第一八四話 提示
・前回までのあらすじ
カトリーヌとシャルルの前に姿を現したラークン伯は、コッペリア・ナヴゥルに組み込まれた人工脳髄の治療をレオンに依頼すべく、その場で膝をついて哀願を繰り返した。シャルルがどの様に接して良いのか迷う中、カトリーヌが静かに声を掛けた。
円形闘技場地下の、仄暗く冷たい地下通路。
エーテル式水銀灯に照らされた『衆光会』の控え室前。
カトリーヌとラークン伯は膝をつき合わせる形で、床の上に跪いていた。
ラークン伯の身に纏うフロックコートの裾が、床に擦れて白く汚れている。
カトリーヌが身に着けた濃紺の修道服も、同じく白く汚れている。
しかしいずれも服の汚れなど、気に留める様子など無い。
ラークン伯につき従うスーツ姿の男達も同様に、その場へ膝をついたまま動かない。
害意が無い事と無防備を装う事で、誠意を強調しているのだろう。
ただ、その姿勢とは裏腹に、ラークン伯の哀願は脅迫の様でもあった。
カトリーヌの背後に立つシャルルは、どの様にこの状況を治めるべきか思い悩む。
ラークン伯といえば誰もが畏怖する絶対的な大貴族だ。
他人に頭を下げる事など、本来有り得ない。
対応を誤ったなら――想像を絶する厄災に見舞われる可能性もあるのだ。
そんなシャルルの想いを知ってか知らでか、カトリーヌはラークン伯と対峙している。
ラークン伯は、あたかも許しを請うが如き姿勢で両手を床についている。
そんなラークン伯をカトリーヌは、揺らぐ眼差しで見つめている。
やがて意を決した様に口を開く。
「ナヴゥルさんを……大切に想っておられるのですね……?」
「勿論です、シスター……」
カトリーヌの質問に、ラークン伯は顔を上げた。
真剣な眼差しでカトリーヌの瞳を見つめ返し、深く頷く。
「ナヴゥルさんの事を……何ものにも代え難い、そう想っておいでなのですね……?」
「勿論ですとも……」
再度の問いにも、ラークン伯は真摯な口調で応える。
事実そうなのだろうと、シャルルは思う。
でなければ、ラークン伯ほどの家格を有する貴族が跪く筈も無い。
カトリーヌも素直に頷き、改めて口を開いた。
「私も……エリーゼを大切に想っています。私の大事な友達なんです――」
「そうですか……」
ラークン伯が応じると、カトリーヌは続けた。
「――エリーゼも……ナヴゥルさんと同じく、仕合で深手を負いました。早急に適切な治療を受ける必要があります」
「……」
「ただ……エリーゼには意識があり、死に直結する負傷ではありませんでした。恐らく『錬成用生成器』を用いた再錬成処置を適切に施せば、一定の回復が見込める筈――」
「……」
ラークン伯は口を噤んだまま、カトリーヌの言葉に耳を傾けている。
シャルルは想定外の事態に発展せぬよう、成り行きを慎重に見守っている。
「――ですが、ナヴゥルさんの治療を引き受け、その治療にレオン先生が手を尽くし、エリーゼの治療に時間が取れなくなった場合……次の仕合までに完治が望めるのか。恐らくエリーゼは問題を抱えたまま、仕合に臨まざるを得なくなるでしょう……」
「……」
ラークン伯は微かに眉根を寄せる。
要望を断られる――その様に感じたのかも知れない。
カトリーヌは目を伏せると、更に言葉を紡いだ。
「――ただ、仮にエリーゼが、一週間後に再び仕合を行わなくて済むという事であれば。私はすぐにでも、ナヴゥルさんの危機を救って欲しいと、レオン先生に伝えます。仰る通り私は、ラークン伯にも、ナヴゥルさんにも、大変な恩があります。その恩をお返しすべく、迷わずそうします……」
「……」
澱み無く発言するカトリーヌの様子に、シャルルは若干の戸惑いを覚える。
つい先ほどまでカトリーヌは、心身共に消耗した様子でソファに項垂れていた。
この状況で無理をしているのでは無いか。
或いは……疲労困ぱい極まって、自身を見失ってはいまいか。
その様な事を考えてしまう。
シャルルの心配を他所にカトリーヌは顔を上げると、一つの案を提示した。
「ラークン伯……可能であるなら、エリーゼが一週間後の仕合に参加しなくて済む様に、取り計らっては頂けませんか……?」
「取り計らう……?」
「以前、私が伯爵さまにお願いした事を、覚えておられますか……?」
「……」
カトリーヌを見つめるラークン伯の眼が、すっと細められる。
剣呑に光る刃物を思わせる視線だ。
「……土地購入の件、ですな?」
「はい……土地購入の件が無くなれば、エリーゼは仕合をしなくて済みます……」
ラークン伯は座したまま丸々とした身体を起こすと、背筋を伸ばす。
そして、険しい表情で言った。
「その件については以前、お伝えした通りです、我々はあの土地を購入活用する事で、多くの雇用を創出し、ガラリアに貢献出来ると確信しております。つまりは社会正義に則った判断であると考えます。私はその事を恥じません。土地購入を見送れば、ナヴゥルの助命を行うと……この私に対してシスター・カトリーヌは、その様な交換条件を持ち出すわけですな?」
真っ直ぐにカトリーヌを見据える視線は、凍えそうなほど冷たく鋭い。
怖気づきそうなその視線を、カトリーヌは黒い瞳で受け止めている。
二人の様子を見守るシャルルは、この状況を危ぶんでいる。
ラークン伯は大貴族であり、その立場を誰もが認めている背景には『グランマリー教団』に対して、莫大な喜捨を行っているからという側面もある。
つまりラークン伯は教団に対しても、ある程度の発言力を有しているという事だ。
そんなラークン伯を怒らせたなら『在俗区会派閥』によって管理されているとはいえ『ヤドリギ園』の立場は今以上に悪化するのでは無いか。
その可能性を危惧したシャルルは、思わず口を開き掛ける。
しかしその前に、カトリーヌが言葉を発した。
「――私は、エリーゼに『ヤドリギ園』と子供達の命運を託し、私自身は無責任にも、苦難と悲運に嘆き、祈る事しかしませんでした」
「……」
ラークン伯は険しい表情を崩さない。
黙って話に耳を傾けている。
「せめて出来る事をすべきと、私は深く考えもせず闘技場へ赴き、レオン先生の助手を務めさせて頂いた……にも関わらず、目の前で繰り広げられる戦闘に怯え、満足に勤めを果たす事も出来ませんでした」
「……」
カトリーヌの瞳は憂いを帯びている。
ただ、表情に不安や迷いの色は無い。
訥々と、しかしはっきりとした口調で、言葉が続く。
「それでも……私は子供達に尽くしたい、友達であるエリーゼの為に出来る事をしたい。エリーゼは『ヤドリギ園』の為、子供達の為、痛みを抱えて血を流しました。ならば私も……その様に、その道を……」
「……」
「ラークン伯に、ここで、ご決断頂けない場合……ナヴゥルさんの治療を、お引き受けする事は出来ません。仕合に参加せねばならない、エリーゼの治療に全力を尽くす為です」
「……」
ラークン伯は黙したまま、カトリーヌの瞳を凝視している。
カトリーヌは視線を逸らさない。
シャルルは固唾を飲み、カトリーヌを見つめる。
「こと此処に至り、尚且つ土地の維持が困難となれば、エリーゼの治療に全力を尽くし……『ヤドリギ園』に暮らす子供達の生活を守るべく、子供達の為に戦うエリーゼの負担を軽減するしかない……」
「……」
「きっと私達は『グランギニョール』への参加を決めた時点で、避けようも無くラークン伯と対立してしまって……いいえ、関わる全ての人達と、どうあっても遺恨因縁が残る道へと踏み込んでしまったんです……。その事に気づきもせず、何の覚悟も無く私は、この場に至ってしまった、それは私の罪……」
「……」
「そうと弁えた上で『ヤドリギ園』の子供達を守る為、子供達の為に戦うエリーゼの為、私こそ……どれほどに浅ましいと思われようが構いません。いいえ――何度も選択を誤った上、受けた恩義に打算を以て応える大罪、その罰も、報いも、私が受けましょう」
「……」
ラークン伯の視線を、スーツを纏った男達の視線を、一身に浴びながら。
カトリーヌは通路の上に跪いたまま、背筋を伸ばすと告げた。
「私は私の裡に在る尺度を信じ、胸を張って、この交換条件を提示します――『ヤドリギ園』周辺の土地買収を取り止めて頂けるなら、ナヴゥルさんの治療を請け負うと」
・カトリーヌ=孤児院「ヤドリギ園」のシスター。レオンの助手を務める。
・シャルル=貴族でありレオンの旧友、オートマータ・エリーゼに甘い。
・ラークン伯=ヤドリギ園一帯の土地買い上げを狙う実業家であり大貴族。




