第一九一話 神童
・前回までのあらすじ
『マリー直轄部会』は『タブラ・スマラグディナ』拡散の犯人として目星をつけたマルセルを追い込むべく、エリーゼに仕合の続行を強要し、自分たちもまた証拠固めに奔走する。ギリギリの状況に陥ったカトリーヌ達は、それでも活路を見出すべくエリーゼのメンテナンスに力を注ぐ。そしてレオンは意識不明の重体となったナヴゥルを救うべく、錬成技師として腕を振るわんとしていた。
ガラリア・イーサ『特別区画』市街の中心部には、豪奢極まる建築物が連なっている。
グランマリー大聖堂に神聖教会館。
枢機機関院に高等衛兵院、高等裁判院、練成機関院。
喜捨投機会館に大劇場、そしてグランギニョール円形闘技場。
更にはアルコールを提供する高級サロン、キャバレー、ダンスホール等も建ち並ぶ。
蒸気機関に制御された大都会は、昼も夜も無く煌びやかに輝き続ける。
そんな街の煌めきを見下ろす様に、白亜の高層ホテルが天を衝いていた。
貴族御用達のホテルだ、外観内装全てに於いて格調高く仕上がっている。
最上階に設けられているのは、海外要人も利用するスイートルームだ。
スイートルームはアンティークかつ典雅な造りであり、趣深い風情が感じられる。
広々としたリビングルームに並ぶ家具調度品も、全て一級品ばかりだ。
リビングルームを抜けた先には、居心地の良い寝室が用意されている。
窓に掛かるカーテンと、床に敷かれた絨毯は、落ち着いた風合いのベージュ色だ。
壁には豊満な裸婦を描いた絵画、天井には美しい花を思わせる繊細なシャンデリア。
シャンデリアに並ぶ、ロウソクを模したエーテル式黄色灯は全て消えている。
窓辺に置かれたフレグランス・キャンドルの明かりが、寝室を照らす唯一の光源だ。
キャンドルライトが淡く照らすのは、部屋中央に設置されたキングサイズのベッド。
ベッドに敷かれた白いシーツの上。
ライトブラウンのロングヘアが、しどけなく広がっていた。
艶やかで張りのある白い肌を、柔らかそうなコンフォーターが包み込んでいた。
閉じた目蓋に長い睫毛、微かに綻ぶ唇、美しく整った横顔。
ベネックス所長は、黄金の光沢を帯びた義肢を枕に眠っていた。
ベネックス所長の傍らに、悠々と身を横たえているのはマルセルだった。
胸元に縋りつくベネックス所長を、左義肢で抱き寄せつつ眠っている。
その口許には、愉しげな微笑みが浮かんでいた。
◆ ◇ ◆ ◇
南方大陸の乾燥地帯に、『リシナス』という群生植物が存在する。
『リシナス』は小さな赤い実をつける多年草であり、その種子からは油が取れた。
『リシナス・オイル』といえば整髪料を指す言葉であり、誰もが知っている。
一方で『リシナス』の種子から、オイル以外の特定成分を選別抽出した場合。
それは『錬成抽出リナス毒』と呼ばれる、遅効性にして必死の猛毒となる。
故に『錬成抽出リナス毒』は、誰もが安易に扱える代物では無い。
知識と資格が無ければ、入手すら困難だ。
しかし、名高い錬成技師の家系に生まれ、神童とも評されていたマルセルは別だ。
薬科学の複雑膨大な専門知識も、一般常識の延長線上に備わる物でしか無い。
父が所有する屋敷の地下工房を探るだけで、禁忌の薬品など幾らでも見つかった。
マルセルが一五歳の時。
父親であるファブリス・ランゲ・マルブランシュが死亡した。
ファブリス・ランゲ・マルブランシュといえば、天才鬼才の異名を欲しいままにした錬成技師だったが、その絶頂期に『錬成機関院』の反対を圧し切り『エリンディア遺跡』での発掘調査を強硬した事でも有名だ。
しかし、遺跡内部発掘調査中に大事故を誘発させ、錬成技師を含む多数の死傷者を出し、その責を問われる形で『錬成機関院』での活動制限され、その影響力を失っていった。
以降のファブリスは、自身の軽率さと懇意にしていた貴族達の冷淡さ、『錬成機関院』の理解の無さを呪いながら、浴びる様に飲酒し続ける日々を送っていた。
そんなファブリスが倒れたのは、出掛けた先のサロンだ。
深酒の末に動けなくなり昏倒、しかも発熱しているとの事で、周囲の人々は病院への搬送を勧めたが、ファブリスはこれを拒否して自宅療養を選択する。
だが、その三日後にファブリスは、自室のベッドで死亡した。
死因はアルコール中毒に加え、流感を拗らせての病死と発表された。
父の死を境にマルセルは、若くして家督を継ぐ事となる。
幼い頃より、有り余る才能を以て神童と呼ばれながらも、父親・ファブリスが犯した不祥事に苦しみ続けた挙句、一五歳で天涯孤独の身となったマルセルの悲劇は、社交界に於いて語り草となった。
そんな彼に支援を申し出る篤志家が、幾人も現れた。
マルセルの悲しい境遇と、圧倒的な将来性を思えば、それは当然の事と言えた。
加えてマルセルの父親・ファブリスに対する『錬成機関院』の処分は、ファブリスの過去の功績を考慮するなら、行き過ぎたものでは無かったか、或いはファブリス失脚後の『錬成機関院』は、既得権益の保護にばかり力を入れ、革新的な行動を取る事の出来ない組織に成り下がったのでは無いか――その様に考える者が、少なくない事を示していた。
『錬成機関付属学習院』に飛び級で入学したマルセルは、周囲の期待を裏切る事無く、卒業まで常に学内トップの成績を維持していた。
学習院で教導する教授達からの覚えも良く、非の打ちどころなど全く無かった。
特に薬科学を指導する名誉客員教授のベネックス女史から、高い評価を受けていた。
更には錬成科学の分野に於いて、マルセルは複数の画期的な発見を行うなど、学生の身でありながら、その名声を高め続けた。
卒業が近づく頃には、『錬成機関院』専属の研究員という道が約束されていた。
それは、ファブリスが犯した罪が完全に精算された事を示し、同時にマルセルの代で、マルブランシュ家が再興出来る様にとの『錬成機関院』の配慮でもあった。
卒業後、マルセルは破格の好待遇で『錬成機関院』に迎え入れられた。
必要な最新機材も、マルセルの要求通り導入された。
その見返りにマルセルは新薬の開発を求められたが、僅か数年で結果を出した。
『錬成機関院』内でのマルセルの地位は、揺るぎないものとなる。
マルセルを支持する錬成技師達が増え、彼らはマルセルの思想、思考を支持していた。
その流れのまま、マルセルの為の独立部局を立ち上げようという話が出始めた矢先。
マルセルはいきなり『錬成機関院』に退職願を提出したのだった。
多くの錬成技師達が驚き、退職の撤回を願った。
幹部職員たちはマルセルに慰留を求めた。
しかしマルセルは平然と言い放った。
「――『意志』は『血』よりも濃い。錬成技師は錬成技師である以上、立ち止まる事なんて絶対に許されない。理想を求めず、立ち止まる様な錬成技師など、死んだも同然だ。ボクは錬成技師として、先へ進みたいのです」
結果、多くの技師達に惜しまれながら、マルセルは『錬成機関院』を退職した。
同時に幹部職員達の失望と反感もを買う事となったが、自由を手に入れた。
制約が解かれたマルセルは、誰の干渉も受ける事無く行動を開始する。
以降数年に渡り、マルセルの所在は誰にも掴めなくなった。
表向きは、海外への自主留学と発表されていた。
しかし公的機関である『錬成機関院』ですら、マルセルの同行を把握出来ない。
マルブランシュ家の財務及び税務等の処理は適切に行われていた為、留学は事実であり行方不明という事は無い。
にも拘らずマルセルの消息は、誰にも追えなくなっていた。
いったい何処へ消えたのか。
答えは『神聖帝国ガラリア』の隣国、『エルザンヌ共和国』にあった。
マルセルは姿を消した数年間、『エルザンヌ共和国』に滞在していたのだ。
隣国とはいえ『エルザンヌ共和国』と『神聖帝国ガラリア』との間には、正式な国交が無い。
故にマルセルの行方を追う事が困難となっていた。
国交の無い国への極秘入国など、本来叶わない。
しかしマルセルは、叶わぬ筈の入国と滞在を可能としていた。
父・ファブリスの人脈を利用したのだ。
ファブリスの死後、マルセルはファブリスが残した手記及び記録を徹底的に調べた。
そして記録に在った人物と連絡を取り合い、密入国の手配を依頼していた。
その相手は『エルザンヌ共和国』の有力な貴族――『シュネス伯』という人物だった。
シュネス伯は『エルザンヌ共和国』建国に貢献した大貴族であると同時に『グランマリー派』が広めた錬成科学とは別種の『クレオ派錬金術』を信奉していた。
『クレオ派錬金術』の復活を以て『エルザンヌ共和国』の隆盛を実現せしむる事――それがシュネス伯の悲願だった。
だが『クレオ派錬金術』は『グランマリー教団』の勃興に際して形骸化し、深く学ぶ事はおろか、知識の断片を窺い知る事すら難しい学術と化していた。
そんな失われた『クレオ派錬金術』の復活に、ファブリスは協力を申し出たのだ。
もちろん『錬成機関院』に対しての報告など、一切行わなかった。
極秘裏にシュネス伯の援助を受け『クレオ派錬金術』の研究を開始したのだ。
しかしその研究も、ファブリスの失脚を期に進まなくなる。
シュネス伯からの援助も打ち切られ、如何ともし難く潰えた。
マルセルは果たされなかったファブリスの契約を遂行すべく、改めてシュネス伯に『クレオ派錬金術』復活の協力を申し出た上で、援助を要請した。
その要請をシュネス伯が了承、マルセルの『エルザンヌ共和国』入りを手配する。
今より三〇年前、一八六〇年。
マルセルが二五歳の時だった。
・マルセル=達士、天才と呼ばれる錬成技師。レオンの実父。
・ベネックス所長=練成技師。レオンの姉でありマルセルに魅了されている。
・ファブリス=レオンの父親。天才鬼才と評されていたが死亡した。
・シュネス伯=ファブリスの『エリンディア遺跡』発掘に力を貸した貴族。




