第一八三話 哀願
・前回までのあらすじ
エリーゼとマグノリアの仕合を目の当たりにしたカトリーヌは、過去のトラウマを思い出してしまい、エリーゼの応急処置を行うレオンを手伝う事も出来なくなるほど、精神的に追い込まれる。どうする事も出来ないまま、シャルルと共に帰宅の途につこうとしたところ、いきなり現れたラークン伯と再会する事になる。
シャルルは立ち尽くしたまま、ドアの向こうを凝視している。
驚きを隠せ無い。
まさか『衆光会』の控え室を、この男が訪ねて来ようなど思いもよらなかった。
エーテル式水銀灯の明かりが燈る、寒々とした地下通路。
黒いスーツ姿の男達が居並ぶ、その中央。
丸々と肥えた小さな身体を包むのは、はち切れそうなフロックコートだった。
頬肉と顎肉がダブダブと垂れ下がっていた。
薄い頭髪と口髭を油で撫でつけ、丁寧に整えてあった。
滑稽ともユーモラスとも思える、特徴的な風貌。
だが、社交界の貴族達は、決して彼を嗤ったりなどしない。
ジャン・ゲヌキス・ポンセ・ラークン伯爵。
広大なゲヌキス領を有する、絶対的な大貴族だ。
家格的にも、経済的にも、ガラリア屈指の名士であると言えた。
そんなラークン伯が『衆光会』の控え室を訪ね、こちらを見据えているのだ。
緊張しないわけが無い、何の用があるというのか。
先の仕合、ラークン伯の所有する『ナヴゥル』が『オランジュ』に敗北を喫していた。
或いはその事に何か関係があるのか。
「……ダミアン卿。こちらにマルブランシュ殿はおいでか?」
低く唸る様に、ラークン伯は尋ねる。
険しく張り詰めた表情には、同時に憔悴の色が浮かんでいる。
レオンに用があるという事は、やはりオートマータに関する事か。
シャルルは答えた。
「いいえ――『衆光会』の担当ピグマリオンであるレオンは、先の仕合に出場した『コッペリア・エリーゼ』のメンテナンスを行うべく、先に引き上げました。もし伝言などあれば、私が承りましょう」
その発言を受けてラークン伯は、苦り切った様子で唇を噛む。
よほど急ぎの用なのか。
しかし敗北した『コッペリア・ナヴゥル』に応急処置が必要だというのなら、自身が雇った錬成技師に任せれば良い。ラークン伯ほどの地位と財力と家格があるなら、超一流の錬成技師を雇い入れる事が可能だろう。応急処置であれ、再錬成であれ、対応可能である筈だ。
「事は急を要する、そしてマルブランシュ殿でなければ叶わぬ事なのだ。なんとか直接面会出来る様、計らって貰えぬか」
額に脂汗を滲ませながら、ラークン伯は言う。
間違いなく切迫した様子だ。
要件はやはり『コッペリア・ナヴゥル』の敗北に関する事柄か。
その様にシャルルが考えていると。
ラークン伯は細い眼を見開き、驚いた様に声を上げた。
「おおっ……あなたは、いつぞやの!」
「……?」
シャルルは、ラークン伯の視線が向かう先へ首を巡らせる。
自身の背後――そこには当惑した様に立ち尽くすカトリーヌがいた。
ラークン伯はカトリーヌの許へ一歩近づくと、口を開く。
「確か『衆光会』のシスター・カトリーヌ殿! 私めを覚えておいでか? ジャン・ゲヌキス・ポンセ・ラークンでございます――」
右手を胸元に添える姿は、グランマリー式の作法を踏まえたものだ。
シスターであるカトリーヌに、敬意を払っているのだろう。
しかし余裕を失っているのか、ラークン伯は矢継ぎ早に言葉を紡いだ。
「――多忙とは承知しておりますシスター。ですが、この老いぼれの願いを、どうか聞き届けては頂けまいか? 以前、シスターに無体を働こうとする不逞の輩を退けた、我が『コッペリア・ナヴゥル』の事でございます」
「あ、あの……」
頬と顎を震わせながらの大音声に、カトリーヌは戸惑う。
未だ状況を飲み込めていないのだ。
それでもラークン伯は、縋る様な眼差しでカトリーヌを見据え、続けた。
「たった今しがた行われた仕合にて、ナヴゥルは致命的な重傷を負いました……。当家の錬成技師では、残念ながら回復が覚束ぬ状況です。故に是非、マルブランシュ殿の力をお借りしたく、その旨どうか、シスター・カトリーヌよりお口添え願えたならと思い、お願い申し上げたる次第」
「……ラークン伯。お気持ちは解りますが、レオンは今、我々が擁するエリーゼの治療にあたっているのです。こちらとしても手一杯の状況で……」
執り成す様にシャルルが口を挟む。
仮にも『衆光会』の代表としてここにいるのだ。家格に差はあれど、レオンとエリーゼ、カトリーヌの立場を守らねばという想いがある。
それに対してラークン伯は、予想だにしない態度を示した。
「いやっ、解かっておるのです、ダミアン卿……! 私が無茶な要求をしている事など解かっておるのですっ! しかも私は以前、あなたに大変な無礼を働いたっ! 暴言を吐いたっ! にも関わらず、この様な無茶を要求しておるのですっ……! まさに傲慢、恥知らずな所業! それでも聞き届けて頂きたいのですっ……!」
叫ぶ様に言い放つとラークン伯は、通路の床に膝をついたのだ。
更に両手をも床につき、改めて声を発した。
「どうかダミアン卿にお頼み申したいっ……! シスター・カトリーヌ殿にもお頼み申したいっ……! どうかっ、どうかっ、我がナヴゥルを救ってやってはくれまいかっ!? ナヴゥルには時間的な猶予が残されていない、当家の錬成技師が、そう言うのです……! 頭部に深い損傷を負っている……『人工脳髄』にダメージがあるのですっ……!」
ガラリア有数の大貴族であるラークン伯が、あろう事か跪礼の姿勢で哀願している。
更には彼につき従うスーツ姿の男達までもが、膝と手を床につき顔を伏せる。
それは警護を放棄しているに等しい状況だ。
ラークン伯の地位と立場を考慮するなら、全く以て有り得ぬ光景だった。
「ナヴゥルの『エメロード・タブレット』と『人工脳髄』は、マルブランシュ殿のお父上である、天才と名高い『アデプト・マルセル』氏が手掛けました! その際、マルブランシュ殿が開発した特殊な『神経網』を『人工脳髄』に採用したのですっ……! そこに重篤なダメージを負ってしまった……。この損傷は『神経網』の特殊性ゆえ、当家の錬成技師を以てしても、手の施しようの無いのですっ……!」
「いや、しかし……」
なりふり構わず懇願を繰り返すラークン伯に、シャルルは苦い表情を浮かべる。
レオンの状況を考えれば、ラークン伯に助力を与えるほどの余裕があるとは思えない。
しかし、ここで冷淡に見捨ててしまう事も難しい。
仮に見捨てたなら、過去の言動から考えても、どれほどの恨みを買う事になるのか。
謝意を述べながら頭を下げる大貴族の姿は、強烈な圧力でもあった。
とはいえ眼前で跪くラークン伯は、今にも泣き出さんばかりだ。
どの様に対応すべきか――シャルルは思い悩む。
――と、その時。
おもむろにラークン伯は重い身体を揺すると、カトリーヌの方へ向き直った。
「シスター……どうか思い出して頂きたい、不逞の輩に絡まれるあなたを救ったナヴゥルの事を。そしてそのナヴゥルが今、死に掛けている事実を想って頂きたい。ナヴゥルはあなたを救ったのです……ならばシスターは、ナヴゥルに報恩すべきではありませんか?」
「待って頂きたいラークン伯、それは……」
唐突な提言に、シャルルは思わず口を挟んだ。
さすがにその物言いはおかしいと感じたのだ。
ラークン伯とシスター・カトリーヌが知り合った経緯は、レオンより聞かされている。
確かにシスター・カトリーヌが、ラークン伯に恩義を感じていても不思議では無い。
だが、それを理由に無理を通そうというのはどうか。
「――ダミアン卿! これは重要な話なのです、聞いて頂きたい!」
シャルルは諫めようとしたが、ラークン伯に遮られた。
更にラークン伯は、カトリーヌに向けて言った。
「シスター・カトリーヌッ……! 受けた恩を返す、恩には恩で報いる……これは、グランマリーの教えに在る『英知と繁栄』の根幹に該当すると、私は考えるのですっ……! シスターであるあなたに、教義の解釈に関する発言を行う無礼をお許し下さいっ……! しかしっ……それほどにナヴゥルの状況は切迫しているのです、どうか報恩をっ……! 報恩という慈悲を賜りたいっ……!」
そのまま足元の石床に、額を叩きつけんばかりに頭を下げる。
形振り構わぬという事なのだろう。
「与えた恩義に見返りを求めるなど、浅ましいと思われましょう……! ですが、他に手段が無いのです! 思い出して下さいっ、ナヴゥルはあなたを救った! 利害など念頭に無く救った! ならばナヴゥルは、あなたに救われても良いはずだっ……! グランマリーの教義に習うならっ……救われて然るべきっ、そう願う事は傲慢でしょうか!?」
「そんな無茶な……」
シャルルは呟く。呟きながら理解する。
やはりラークン伯は、頭を下げつつ圧力を掛けている。
大貴族がこれほどに頭を下げる、尋常な事では無い。
これは哀願であると同時に、脅迫でもあるのだ。
――ふと。
シャルルの傍らに佇んでいたカトリーヌが、ラークン伯の傍へ一歩近づいた。
おもむろに跪き身を屈めると、揺れる眼差しでラークン伯を見つめる。
束の間の沈黙を経て、カトリーヌは静かに尋ねた。
「ナヴゥルさんを……大切に想っておられるのですね……?」
ラークン伯は顔を上げる。
深く頷き、断言した。
「勿論です、シスター……」
・カトリーヌ=孤児院「ヤドリギ園」のシスター。レオンの助手を務める。
・シャルル=貴族でありレオンの旧友、オートマータ・エリーゼに甘い。
・ラークン伯=ヤドリギ園一帯の土地買い上げを狙う実業家であり大貴族。




