無く、前へ。
同時にヨハンは、自身の錬成技術で研究すべき命題も得ていた。
あのマルセルでさえ『理解を超える』と評した『愛』と『想い』。
これらの現象に『モルティエの技術』を以てアプローチし、解き明かす。
困難であっても、難解であっても。
そしていずれは、あのマルセルに。
一〇年後。
ヨハンは『電信』『電話』の機構に、驚くべき技術革新をもたらした。
『愛』『想い』『人との繋がり』これらの現象を簡易エメロード・タブレットにて再現、電信装置に組み込んだのだ。
この功績を以て『革命児』と評される様になる。
そこから更なる研鑽を積み、『グランギニョール』へ正式に参加すべく『コッペリア・グレナディ』を発表。
ヨハンは『アデプト・マルセルの再来』と囁かれる様になっていた。
◆ ◇ ◆ ◇
精霊ラミアーの化身『コッペリア・グレナディ』。
彼女には、八人の娘達がいた。
グレナディは八人の娘達と『親子の絆』で繋がり、娘達の眼を通して物を見る、いわゆる千里眼の能力を有していた。
『電信』『電話』の技術を、極限まで突き詰めたひとつの成果だ。
この成果をヨハンは一切公表する事無く、グレナディに組み込んだ。
マルセルを目指し、マルセルに挑む為、秘匿したのだ。
『モルティエ』の技を継ぐ錬成技師として挑み、『グランギニョール』でマルセルに勝利する、それがヨハンの目標だった。
アデプト(達士)であるマルセルに『モルティエ』となった己を示す。
彼の隣りに並び立つ事を目指したのだ。
しかし。
その目標へ至る直前、グレナディは敗れ去ろうとしていた。
アデプト・マルセルの血を引く男が錬成した『エリーゼ』に。
戦闘用ですら無い筈の、あのオートマータに。
大した実績も無いオートマータに、グレナディが敗れ去る。
アデプト・マルセルの血を引く男に負ける。
血の繋がりとは、それほどの物なのか。
血の繋がりこそが、理解を超える程の何かを生み出すのか。
不意に、白いドレスを纏った傍らの娘が、欄干から手を滑らせてよろめいた。
ヨハンは咄嗟に娘の肩を抱き留め、転倒を防ぐ。
娘はヨハンの腕の中、顔面蒼白で浅い呼吸を繰り返している。
両目から零れる血涙も止まらない。
抱き留めた身体が信じられぬ程に熱い、疲労と発熱で立っていられないのだ。
――が、それでも娘は、血の滲む両の眼で闘技場を凝視している。
闘技場で向かい合う、エリーゼとグレナディを見ている。
そして最後の力を振り絞る様、娘は強引に身体を起こした。
グレナディの娘達とグレナディは、精神的に繋がっている。
そんな娘が、未だ闘技場を睨みつけている。
つまりグレナディは、まだ諦めていない。
まだ、勝ち目があると考えているのだ。
しかしここから、どうやって……。
「グレナディ……」
闘技場で膝を着くグレナディの名を、ヨハンは小さく呟いた。
◆登場人物紹介
・ヨハン=シュミット商会の代表。マルセルの再来と呼ばれる程、腕が立つ。
・ヨハンの父=『モルティエ』の名を継ぐ、高名な錬成技師。
・ヨハンの母=ヨハンの兄であるテオドールを溺愛する母親。
・ヨハンの兄=非常に病弱なヨハンの兄。
・マルセル=達士、天才と呼ばれる錬成技師。レオンの実父。
・グレナディ=シュミット商会が保有する非常に強力な戦闘用オートマータ。




