第一八五話 譲歩
・前回までのあらすじ
意識不明の重体に陥ったナヴゥルを救うべく、ラークン伯は自身の立場も顧みず、カトリーヌとシャルルに、ナヴゥルの助命を哀願する。それに対してカトリーヌは『ヤドリギ園』の子供達とエリーゼを守るべく、『ヤドリギ園』周辺の土地買収を見送るならという交換条件を提示する。
カトリーヌは思う。
いずれにしても遺恨は残ったのだと。
ナヴゥルを救うべく治療を行おうと。
その結果、エリーゼが仕合で敗北したならば。
或いはエリーゼの治療を優先すべく、治療を断ったとしても。
或いはエリーゼが仕合で勝利し、ラークン伯の土地購入を阻止したならば。
――いや『グランギニョール』への参加を決めた時点で。
どうあっても遺恨は残ったのだ。
それは覆らないのかも知れない。
カトリーヌはラークン伯の事を、無法で残酷な人物だと思い込んでいた。
子供達の居場所を強引に奪う、冷血で傲慢な貴族なのだと、勝手に想像していた。
なのでエリーゼが『ヤドリギ園』周辺の土地を買い取るべく、『グランギニョール』へ参加し、資金を獲得するという計画を聞いた時、エリーゼの身を案じこそすれど、その手法が危険だと不安こそ覚えど、それ自体が誤りであるなどとは、考えもしなかった。
強欲な貴族に奪われそうな『ヤドリギ園』の土地を、被害者である我々が決起し、戦って取り戻す――そんな筋書きを、安易に思い描いていたのかも知れない。
だけど全ては思い込みで、何もかも想像に過ぎなかった。
闘技場の地下で、無法な貴族達に襲われ掛けたところを、ラークン伯に救われた。
ラークン伯の言動は、エキセントリックではあったけれど不快では無かった。
ラークン伯に仕える男達も、エリーゼと仕合を行ったというナヴゥルも、礼節を弁えていた。
皆、カトリーヌに対して誠実な態度を示し、悪意など感じさせなかった。
それはラークン伯の人となりを示している気がした。
思い切ってカトリーヌは、『ヤドリギ園』の土地を巡る問題について質問した。
望む回答は得られなかったものの、ラークン伯は丁寧に答えてくれた。
紳士的な物腰を最後まで崩す事無く、自らの正当性を主張した。
そして今、自身が擁するナヴゥルの為、あろう事か跪礼の姿勢で哀願してみせた。
ラークン伯は貴族――それも伯爵位だ、跪礼など有り得ない。
それほどの地位と財力があれば、或いはもっと明確に圧力を掛ける事も出来た筈だ。
でも、そうはしなかった。
もし早い段階で、ラークン伯と知り合う機会が得られていたなら。
その人柄を知る事が出来ていたなら。
立場の違いから意見が対立したとしても、話し合う余地があったのでは無いか。
こんな『グランギニョール』に参加せずとも、他に解決策を見出せたのでは無いか。
刃を振るって血を流し、命を賭けて物事を決着する様な、血生臭い真似をせずとも。
しかし、今となってはどうする事も出来ない。
その道を辿る事が出来なかった。
ならば今、可能な限り最善の選択を行うべきだ。
カトリーヌは胸を張り、ラークン伯に交換条件を提示した。
重傷を負ったナヴゥルの治療を請け負う代わりに、『ヤドリギ園』周辺の土地の買収計画を白紙に戻して欲しいと、その様に告げたのだ。
それでも遺恨は残るのだろう。
土地の買収計画が立ち消えになれば、それだけの損失をラークン伯は被るのだろう。
だけど、ナヴゥルは救われる。
そしてエリーゼと子供達も救われるのだ。
何ものにも代え難い大切な存在が、双方に残る。
この考えを、恥知らずと罵られようが、恨まれようが構わない。
これ以上の妥協点があるのかどうか。
◆ ◇ ◆ ◇
カトリーヌは思い出していた。
炎と爆炎に包まれたマウラータの街を。
響き渡る銃撃の音を、人の焼ける死の臭いを。
飢えて乾き、死に掛けていた記憶を。
苦しく、恐ろしく、痛みに塗れた絶望の記憶。
だけど、そんな記憶の奥底に、黒い修道服を纏った長身のシスターが立つ。
シスター・マグノリアだ。
地獄と化したマウラータを、私はシスター・マグノリアに手を引かれて走った。
生き残る為に走り続けた。
両親も、友達も、知り合いも、住む家も、全てを失った。
何もかもが恐怖と絶望に塗り潰された。
それでも私は生き残った。
私は差し伸べられたシスターの手を握った。
私の手を引く、血に塗れた黒い後姿を私は忘れない。
その後姿が私を守り、その背中が私を導いた。
血に塗れた背中に、私は進むべき道を見出したのだ。
◆ ◇ ◆ ◇
だから私も、子供達の為に前を向こうと思う。
子供達を救うべく血を流したエリーゼの為に、前を向く。
「それでも私は、私の裡に在る尺度を信じ、胸を張って、この交換条件を提示します」
この言葉を聞いたラークン伯は、口を閉ざしたままカトリーヌを見つめていた。
跪いたまま背筋を伸ばし、動く事も無かった。
「――『ヤドリギ園』周辺の土地買収を取り止めて頂けるなら、ナヴゥルさんの治療を請け負うと」
周囲に居並ぶ男達も同様に、動こうとしない。
カトリーヌの背後に立つシャルルも、動かない。
そのまま幾許かの時が流れる。
――不意にラークン伯は、天を仰ぐと目蓋を閉じた。
ゆっくりと息を吐き、再び目蓋を開く。
改めてカトリーヌを見遣った。
「シスター……あなたは教皇マリー聖下と、直接の面識がおありかな?」
思いもよらぬ質問に、カトリーヌは僅かに戸惑う。
数ヶ月に一度、在俗会派の聖職者達には、在俗会本部で催される講和会にて、教皇マリーの講和を拝聴する機会が設けられている。
カトリーヌもその席で何度か、教皇マリーの講和を傾聴している。
教皇マリーは威厳と柔和を併せ持つ、凛とした佇まいの老シスターだった。
近寄り難い印象は無かったが、直接会話する機会など無く、面識があるとは言えない。
優しげであり穏やかであっても、天上人に等しい存在だ。
すぐに答えた。
「……いいえ、ありません。在俗謁見の場に参加させて頂いた事はありますが」
カトリーヌの言葉を聞いたラークン伯の眉が、微かに動く。
次いで視線を逸らすと、おもむろに口を開いた。
「――今より三五年ほど前、私はヴァリス四世皇帝陛下と、教皇マリー聖下立ち合いの下、ゲヌキス領の継承と叙爵を認められた。その際、教皇マリー聖下よりお言葉を賜った」
「……」
低く響く声で、ラークン伯はそう言った。
カトリーヌは口を噤んだまま、耳を傾ける。
「当時の教皇マリー聖下は、今のシスター・カトリーヌと、さして変わらぬ年齢だった。その教皇マリー聖下が私に――『己が裡に在る尺度に照らし、事に於いて胸を張れると、そう信じられる道を選択して下さい』……その様に仰ったのだ」
「……」
ラークン伯の言葉に、カトリーヌは密かに衝撃を受けた。
それはかつて、シスター・マグノリアより聞かされた言葉と同じだったからだ。
「私は些か当惑した。その言葉は、グランマリー教団の教えに沿った物では無かったからね。私は学業を修める中で、神学にも熱心に取り組んだ。ガラリア貴族として盤石の地位を築く為に、必須の教養だと考えた為だ」
「……」
「ともかく教皇マリー聖下の言葉には、その場に居合わせた帝国の高官達までもが、不思議そうな顔をしていた。教皇聖下が過去に、そういう発言を行った事が無かった為だろう。だからこそ私は、思わず質問してしまったよ。『英知と繁栄』『技術と戦略』では無いのですか? ……とね」
「……」
ラークン伯の疑問は、カトリーヌも同様だった。
事実、教皇マリーは過去に行われた講和会に於いて、その様な演説を行った事など、一度も無かった。天より賜りし大いなる英知を以て、遍く人々を正しく繁栄へと導きなさい――常々その様に、グランマリーの教義を説かれていた。
「教皇聖下は仰った――『領主権を有し、数多の民を導く立場に就かれた方は、私以上にグランマリーの教義を理解しておりましょう』……。そして微笑まれた――『今、お伝えした言葉は、私が先代の教皇マリー様より賜った言葉です』……私はその意味を、把握出来んかったが――」
「……」
「ただ――当時、私はゲヌキス氏族の頂点に立つべく、親族全てを破綻させた上、本来家督を継ぐ筈だったラークン家の長男を、謀殺したのではという噂が広まっていた。事実かどうかは皆の想像に任せたがね、その件を踏まえて、教皇聖下は私に戒めとして、グランマリーの教義には無い言葉を授けたのか……と、そう受け取らせて貰った」
「……」
微かに俯いたまま、ラークン伯は言う。
その表情は未だ険しいものだったが、しかし眼差しは何処か穏やかでもあった。
「私は年若く、浅はかだった……私よりも更に年若いであろう教皇聖下の言葉に、居心地の悪い物を感じ、不遜な話だが反発を覚えたりもした、小癪な事を……とね。しかし……」
「……」
「実際にゲヌキス領を統治運営するにあたって、極まった困難と直面した際、不思議と思い出されたのは、教皇マリー聖下のお言葉だった。そんなつもりは無くとも、我が領民に対し、恥じる事の無い選択を行えば、何故か物事が上手く回った……」
「……」
顔を上げたラークン伯は、改めてカトリーヌを見据える。
細い眼の奥で、青い瞳が力強い光を放っている。
ラークン伯は告げた。
「――確かにナヴゥルは私にとってかけがえの無い存在。しかし、シスターの提示した交換条件、そのまま受けては我がゲヌキス領の運営にも影響が及ぶ……そんな妥協は、きっとナヴゥルも、我が領民も受け入れまい。故に私の方から、譲歩の案を提示したい」
「譲歩、ですか……?」
思わずシャルルは尋ねる。
ラークン伯は頷く。
「その通り。まず最初に、シスターが最も懸念されているであろう事柄を、可能な限り払拭する案を提示しましょう。あなた方が運営する孤児院――『ヤドリギ園』を、我がゲヌキス領へ移転させるというのは如何か? 移転費用と移転先の確保は、我々が責任を持ちます」
「移転?」
「移転ですと?」
カトリーヌと同時にシャルルも声を上げた。
ラークン伯は続ける。
「左様。その上で我々は、当初の予定通り、あの貧民街を一大物流拠点として再生する。新たな雇用を創出し、停滞したガラリアの経済を活性化させる」
「ですが、それでは『歯車街』に暮らす人々は……」
シャルルは再び口を挟んだ。
『歯車街』には『ヤドリギ園』経由の援助を、頼みとしている人々がいる。
それを見捨てる事になるだろう……その様にシャルルは考えたのだ。
しかしラークン伯は、シャルルを見遣り首を振ると、はっきり断言した。
「あの貧民街に暮らす者達全てを救う事など、現時点でも出来てはおらぬ筈だ。鉄屑と煤煙に塗れて寝起きし、貴様ら『衆光会』からの配給食糧を頼みの綱にして働き口も無い、そんな生活の先に、どんな未来があるのだ? あの状態が救済なのか? 状態の先送りに過ぎん。『衆光会』のやっている事は馬鹿げた綺麗事であり自己満足だ、やがて全てが劣化する、待っているのは破綻という絶望の現実だけだ――」
「……」
シャルルは口を開き掛けたが、言葉が出て来ない。
ラークン伯の言葉は、正鵠を射ていた。
改めてラークン伯は、カトリーヌに向き合う。
「――孤児院の子供達にしても同じ事です。あの『ヤドリギ園』の建つ場所、どれほどに安住の地と言い張ろうが、あそこは工業地帯の隣りに広がる違法なゴミ捨て場だ、産業廃棄物が放置されている危険な場所だ。子供達が生活するのに相応しい場所であるのかどうか。更にはあの孤児院を巣立った子供達は、どこへ行けば良いのか。首都イーサは現状、仕事口を探す事も困難な、不景気な状態ではありませんか」
「……」
「少なくとも、私が領主を務めるゲヌキス領には仕事がある。複数の鉱石が産出されている、採掘の仕事も、運搬の仕事も、経理の仕事もある、物流を支えるサービス業も必要だ。確かに孤児院の子供達全員と、シスター達の受け入れには、大きな出費が伴うが……新たな物流拠点開設で得られるメリットの方が大きい。また、ゲヌキス領にも身寄りの無い子供がおるはず、メリットはあると言える。その上で……現在『ヤドリギ園』に集う子供達の未来にとって何が必要か、考えて頂きたい」
「……」
カトリーヌはラークン伯の顔を真っ直ぐに見つめている。
ラークン伯は眼を逸らす事無く、断言する。
「私も私の裡に在る尺度に照らし、胸を張って、この譲歩を提案しましょう」
・カトリーヌ=孤児院「ヤドリギ園」のシスター。レオンの助手を務める。
・シャルル=貴族でありレオンの旧友、オートマータ・エリーゼに甘い。
・ラークン伯=ヤドリギ園一帯の土地買い上げを狙う実業家であり大貴族。




