第一八〇話 幻視
・前回までのあらすじ
オランジュとナヴゥルはギリギリの攻防を続ける中で、双方共に浅い傷を負う。そしてオランジュは、己の頬を傷つけたナヴゥルに対し、賞賛の言葉を贈った。
貴族達の絶叫にも似た大歓声は、円形闘技場内で反響しては円蓋天井を震わせる。
オーケストラ・ピットに居並ぶ管弦楽団も、渾身の演奏にて熱気を煽り立てる。
好奇と興奮に血走る無数の眼差しが向けられる先では、二人の戦乙女が対峙している。
逞しい長身に黒いレザースーツを纏い、鋼鉄の戦斧を構えるのはナヴゥルだ。
汗の滲む頬に走るのは、一筋の紅い傷。
先の交錯でオランジュの指先――整えられた爪がつけた傷だ。
ナヴゥルは傷ついた頬を気にした様子も無く、オランジュを凝視している。
優美な肢体を白いシュミーズドレスで包み、木の棒を携えているのはオランジュだ。
白い頬に走るのは、やはり一筋の紅い傷。
先の交錯でナヴゥルの『強化外殻』に仕込まれた、鋼鉄の隠し爪がつけた傷だ。
オランジュは自身の指先に絡むナヴゥルの血を、舌先でチロリと舐めては微笑んだ。
「凄いわ、あなた……」
その短い呟きは、偽り無く感嘆の響きを帯びていた。
ブロンドのロングヘアを揺らしながら、エメラルドグリーンの瞳を潤ませる。
「過去一〇年、私の肌に傷をつけたのはあなただけよ……?」
「――特に苦も無い、次に与えたるは致命傷よ」
六メートル先に佇むオランジュを睨めつけながら、ナヴゥルは嗤った。
唇の端がめくれ、鋭い犬歯が覗く。
そう、ナヴゥルは確信していた。
今の攻防にてオランジュの『神経伝達』――その『波動』を掴んだと確信した。
それは酷く微弱であり、しかも恐ろしく速い。
過去に仕合を行ったどのコッペリアとも比較にならない。
挙動を意識した瞬間にはもう動き始めている、極まった速さだ。
更には己が行うべき挙動を意識しているのかどうか、それすら危うい微弱さだ。
つまりオランジュの強さ――『能力』とは。
己が『意』を極限まで抑制し、『無我』の境地にて、刃を振るえるというものだ。
全ての挙動が無意識に近く、あらゆる感情から解放されている。
究極まで洗練された『武』そのものであり『武』の極地だ。
凡そ感情を有する者ならば、決して至れぬ境地だ。
しかしオランジュは常に、その地点に在る。
信じ難い事だ、それを可能たらしめる――それがオランジュの『能力』だ。
だが――それでも捉える事が出来る。
既に、己が周囲には『エーテル粒子』による半径数メートルの『海』が広がっている。
しかも高濃度の『海』だ。
加えて『痛覚抑制』を解いた事で、極限まで知覚が鋭敏になっている。
いかな『レジィナ』オランジュとて、もはや射程の範囲内だ。
オランジュの『能力』――その限界値は把握した。
ならば最悪、こちらが手傷を負う事になろうと、討ち果たせる筈だ。
相討ちでは無い。
肉を斬らせたなら、骨を断つ事が可能だと、そう考えている。
その様にナヴゥルは思考する。
「いいえ、それは無理ね」
しかし、その思惑にオランジュは異を唱えた。
蕩けるような眼差しでナヴゥルを見つめる。
「全ての可能性は私のもの……だからあなたとのゲームはここまで」
「……益体も無い事を言う」
ナヴゥルはオランジュを見つめ、戦斧を構えたまま吐き捨てる。
オランジュは右手に携えた木の棒を垂らしたまま、またゆっくりと歩き始めた。
「確かにあなたは凄かった。先の攻防……互いに傷を負う可能性の中にしか勝機を見出せなかった」
花も月光も恥じ入るほどに端麗な微笑みを口許に湛えたまま、オランジュは言う。
近づいて来るその歩みは止まらない。
「あらゆる瞬間に存在する無数の可能性……それら全てにあなたは対応していた」
「……」
言葉を紡ぎながら歩を進めるオランジュに、ナヴゥルは構えを崩さず応じない。
一切の隙を見逃す事無く、オランジュの動きを知覚している。
その眼で、耳で、鼻で、肌で、オランジュの全てを知覚している。
『エーテル粒子』の『波動』から『神経伝達』の微細な変化すらも把握する。
死角は無い。
「――でも今の交錯で、あなたの可能性は確定したのよ」
「……」
ナヴゥルの見つめる先で、白いドレスがオーロラの様に揺らめいている。
オランジュの美しい微笑みは、凪いだ海原と同じく穏やかに煌めいている。
右手に握られた木の棒は、ごく自然に垂らされており、何の意思も示そうとしない。
一〇年無敗の『レジィナ』オランジュは、自然体のまま悠然と歩いて来る。
何も恐れていないのか、何も警戒していないのか、そうとしか思えぬ足取り。
それでもナヴゥルは抜かり無く、戦斧を構える。
己が間合いまで、あと数メートル。
オランジュの攻撃は、針に糸を通すがの如くに繊細、加えて雷光よりも一瞬である。
しかし、それでも把握出来る――そうナヴゥルは思う。
今この瞬間、極限まで張り詰めた状態にある私であれば。
相討ちとならぬ瀬戸際、極まった紙一重にて『レジィナ』を取れる。
――と、次の瞬間。
ゆっくりと距離を詰めて来たオランジュが、いきなり加速した。
ドレスの白が淡く空間に滲み、強烈に帯を引くほどの加速だ。
そして瞬く間も無く、ナヴゥルの間合いへ飛び込む。
飛び込みざま右手に携えた木の棒を、疾風の如くに突き込もうとする。
「ふッ……」
「しィッ……!!」
ナヴゥルは超反応を示す。
オランジュが間合いに踏み込む直前、時間を掛けて形成した高濃度の『海』にて『神経伝達』の『波動』を把握、繊細にして高速なオランジュの挙動を捉え、攻撃のタイミングを完全に読み切ったのだ。
それは絶対的な瞬間だった、狙うはもちろんカウンターだ。
左半身前に構えた戦斧を手に、ナヴゥルは全力で踏み込む。
突き出した戦斧の先端――スピアヘッドにて。
得物を握るオランジュの右手ごと胸部を貫かんとする、激烈な刺突攻撃だった。
――貰った。
勝利の予感がナヴゥルの脳裏をよぎる。
――が、次の瞬間。
ナヴゥルは眼を見開いた。
◆ ◇ ◆ ◇
――オランジュは。
カウンターを取られたと悟るや否や、突き出した得物にて、襲い来るスピアヘッドを脇へ弾こうとした。しかし満身の力で、加えて極限のタイミングで放たれたナヴゥルの刺突を、完全に逸らす事など出来ない。スピアヘッドの軌道は僅かに変化したのみであり、刺突に次いで間髪入れず、重厚極まる戦斧の斧刃が、オランジュの胸部に襲い掛かる。同時に踏み込んだナヴゥルの腹部にも、オランジュの木の棒の先端が迫るが、ナヴゥルは全く意に介さない。元よりダメージなど覚悟の上だ。
交錯の刹那――ナヴゥルの左脇腹を木の棒が貫通する。
怯まずナヴゥルは踏み込み、身体を捻り、右腕にて突き込む。
空間を引き裂く斧刃がオランジュの胸元を捉え、鮮血と共に損壊した。
◆ ◇ ◆ ◇
――オランジュは。
カウンターを取られたと悟るや否や強引に身体を捻り、回避しようとした。しかし極限のタイミングにて放たれた戦斧の刺突を、容易く回避する事など出来ない。スピアヘッドはともかく、大きく張り出した斧刃を回避するには至らない。それでもオランジュは、右手の得物を止める事無く、鋭く激しく打ち込もうとする、狙いはナヴゥルの右手か。そうする事で攻撃を止めようという事か。
交錯の瞬間、ナヴゥルの右手――その指を四本、木の棒が削ぎ落す。
それでもナヴゥルは怯まず踏み込み、腰を捻ると左腕一本で戦斧を突き込む。
空間を引き裂いた斧刃はオランジュの腹部へ吸い込まれ、激しく鮮血を撒き散らした。
◆ ◇ ◆ ◇
――オランジュは。
カウンターを取られたと悟るや否や、身体を極限まで深く沈み込ませた。驚くほどの柔軟性にて、ナヴゥルの刺突を掻い潜ろうという事か。しかしナヴゥルは突き込みながらに激しく手首を返すと、戦斧の柄ごと斧刃を高速で旋回させた。それは闘技場に敷き詰められた石床すら砕く破壊力を秘めている、いわば鋼のグラインダーにも等しい。この破砕のグラインダーを掻い潜るは至難だ。
交錯の瞬間、オランジュは右手の得物を下から突き上げる様に放つ。
しかしその一撃を高速旋回するナヴゥルの斧刃が粉砕、木の棒はたちまち砕け散る。
空間を引き裂いた斧刃はオランジュの頭部に打ち込まれ、美貌を鮮血と共に削り取った。
◆ ◇ ◆ ◇
ナヴゥルは、自身が勝利する瞬間を、何度も、何度も、体感していた。
否、全ての瞬間を、同時に体感していた。
――私はいったい、何を感じ取っている!?
ナヴゥルは戦斧を突き込みながら愕然とする。
勝利の瞬間を感じ取り、しかし勝利には至らず、歓喜が歓喜に至らない。
まるで決着の瞬間を、何度も、何度も、繰り返しているかの様な。
己が能力である『海』にて掴んだオランジュの挙動が、己の勝利を知らしめている。
この瞬間に感じた勝利が、挙動が、完全なる事実であると伝えている。
にも関わらず、決着には至らない。
ふりだしに引き戻されるかの様に――いや、そんな事が有り得るのか。
こんな馬鹿な、こんな有り得ぬ事が。
眼前のオランジュは、未だ得物を突き込んでなどいない。
そのオランジュに対して私は、戦斧にてカウンターを併せようと。
これはいったい、何が――
◆ ◇ ◆ ◇
――オランジュは。
カウンターを取られたと悟るや否や、自身が手にした木の棒を、足元の石床へ向かって突き込んだ。そのまま木の棒に体重を預けつつ全身のバネを用いて、一気に身体を宙へと跳ね上げる。そこへナヴゥルの戦斧が叩き込まれ、石床に逆立つ木の棒を、その中ほどでへし折った。オランジュの身体は空中にあり、その右手には叩き折られて半分の長さとなった棒が握られている。会心の刺突が回避されたナヴゥルは戦斧を放棄、左右の前腕から鋼の隠し爪を打ち出し、空中のオランジュを引き裂かんと腕を振るった。
交錯の瞬間、空中にて身を捻ったオランジュは、迫り来る鋼の爪を回避する。
更に回避しざま、右手に握った折れた木の棒を強烈に突き込んだ。
空間を引き裂いた木の棒は、そのまま真っ直ぐ、ナヴゥルの右眼に打ち込まれる――
◆ ◇ ◆ ◇
「……っ!?」
真紅に染まる視界が、ぐらりと揺れた。
何が起こったのか、私は攻撃を受けたのか?
攻撃を受け、そのダメージ故に足元が覚束ないというのか。
「馬鹿な……」
もはや立っている事が出来ない。
ナヴゥルは、その場に膝を着いた。
・ナヴゥル=ラークン伯所有の非常に強力な戦闘用オートマータ。
・オランジュ=マルセルが錬成した最強のコッペリア。『レジィナ』の称号を持つ。




