第一八一話 漆黒
・前回までのあらすじ
オランジュvsナヴゥル、ナヴゥルはオランジュの攻撃に併せて完璧なカウンターを放つ。にも拘わらずナヴゥルの攻撃は回避され、オランジュの攻撃によって痛打を浴びる。ナヴゥルは交錯の刹那、自身が勝利する瞬間を何度も体感した上で、敗北を喫していた。
貴族達の大歓声が、円蓋天井を突き破らんほどに轟いた。
観覧席にて声を張り上げ、拳を突き上げ、乱痴気に狂喜している。
眼下で繰り広げられる仕合の行方に、その凄絶さに、興奮し切っているのだ。
やはり『レジィナ』か。
一〇年無敗の絶対神話は、巌の如くに揺るがぬか。
不動の強さに、極まった優雅さに、ガラリア・イーサの貴族達は皆、魅せられていた。
◆ ◇ ◆ ◇
闘技場・東側入場門脇に設けられた『待機スペース』内は、とても静かだった。
仕合の行方に声が上がる事も無く、興奮に熱を帯びる事も無い。
観覧席での狂乱とは対照的な、仄暗く冷えた空間だった。
そんな暗がりに立つのは二名の男女だ。
一人は天才錬成技師との呼び声も高い、マルセル・ランゲ・マルブランシュ。
もう一人は『準騎士』の肩書きを持つ、ベネックス創薬研究所々長・ベネックス所長。
いずれも『コッペリア・オランジュ』の介添え人として立ち会っていた。
黒いタキシードスーツ姿のマルセルは、口許に余裕の笑みを浮かべている。
傍らのベネックス所長は、銀縁眼鏡越しに遠い眼差しで、仕合を眺めている。
が、おもむろに長い髪をかき上げると、息を吐きながら呟いた。
「――どれほどに実力があっても、僅かな傷ひとつから染み出す『血の一滴』で、あっさりと敗北が確定する。これは理不尽としか言いようが無いな」
諦念めいた響きを帯びる言葉に、マルセルが笑顔で応じた。
「そもそもオートマータという存在は、人々の願望、希望、欲望を集めた『妖魔精霊』の概念を、錬成科学で顕在化した物だ。そして人の本質は強欲の一語に尽きる。勿論その強欲は、顕在化した『妖魔精霊』にも反映されている――」
「……」
「――キミが錬成した『ベルベット』も、ガラリア帝国民の欺瞞に満ちた想いを『ゴブリンズ・バタリオン』という形で、見事に再現していたじゃないか。『妖魔精霊』に託された、人々の願望、希望、欲望、それらの想いが明確であればあるほど、顕現したオートマータは、強く激しい存在となる、オートマータの基礎だね」
満足げな様子のマルセルを見上げながら、ベネックス所長は言う。
「とはいえマルセル君の『オランジュ』は殊更に特殊だ。あらゆるオートマータに、全く以て再現不能な『能力』を有している」
その目つきは何処か非難めいていたが、刺々しいものでは無い。
マルセルはベネックス所長を見下ろすと、眼を細めつつ口を開いた。
「確かに『オランジュ』には『タブラ・スマラグディナ』が使用されている。その点は特殊だと言えるがね。しかし今の攻防に視た『可能性の隙間』は『タブラ・スマラグディナ』に付随する能力じゃあ無い。キミが錬成した『ベルベット』と同じく『エーテル』の特性を利用した能力さ、つまり――」
「――つまり『クレオ派』の『錬金術』を応用している、と言いたいんだろう?」
愉しそうに言葉を紡ぐマルセルを、ベネックス所長が遮り続けた。
マルセルは気にした風も無く、相好を崩して頷く。
「その通りだよイザベラ。『クレオ派』の錬金術師達が解明した『エーテル』の特性――『可能性』と『時』に対する干渉だ。そしてそれこそが『オランジュ』固有の『妖魔精霊』としての特性だ。『エーテル』の特性と、オランジュの特性が、完全に合致したからこそ発現した『能力』だ……」
ベネックス所長は闘技場に視線を戻しつつ、マルセルの発言を引き継いだ。
「……『己に降り掛かる可能性を把握し、発生し得る結果から任意のひとつを選択出来る能力』か」
マルセルは鷹揚に頷き、黄金の義手で自身の顎を撫でる。
「更にもうひとつ。今、ナヴゥルを仕留めた能力――『他者の体内エーテルを取り込む事で、その可能性を把握し、発生し得る結果から任意のひとつを選択出来る能力』さ。言い換えるなら、『他者の可能性を操作出来る能力』とでも言うべきかな?」
再び闘技場へ視線を戻すと、事も無げに続けた。
「仕合や闘争、そんな単純な事柄に限定するなら『オランジュ』を凌駕する個体なんて、もはやこの世には存在しないだろう。そう言い切っても過言じゃ無い。とはいえ、最強だの、闘争だの、仕合だの、そういった事柄は、既にどうだって良い。重要な事は『可能性』に干渉する術が、ここに在るという事実だ」
「……君は『可能性』に干渉する術を以て、この世界をひっくり返したいんだろう?」
揶揄する様にベネックス所長が口を挟む。
僅かに首を振ると、マルセルは応じた。
「そうじゃないよ。『可能性』に干渉する術を解明獲得すべく、世界をひっくり返すのさ。歴史を振り返っても解かる通り、世界がひっくり返れば、進化は加速するんだ」
「どのみち同じ事さ。ま、私はそれで構わない」
ベネックス所長は闘技場を見つめたまま答える。
次いで微かに片眉を吊り上げ、呟いた。
「おや……『コッペリア・ナヴゥル』が、まだ立ち上がろうとしている。勝負はもう着いただろうに、己を見失っているのかな」
「いいや――『コッペリア・ナヴゥル』も、ボクが企画して『エメロード・タブレット』を組み上げたオートマータだ。現行タブレットを使用したオートマータとしては最高水準だよ。だからこそ立ち上がろうとする、己が主の為にね。主従関係の理想形こそが『グランギニョール』の舞台では最高スペックを叩き出す……そんな風に想定したのさ」
ベネックス所長の呟きにマルセルは微笑む。
「彼女も『エーテル』の謎解きに貢献してくれたんだよ。だからボクは、彼女にも敬意を表したい。こうやって最後の晴れ舞台を、しっかりと見守るつもりなんだ」
◆ ◇ ◆ ◇
石床の上に膝を着いたナヴゥルは、左眼のみで膝下に広がる血溜まりを見ていた。
ボタボタと滴り落ちる紅色が、止め処も無く広がってゆく。
穿たれた自身の右眼から、濃縮エーテルが溢れ出しているのだ。
「馬鹿な……」
胸中に渦巻く驚愕が、言葉となって口から漏れる。
己が能力――『海』を介して感じ取った、幾つもの『決着』はなんだったのか。
いや、あの光景は体感を超えて、映像として感じ取れるほどだった。
確実な勝利を、決着の瞬間を、何度も、何度も、感じ取っていた。
確実な勝ち筋を掴んでいた筈だ、オランジュの行動を完璧に読み切ったと。
肉を切らせて骨を断つ、そんなギリギリの展開すら許容してカウンターを取った筈だ。
回避と共に、カウンターを成立させていた筈だ。
そう――何度も、何度も、カウンターを成立させていた。
何故、何度も、何度も、勝利の瞬間を感じ取ったのか。
何故、私は膝を屈しているのか。
何故、攻撃を受けたのか。
「おのれ……」
それでもナヴゥルは立ち上がろうとする。
しかし膝はガクガクと震え、両脚に力が入らない。
脚が、身体が、鉛の如くに重く感じられる。
右眼から吹き出す濃縮エーテルの紅色で、右半身が赤く染まっているのが見える。
顔面右側から後頭部に掛けて、強烈な激痛に苛まれている。
頭蓋の奥を大蛇に貪られているかの様な、そんな激痛だ。
その時、ようやく気づいた。
オランジュの得物である木の棒――その折れてささくれた部分が、己が右眼に突き刺さったままであると。
「ぬうぅ……」
痙攣する両手で、右眼に突き立つ木の棒を握り締める。
煮え滾る苦痛を噛み殺しながら、一気に引き抜く。
途端にビチャビチャと濃縮エーテルが迸る。
ナヴゥルは手にした血塗れの木片を投げ捨てると、顔を上げた。
左眼ひとつでオランジュを睨む。
見上げた先ではオランジュが、口許に淡い微笑みを湛えたまま佇んでいる。
その身に纏う白いシュミーズ・ドレスには、紅い飛沫がぽつぽつと飛び散っている。
自身が負った傷からでは無い、返り血だ。
オランジュは事も無げに言った。
「――勝負有り、ってところかしら?」
「まだ……だ……」
紅い瞳を燃やしながら、ナヴゥルは呻く様に答える。
その返答に、鋭い金属音が重なる。
ナヴゥルが装備している左右前腕部の『強化外殻』より、再び鋼の爪が伸びていた。
――が、オランジュは気に留める様子も無い。
ナヴゥルを見下ろし、静かに告げた。
「いいえ……もう終わっているわ」
「黙れ……」
短く吐き捨てたナヴゥルは、血みどろの身体を起こし、強引に立ち上がる。
ふらつきながらも低い姿勢で構えを取り、前方に両腕の爪を翳す。
オランジュを見据える左の眼は赤光を放ち、未だ戦意に燃えている。
だが、真っ赤に染まった顔面の左半分は、青白く血の気を失っている。
負傷による激痛と、失血による衰弱で、身体が限界を迎えつつあるのだ。
その時、円形闘技場を取り囲む観覧席から、一斉にどよめきの声が上がる。
居並ぶ貴族達の視線が、西側入場門脇の『待機スペース』へと注がれている。
丸々と肥え太ったフロックコート姿の男が、闘技場内へ立ち入ろうとしていた。
ラークン伯だった。
顔色を失い、汗塗れのラークン伯が『待機スペース』から飛び出したのだ。
それがどういう事であるのか、観覧する全ての貴族達が察していた。
それは闘技場に立ち、勝利を確信しているオランジュも同じだった。
オランジュの視線は、ナヴゥルの遥か後方で喘いでいるラークン伯に向けられていた。
その隙を、ナヴゥルは見逃さなかった。
何が起こっているのか、ナヴゥルも半ば理解していた。
しかし、未だ『敗北宣言』は成されていないのだ。
オランジュまでの距離は一メートルに満たない。
これほどの近距離であるのに、オランジュは今、集中力を欠いている。
得物すら手にしていないのだ。
絶対的な逆転のチャンスだった。
この瞬間に全てを賭け、ナヴゥルは殺意と共に脚を――
◆ ◇ ◆ ◇
――オランジュは。
よろめきながらも踏み込んだナヴゥルの側面へ、あっさりと回り込んでいた。
目視よりも速く、移動の気配に反応しての行動だった。
当然、踏み込みと共に放たれた鋼鉄の爪は掠りもしない。
どころかその手首を容易く掴まれ、捻られ、曲げられる。
流れるような動作の中で、ナヴゥルの腕は折られ、勢い良く爪を喉元へ宛がわれる。
そのまま一気に何の躊躇も無く、喉を掻き切られた。
◆ ◇ ◆ ◇
――オランジュは。
よろめきながらも踏み込んだナヴゥルの懐へ、あっさりと飛び込んでいた。
目視してからの反応では無い、移動の気配を感じ取るや否やという反応だ。
当然、踏み込みと共に放たれた鋼鉄の爪は掠りもしない。
衝撃が顎を突き上げ、視界が揺れて乱れ、円蓋天井を見上げた。
流れるような動作の中で、ナヴゥルは脚を掛けられ、勢い良く背面へ引き倒される。
そのまま一気に何の躊躇も無く、ナヴゥルは石床の上で頭を叩き割られた。
◆ ◇ ◆ ◇
――オランジュは。
よろめきながらも踏み込んだナヴゥルの足元へ、軽々と滑り込んだ。
目視するまでも無い、移動の気配を感じ取ると同時に反応していた。
当然、踏み込みと共に放たれた鋼鉄の爪は掠りもしない。
更に踏み込んだ足は床を捉えるよりも先に、オランジュの身体とぶつかって躓く。
ナヴゥルはつんのめって姿勢を崩し、ギリギリのところで床に手を着き身体を支える。
が、四つん這いの状態となったナヴゥルの首筋に、オランジュの足が乗せられる。
そのまま一気に何の躊躇も無く、ナヴゥルは首の骨を踏み折られた。
◆ ◇ ◆ ◇
「……ね? もう終わっていたでしょう?」
歌うかの如きオランジュの囁きが、左眼を見開き硬直するナヴゥルの耳朶を打った。
何時の間に動いたのか、オランジュはナヴゥルの真横に立っていた。
ナヴゥルは一歩も動いていない。
見開いた左眼で正面を見つめたまま、身動きひとつ出来ない。
全身から汗が吹き出し、穿たれた右眼から更に激しく濃縮エーテルが溢れ出す。
頭痛が酷い、灼熱の激痛が頭の中で渦巻いている。
にも拘らず身体は骨まで冷え切っており、手足がブルブルと震える。
何だ……何だ今のは。
敗北の瞬間を、何度も、何度も、何度も、体感した。
幻を見るかの様な、それ以上に決定的な、何かを感じ取っていた。
その瞬間に起こり得た、幾つもの敗北の瞬間を認識したのか。
勝利の欠片も無かった、全ての行動が敗北に繋がっていた。
吐き気が込み上げて来る。
ナヴゥルは耐え切れず、膝から頽れる。
黒々とした恐怖が、胸の奥に湧き上がる。
呼吸が苦しい、喉が干乾びている。
その時、背後から悲痛な叫び声が聞こえた。
「我々はっ……! ゲヌキス領守護兵団はっ……! 敗北を認めるっ……! 我々はっ……! 敗北を認めるっ……!」
ラークン伯が観覧席に向け、敗北の宣言を繰り返しながら駆け寄って来る。
傍らに立つオランジュが、妖艶な流し目と共に微笑んだ。
「……良かったわね? ご主人様がお迎えに来てくれたみたいよ?」
「……」
「あなた、強かったわ? それなりに愉しめたし、手心を加えてあげたの……ご褒美よ」
「……」
肩越しに見下ろし告げると、オランジュは優雅な足取りで歩き始める。
シュミーズ・ドレスの裾を靡かせながら、振り返る事無く歩き続ける。
ナヴゥルは床の上に両手を着いて俯き、濃縮エーテルを滴らせる。
もう、立ち上がる気力も無い。
どんな力も湧いて来ない。
拭い難い恐怖と絶望が、胸中を漆黒に塗り潰す。
「……」
背後よりラークン伯の足音が聞こえる。
その音に反応する事も出来ない。
ナヴゥルは冷たい床石の上に、ゆっくりと額を押し当てる。
闘技場に突っ伏した姿勢で声も無く、震えながらに血の涙を流した。
・ナヴゥル=ラークン伯所有の非常に強力な戦闘用オートマータ。
・オランジュ=マルセルが錬成した最強のコッペリア。『レジィナ』の称号を持つ。
・マルセル=達士アデプト、天才と呼ばれる錬成技師。レオンの実父。
・ベネックス所長=レオンの古い知人で実の姉。有能な練成技師。
・ラークン伯=ヤドリギ園一帯の土地買い上げを狙う実業家であり大貴族。




