第一八二話 失意
・前回までのあらすじ
ナヴゥルvsオランジュの仕合、重傷を負ったナヴゥルだが、一瞬の隙をついて反撃しようとする。しかしそこでオランジュの『能力』が発動し、ナヴゥルは絶対的に手が届かない敗北を喫してしまうのだった。
シャンデリアを模したエーテル水銀式の照明が、瀟洒な室内を照らしている。
上質な壁紙、色鮮やかな風景画、革張りのソファとローテーブル。
そこは『円形闘技場』の地下に設けられた、関係者用の控え室だった。
シーリングファンが音も無く旋回する下で、カトリーヌはソファに座っている。
怯えるかの様に背中を丸め、俯いたまま動かない。
溌溂と明るい普段の様子からは想像もつかない姿だ。
体調を崩しているのか、顔色も良くない。
事実、体調は良く無かった。
カトリーヌは熱に浮かされ、悪夢を見ている様な心持ちでいた。
目蓋を閉じれば、全身を血に染めたエリーゼの姿が浮かび上がる。
刃を振るい、血飛沫を上げるシスター・マグノリアの姿が浮かび上がる。
シスター・カトリーヌッ……危険ですっ……! そう叫ぶエリーゼの声。
絶え間無く響き渡る金属音、飛び散る火花、濃厚な血の匂い。
廃墟と化した故郷の街・マウラータを思い出す。
額に汗が滲み、内蔵が軋み、心臓が早鐘の様に打つ。
微かに開いた口で、浅く呼吸を繰り返す。
「――大丈夫か? シスター・カトリーヌ」
声を掛けられる、穏やかな口調だ。
レオンだった。
エリーゼの応急処置が終わったのだろうか。
カトリーヌは顔を上げる。
レオンがこちらの様子を伺う様に、身を屈めている。
「エリーゼの応急処置を終えた――ただ状態は決して良くない。早急に僕の工房へ搬送して、本格的な施術に移行するつもりだ。君はどうする? 疲れている様なら無理は……」
「……」
カトリーヌはレオンの言葉に応じようと、口を開き掛けた。
でも、言葉が出て来ない。
細く息が漏れるだけで、声が出ない。
何か言わねば――そうは思えど焦るばかりで、言葉にならない。
不意に胸が苦しくなる。吐き気が込み上げて来る。
どうしようも無くカトリーヌは口許を抑え、俯いてしまう。
嘔気に苛まれ震える背中に、レオンの手が添えられる。
労わる様にさすられながら、レオンは謝意を聞いた。
「済まない、シスター・カトリーヌ。今日はシャルルの邸宅で、ゆっくり休んで欲しい」
カトリーヌは溢れ出す涙を抑えられぬまま、首肯して応じる。
しかし同時にカトリーヌは、こんな事では駄目だと思っている。
『ヤドリギ園』の為、子供達の為、エリーゼの為、頑張らなきゃ駄目だと思う。
――なのに、身体と心が動かない。
怖くて、恐ろしくて、身体の震えが止まらない。
今はただ、取り巻く全ての事柄から逃れたくて。
「僕はヨハンさんと一緒に、エリーゼを工房まで搬送する。スチームワゴンを使用するから、済まないがシスター・カトリーヌはシャルルと合流してから、あいつのカブリオレで邸宅へ向かって欲しい。それまで少しの間、この控え室でシャルルが戻るのを待ってやってくれないか? あいつには伝言しておくよ」
「――は、はい……」
カトリーヌは俯いたまま、絞り出すように答える。
それが精一杯だった。
程無くして『衆光会』の職員達が、ストレッチャーを押しながら入室する。
レオンとヨハンは手際良く、エリーゼの搬送準備を整える。
「シスター・カトリーヌ、しばらくは僕が代わりにレオン君をサポートしても良い。君は無理せず養生してくれたまえ」
俯いたままのカトリーヌに、ヨハンが声を掛けた。
カトリーヌは以前、ヨハンから覚悟は在るのかと問い質された事があった。
シスター・マグノリアとエリーゼとの仕合に、立ち会う覚悟はあるのかと。
大丈夫です、やります――カトリーヌはそう答えた。
でも、仕合を目の当たりにして、カトリーヌは凍りついた。
身体を震わせて、泣き叫んだ。
仕合を止めてと、何度も何度も絶叫した。
何も見たくないと、その場に蹲った。
ヨハンの懸念が的中してしまった。
そして今も、何も出来ぬままに身体を丸めている。
胸中に湧き上がる恐怖を抑え込むだけで、精一杯で。
それでもヨハンは、そんなカトリーヌを責めたりはしない。
紳士的な態度で、代わりを申し出てくれる。
その気遣いに、しかしカトリーヌは応えられない。
震える声で、はい……と、答える事しか出来ない。
レオンとヨハンはエリーゼを乗せたストレッチャーと共に、戸口の方へと歩き始める。
ストレッチャーを押すのは『衆光会』の職員だ。
退室する際にレオンは、ストレッチャー上のエリーゼに何事かを話し掛けた。
それに対してエリーゼが、短く返答する。
なんと言っているのか、カトリーヌには聞こえない。
だけど、耳をそばだてる気にならない。
「……シスター・カトリーヌ、僕達は先に工房へ向かう。もし何かあった場合、シャルルの邸宅には僕の工房と繋がる直通の電話回線がある。それを使って連絡をくれたら良い」
レオンに、そう声を掛けられた。
カトリーヌは機械的に、はい……と、答えるばかりだ。
見送る事すら出来ない。
やがてレオンとヨハンはエリーゼを伴い、控え室を後にした。
室内にはカトリーヌがひとり、残された。
『衆光会』の職員とシャルルの運転手は、隣りの小部屋にいるのだろう。
酷く静かだ。
天井で旋回するシーリングファンの音だけが、微かに聞こえる。
カトリーヌは、弱々しく息を吐く。
そして、自身の不甲斐無さを恥じた。
私は、もっと強いと思っていた。
何があっても耐えられると思っていた。
なのに、何も出来なかった。
レオンの助手を務める事も出来なかった。
エリーゼを労う事も出来なかった。
居た堪れなかった。
脳裏に浮かぶのは、真っ赤に燃え盛るマウラータの街並みだ。
近所のおばさん達が、一緒に遊んでいた友達が、路上で真っ赤に染まっていた。
恐怖に逃げ惑い、振り返れば、お父さんとお母さんも、真っ赤に染まっていた。
耳を劈く爆撃音。金属音。火薬の匂い。血の匂い。
耐え難くて、堪え難くて。
同時に、シスター・マグノリアの事を思い出す。
全てを失った私に第二の人生を与えてくれた、シスター・マグノリアの事を思う。
血に塗れながら私の手を引き、燃え盛るマウラータの街から私を救い出してくれた。
あらゆる困難を排して道を切り開き、私の為に少ない食料と水を分けてくれた。
血に塗れても揺るがない、あの黒い修道服を覚えている。
シスター・マグノリアの事を尊敬している。
今だって尊敬している。この気持ちに嘘偽りは無い。
この私を救ってくれたのだ。
でも――シスター・マグノリアは、エリーゼを殺そうとしていた。
エリーゼを損壊すべく、私の目の前でその力を行使していた。
エリーゼは子供達の居場所である『ヤドリギ園』を守る為に戦っていた。
そんなエリーゼに対して、シスター・マグノリアは力を振るったのだ。
何か大きな、錬成科学的な問題や秘密が絡んでいるのだろう、そう感じる。
それほどにエリーゼは特殊な存在なのだろう、そう思う。
また、レオンとヨハンが過去に何度か、不穏な会話を行っていた事も知っている。
エリーゼの秘された部分が、ガラリアの法に則っていない、そういう事なのかも知れない。だからシスター・マグノリアが何らかの要請を受け、エリーゼと対峙する事になったのだろう。
それが事実だったとしても、どうであっても。
とても納得出来るものでは無い。
何故ならエリーゼは、私の友達だからだ。
エリーゼは私の大切な友達だ。
何時だって私を励ましてくれた。
私に色々な事を教えてくれた。
些細な事でもエリーゼに認められると、なんだか嬉しかった。
私もエリーゼに、色々な事を教えてあげた。
エリーゼと共に過ごす時間は、楽しかった。
私が困った時、何を差し置いても力になってくれた。
『ヤドリギ園』の為に、子供達の為に、力を尽くしてくれて。
心からの感謝と敬意に値する、エリーゼは本当に大切な友達だ。
そんなエリーゼに、どんな秘密が隠されていたのだとしても。
いきなり命を奪われる様な、そんな理屈が罷り通って良い筈が無い。
だけど、でも、シスター・マグノリアは、私の命の恩人だ。
シスター・マグノリアに救われなければ、私は死んでいた。
私を救い出してくれた、私を導いてくれた、私が目指すべき理想のシスターだ。
エリーゼは私の友達で。
大切な女の子だ。
シスター・マグノリアは私の恩人で。
目指すべき理想だ。
どうすれば良いのか、これからどうすべきなのか。
エリーゼの裡に、法的な問題が有るのだとすれば。
シスター・マグノリアは、再びエリーゼに襲い掛かるのでは無いか。
そんな最悪の事態も十分に考えられる。
どうすればそれを止められるのか。
何をどうすれば良いのか。
そんな事が、そんな事ばかりが、頭の中を巡り続ける。
答えが出ない事を考え続けてしまう。
どうしようも無い無力感。
この無力感と、眼前で繰り広げられた血塗れの闘争が入り混じって。
血塗られて燃え盛る、瓦解したマウラータの街並みを思い出してしまう。
絶望の故郷で蹲ったまま動けない、無力だった自分を思い出してしまう。
何も出来ない、何も救えない、そんな自分を思い出して。
エリーゼは自身の肩を抱きしめながら、震えるばかりだった。
◆ ◇ ◆ ◇
一五分か、二〇分ほど過ぎた頃。
控え室のドアがノックされ、シャルルだ――そう告げる声が聞こえた。
入室したシャルルは室内を見渡し、ソファに座り俯いているカトリーヌに気づく。
カトリーヌがどんな状態であるのか、既にレオンから言づけられているのだろう、シャルルはソファの傍に歩み寄ると、カトリーヌに声を掛けた。
「――シスター・カトリーヌ、待たせてしまって申し訳ない。雑事に時間を取られた」
「……ダミアン卿」
顔を上げたカトリーヌは、掠れた声で応じる。
シャルルは穏やかな表情で、床の上に片膝をつき頷く。
「疲れたろう、今夜は私の屋敷で休むと良い。明日以降の事は、明日考えよう」
優しい言葉だった。それだけに心苦しい。
自分は周囲に甘えているだけなのでは無いかと思う。
でも、身体の芯まで凍える様な悪寒は事実で、拭い難い。
「それじゃあ行こうか。忘れ物は無いかな」
「はい……」
カトリーヌはソファから立ち上がる。
シャルルに促され、部屋の戸口へ向かって歩く。
その時、向かう先のドアがノックされた。
「恐れ入ります、旦那様」
閉ざされたドアの向こうから声を掛けたのは、シャルルのお抱え運転手だった。
落ち着いた声音で言葉が続く。
「ラークン伯爵が、面会を求めておいでです――」
「ラークン伯が?」
驚きの声を上げるシャルル。
ドアを開けた初老の運転手は、シャルルに一礼を捧げる。
頭を下げる運転手の向こう――仄暗い地下通路に、スーツ姿の男達が並んでいた。
男達の中央に立つのは、丸々と太った身体をフロックコートで包み込んだ男だ。
背が低く、頭髪は薄く、頬と顎の肉がだらしなく垂れ下がっている。
しかし、こちらを見据える眼差しは、切迫感に満ちた真剣なものだった。
ガラリア・イーサ屈指の大貴族、ラークン伯。
なぜ彼が、このタイミングで『衆光会』の控え室を尋ねたのか。
シャルルには見当もつかなかった。
・レオン=孤児院「ヤドリギ園」で働く練成技師。エリーゼの後見人。
・ヨハン=シュミット商会の代表。マルセルの再来と呼ばれる程、腕が立つ。
・エリーゼ=レオンが管理するオートマータ。高性能だが戦闘用の身体では無い。
・カトリーヌ=グランマリー教のシスター。レオンのアシスタントを務める。




