第一八七話 来訪
・前回までのあらすじ
ラークン伯の譲歩案にカトリーヌとシャルルは同意する。一方、レオンとヨハンはエリーゼの治療を行う一方で、エリーゼに組み込まれた『エメロード・タブレット』が、或いは『タブラ・スマラグディナ』だった場合の対応について意見を交換する。そんな中でレオンの元に、カトリーヌからの連絡が届いた。
シャルルとカトリーヌ、そしてラークン伯を運ぶ車列が工房前に到着した。
到着時刻に併せて待機していたレオンとヨハンが出迎える。
蒸気を吐く駆動車のドアが開き、シャルルとカトリーヌが降りて来る。
後方より追随するスチームワゴンも、ゆっくりと停車する。
レオンの姿に気づいたカトリーヌは、すぐさま駈け寄ると謝意を伝えた。
「レオン先生、私の独断をお詫びします。そして無理を聞き入れて下さったこと、心より感謝します」
レオンを見上げる黒い瞳は、夜の海を想わせる深い光を湛えていた。
そんなカトリーヌの瞳を、レオンは静かな眼差しで見つめる。
自らの独断をカトリーヌは謝罪したが、責める事など出来ない。
大貴族と対峙し、限られた時間の中でギリギリの決断を迫られたのだ。
ラークン伯が有する『コッペリア・ナヴゥル』の施術を請け負うか否か。
損傷個所は『人工脳髄』である為、状況の先送りなど出来ない。
しかもこの施術を行うなら、一週間後に仕合を控えたエリーゼの治療は疎かになる。
これだけの懸念事項に対し、カトリーヌは一定の回答を導き出したのだ。
それがラークン伯との取り引きだった。
『コッペリア・ナヴゥル』の治療をレオンが引き受ける代わりに、ラークン伯の責任に於いて『ヤドリギ園』を存続させるという取り引きだ。
これによって『ヤドリギ園』は救われ、同時にエリーゼも仕合から解放される筈だ。
しかしこれは、全てが解決する回答では無い。
『ヤドリギ園』はともかく『歯車街』の住民達はどうすれば良いのか。
彼らを見捨てる事になるのでは無いか。
また、ラークン伯は本当に約束を守るのか。
子供達とシスター達の生活が懸かった事柄なのだ。
それを助祭という立場のカトリーヌが、独断で決定して本当に良かったのか。
そういった問題に対してカトリーヌは、ある種の覚悟を以て臨んだのだろう。
大切な物が失われる可能性を知りながら、大切な物を守る為に決断したのだろう。
レオンは言った。
「……僕は、シスター・カトリーヌを信頼している。君の判断を信じる」
その言葉にカトリーヌは、唇を震わせると眼を伏せる。
束の間の沈黙を経て、ありがとうございます――と、小さく答えた。
スチームワゴンの方から足音が聞こえ、レオンはそちらを見遣る。
太った身体を揺すりながら、ラークン伯が歩み寄って来る。
ラークン伯はレオンに右手を差し出しつつ口を開く。
「――マルブランシュ殿。この度は当家の施術依頼を受けて頂き感謝する。正式に礼を尽くすべきだが、如何せん時間が無い。済まないがこのまま、当家の工房まで御足労願えんか?」
「解りました、ラークン伯。すぐに参りましょう」
レオンは握手に応じ、即答する。
傍らに立つヨハンが施術用具の入ったケースを差し出す。
ケースを受け取りながら、レオンは口を開く。
「エリーゼを頼みます、ヨハンさん。シスター・カトリーヌ、あとは任せる」
「レオン君も気をつけて」
「はい、レオン先生」
ヨハンとカトリーヌが応じる。
「――無理はするなよ、レオン」
「ああ、シャルルもな」
シャルルの言葉に短く応じつつ、レオンはラークン伯と共に歩き始めた。
◆ ◇ ◆ ◇
黒塗りの蒸気駆動車に先導され、スチームワゴンは街路を走る。
車内はそれなりに広く、首都イーサを巡回する小型蒸気バスを髣髴とさせる。
しかし蒸気バスとは違い、客席の連なりは無く、代わりに寝台が設置されている。
寝台の上には、ベルトで固定された『コッペリア・ナヴゥル』が横たわる。
「――原因は槍状の棒による刺突、傷は右眼窩から頭部中枢まで達っしており『エメロード・タブレット』は辛うじて無事という状態です。ですが『人工脳髄』に著しい損壊、それに伴い『エメロード・タブレット』及び心臓、肺といった生命維持に関わる部位の制御が困難となった為、『小型差分解析機』にて外部から制御を行っています」
「ナヴゥルの『神経網』に関する記録は、我々が所有する『差分解析機』の『ギアボックス』に、数値化された状態で保存されています。しかし『神経網』に合致する『人工脳髄』の再生は、残念ながら我々の手に負えんのです……この『神経網』を開発したマルブランシュ殿でなければ」
寝台脇の簡易座席に座る二人の男は、沈痛な面持ちで口々にそう言った。
二人共に痩せており、白いシャツに丸眼鏡を掛けている。
年齢はヨハンと同じくらいか、ラークン伯お抱えの錬成技師達だった。
自分達では手の施しようが無い――この状況でそう告げる事が、錬成技師にとってどれほどの屈辱であるのか、同じ錬成技師であるレオンには理解出来る。それでも彼らは一縷の望みに賭けて、レオンに施術を依頼するよう、ラークン伯に進言したのだ。
それは己のプライドよりも、雇い主であるラークン伯の望みを優先したという事だ。
それだけの恩義を、ラークン伯に感じているという事か。
レオンは、寝台の上で肌を晒して目蓋を閉じているナヴゥルを見下ろす。
俯せの状態で横たわるナヴゥルの頸部からは、複数のケーブルが伸びており、それらは全て車内壁面に設けられた『差分解析機』と繋がっている。更に左右の腕には、リンゲル液と濃縮エーテルを輸液する為の、ゴムチューブが打ち込まれている。
目視する限り、ナヴゥルの身体に目立った外傷は無い。
ただ、包帯が巻かれ覆われた右顔面は、濃縮エーテルの紅色に滲んでいた。
「槍……による刺突ですか」
「はい、ですが鋭利な刃による切創ではありません、挫滅創に近い。木の棒を斜めに切り落とした様な武器で突き込まれたのです」
説明を聞いただけであるが、状態は芳しく無いと言わざるを得ない。
それでもこの施術は成功させねばならない。
シスター・カトリーヌがラークン伯と交わした約束を成立させる為だ。
『コッペリア・ナヴゥル』の施術を請け負うなら『ヤドリギ園』のシスター及び孤児達を、ラークン伯が所有する『ゲヌキス領』に移転させる……そういった約束だ。
その約束が果たされたなら、土地買収に関する問題は半ば解決したも同然だろう。
エリーゼも不安要素を抱えた状態で、仕合に参加せずとも良くなる。
しかしそれは、施術を成功させてこその約束である筈だ。
ラークン伯ほどの大貴族が、対立する者に頭を下げて施術を依頼したのだ。
『コッペリア・ナヴゥル』に対する伯爵の想いを窺い知る事が出来る。
施術の失敗が許されるなどと考えるべきでは無い。
舗装された街路を走り続けて二〇分ほど、スチームワゴンは速度を落した。
貴族の邸宅が建ち並ぶ『特別区画』にあって、その屋敷は一際巨大で堅牢だった。
敷地は高い塀に囲まれており、白い外壁に鋭角的な黒い屋根が特徴的だ。
城壁には鎧窓が連なり、閉じられた鎧戸もまた黒く、威圧的な気配を漂わせている。
そこはラークン伯のタウンハウスであり、錬成技師の工房も併設されていた。
巨大な鉄扉が左右に開くと、車列が内へと滑り込む。
駆動車は車回しを巡って正面玄関の前を通過し、そのまま錬成技師の工房へと向かう。
工房は敷地の最奥に設けられており、窓の無い半地下のコンクリート製建造物だった。
◆ ◇ ◆ ◇
強化ガラスの向こう側。
薄紅色に透き通る希釈エーテル製剤に沈んだまま、エリーゼは目蓋を閉じている。
傷ついた白い素肌を晒し、全く動こうとしない。
『差分解析機』を確認するまでも無く、睡眠状態である事は明白だった。
脱力したエリーゼを、ボトル状の『錬成用生成器』に移す工程は骨が折れた。
ヨハンとドロテア、カトリーヌとシャルルの四人掛かりで手分けしての作業だった。
エリーゼの口許は酸素吸入器で覆われ、身体には何本ものコネクタが接続されている。
緩く束ねた長い頭髪が、希釈エーテルの中で水草の様にゆらりと揺れている。
眠っているだけだと解かっていても、カトリーヌはその様子に不安を覚える。
生と死が混在する闘技場での戦闘、肌を刻まれ血に塗れたエリーゼの姿。
目を覚まさないのではないか――そんな不吉な想いが脳裏を過る。
しかし『差分解析機』から出力される数値が、そんな想いは杞憂であると示している。
最悪の状態は脱していると、手元の用紙にタイプアウトされている。
何より一週間後に仕合を行わないのであれば、後は時間が解決してくれる。
そう、レオン先生は必ず施術を成功させてくれる。
レオン先生が施術を成功させたなら、エリーゼと『ヤドリギ園』の子供達は救われる。
全てが解決するわけでは無いし、恨まれるかも知れない。
それでも私は、やるべき事をやらなきゃ駄目だと思う。
まずはこの状況を、確実に乗り切ろうと。
――その時。
工房入口に取り付けられた呼び鈴を鳴らす音が響いた。
カトリーヌは振り返えり、椅子に腰を下ろしていたシャルルが立ち上がる。
「……こんな時間に誰だ? ラークン伯の関係者か?」
「施術が終わる様な時間じゃないな……まだ開始すらしてない筈だ」
ヨハンも怪訝そうに呟く。
シャルルは戸口へ近づくと誰何する。
「どなたでしょう?」
「夜分遅くに失礼――『グランマリー教団』所属『マリー直轄部会』の者です」
意外な返答に、シャルルはドアスコープのカバーをスライドして覗き込む。
ドアの向こうには、黒い修道服を纏った長身痩躯にして鋭い眼差しの司祭と、年若いシスターが立っていた。
・ヨハン=シュミット商会の代表。マルセルの再来と呼ばれる程、腕が立つ。
・シャルル=貴族でありレオンの旧友。レオンより『アーデルツ』を預かっていた。
・カトリーヌ=グランマリー教のシスター。レオンのアシスタントを務める。
・エリーゼ=レオンが管理するオートマータ。高性能だが戦闘用の身体では無い。
・レオン=孤児院「ヤドリギ園」で働く練成技師。エリーゼの後見人。
・ラークン伯=ヤドリギ園一帯の土地買い上げを狙う実業家であり大貴族。
・ランベール司祭=『マリー直轄部会』所属の司祭。マグノリアと共に行動している。
・シスター・ジゼル=『マリー直轄部会』所属コッペリア。元グランギニョール序列三位。




