第一七九話 交錯
・前回までのあらすじ
互いに無傷のまま、二度、三度と危険な交錯を繰り返すオランジュとナヴゥル。ナヴゥルはオランジュの強さを認めつつも、攻略可能であるとの認識を強めていた。
鋼鉄の戦斧を構えて立つナヴゥルの姿に、一切の隙は無かった。
強靭かつしなやかな肢体を包むレザースーツに、筋肉のラインが美しく浮かび上がる。
鈍く光る赤い瞳に打倒すべき敵――『レジィナ』の姿を映している。
短く告げた。
「……次は捉える」
先端を斜めにカットした木の棒を手に佇むオランジュは、嫣然と微笑んでいた。
豊満にして優美な肢体を包む白いシュミーズドレスには、未だ染みひとつ無い。
煌めくブロンドのロングヘアを揺らしながら、オランジュは再び歩き始める。
愉しげに応じた。
「ふふっ……出来るかしら?」
回避の気配も無く、攻撃の気配も無く、ゆったりとナヴゥルに近づく。
自然体のままに歩く姿は、陽光に照らされた花咲く庭園を散策する女神の如くだ。
余りにも無防備――にも関わらず、攻撃を仕掛けたなら確実に回避される。
あまつさえ繰り出される反撃は疾く鋭い。
何より攻防共に、ナヴゥルの仕掛けた『エーテル粒子』の『海』に反応しない。
全くの無意識で行動しているのか。
或いは『欺瞞』行動を仕掛けているのか。
如何な存在であれ、無意識にて戦闘を続行する事など不可能だ。
であるならば、オランジュは『欺瞞』行動によって『海』を掻い潜っている。
そう、かつて『エリーゼ』が行ったのと同じように。
つまり『何事も無く歩行する』というフェイントを仕掛けている、そういう事だ。
無策と誤認させて攻撃を呼び込み、ギリギリのタイミングでカウンターを併せている。
故に『海』が事前に反応しないという事か。
先の仕合でエリーゼは『欺瞞』――フェイントを用いるべく、複数の策を重ねた。
策に策を重ね、こちらの油断と思い込みを利用し、フェイントを真実と誤認させた。
しかしオランジュは、初手から『海』をも欺く完璧なフェイントを使用している。
格段にレベルの高いフェイントだとでも言うのか。
――いや、そこに秘密がある。
極限のフェイントを成立させる為に、オランジュは『能力』を用いている。
己が『能力』を用いたフェイントで『海』を掻い潜っている。
とはいえ、フェイントはフェイントだ。
既に『エリーゼ』との仕合で経験している。
対応は可能だ。
つまるところフェイントの攻略は行動の真贋を見切る、その点に尽きる。
『エーテル粒子』による『海』を、フェイントで一時的に掻い潜る事が出来ても。
事前に『神経伝達』の『波動』を捉える事が出来ずとも。
オランジュの挙動自体は『海』によって把握出来る、目視する事も出来る。
何より痛覚抑制を解く事で、ナヴゥルの知覚は研ぎ澄まされている。
だからこそ二度目の交錯でナヴゥルは、オランジュのカウンターを回避出来たのだ。
研ぎ澄まされた知覚は、視覚や聴覚のみならず『勘』や『予感』といった、非合理な感覚をも極限まで高めている。
『エーテル粒子』の『海』を用いた能力に、極まった知覚を併用するなら。
あと幾度か交錯を重ねれば、オランジュの挙動を読み切るに至るだろう。
ナヴゥルは戦斧を構えたまま動かない。
腰を落として膝に溜めを作り、何時でも動ける状態を維持している。
オランジュはそんなナヴゥルに微笑み掛けながら、悠然と歩み寄る。
そのまま、更に濃度を増したナヴゥルの『海』へと踏み込んで行く。
ナヴゥルはオランジュの体内で発生する『神経伝達』の『波動』を感じる。
オランジュは手にした得物を振るうつもりが無い。
こちらの攻撃を回避する意図も無い。
ただ真っ直ぐに距離を詰めて歩くのみだ――その様にナヴゥルは認識する。
しかし、そんな筈は無いのだ。
この認識は『虚』であり、オランジュの仕掛けた『欺瞞』であると感じる。
『実』の行動は恐らく、オランジュの『能力』によって秘められている。
未だその『能力』を見切る事は出来ない、しかしそれでもやりようはある。
オランジュに敢えて先手を取らせ、カウンターを併せる形に持ち込めば良い。
単純な策だが間違いなく適切だ。
限界までオランジュの動きを読む事で、見えて来るものを計る。
オランジュは更に距離を詰める。
もはやナヴゥルの戦斧が届く位置に達している。
それでもナヴゥルは応じない、未だオランジュの出方を待つ。
重ねてオランジュは距離を詰める。
右手の得物も下方へ垂れたまま、攻撃の素振りも無い。
優雅な足取りで何処までも近づく。
ナヴゥルが構え、前方に突き出した戦斧――その斧刃の脇を、ゆっくりと通り過ぎる。
間合いなどという距離では無い。
にも拘らず、まだ距離が詰まる。
限界を超え、近づいて来る。
得物を携え仕合を行う以上、この距離は有り得ない。
ナヴゥルの眼前――およそ四〇センチ。
手を伸ばせば確実に届く距離。
そこでオランジュは足を止めた。
ナヴゥルは煌めくエメラルドグリーンの瞳を睨みつける。
オランジュは鈍く光るスカーレットの瞳に微笑み掛ける。
互いに得物を振るうには近過ぎる。
危険過ぎる距離だ。
「それで……ここからどうするのかしら?」
穏やかな口調でオランジュは話し掛ける。
目許は愉しげに細められ、艶やかな唇の端が綻ぶ。
両手は垂らされ、構えていない。
右手の得物も無反応だ。
一切の気負いも警戒も無い、有り得ぬ反応だった。
「……」
対するナヴゥルは応じない。
腰を落とした姿勢で、両手に戦斧を構えている。
真っ直ぐにオランジュを見据えている。
全身の神経を集中させ『虚』と『実』が裏返る瞬間を、見極めんとしている。
オランジュが仕掛けて来る瞬間を、見極めんとしている。
「――おびえているのかしら? それとも迷っているのかしら?」
オランジュはナヴゥルに、揶揄う様な口調で囁いた。
挑発している様にも思えるが、その眼差しも、表情も、凪いだ海の様に穏やかだ。
とても戦闘時とは思えない。
「だったら……私から仕掛けてあげる」
――ふと、オランジュの左手が動いた。
得物を携えず、下方へ垂らしていた左手だ。
ゆっくりと持ち上がり、やがて前方へ差し出される。
眼前に立つナヴゥルの方へ、静かに左手を差し伸べて行く。
差し伸べられる先はナヴゥルの相貌――そして双眸だ。
赤く光るナヴゥルの瞳に、ゆっくりとオランジュの指先が伸びて行く。
ナヴゥルの瞳が、真っ白なオランジュの指先を映している。
その指先が、ナヴゥルの瞳に近づき続ける。
残る距離が、一五センチ……一〇センチ……五センチ……。
そして残り三センチに達した時。
「しィッ……!」
ナヴゥルの右手が銀光と化した。
構えていた戦斧を左手のみで支え、右を手放したのだ。
尾を引き煌めく銀光は、右前腕を覆う『強化外殻』から弾き出された鋼鉄の爪だ。
爪は差し伸べられた左腕の内側から、オランジュの顔面に向かって跳ね上がった。
交錯の瞬間。
オランジュは踏み込みながらに身体を深く沈め、ナヴゥルの一閃を紙一重で回避する。
ナヴゥルは爪による攻撃が回避されたと見るや、左腕一本で戦斧を横薙ぎに振るった。
側頭部を砕かんと迫る戦斧に対しオランジュは、真横への跳躍を選択する。
低く、速く、大きく、オランジュは横へと飛んだ。
ナヴゥルは握った左手の中で戦斧の柄を滑らせると、極限まで射程を伸ばす。
しかし身体を捻り躍らせながら、柔軟に回避するオランジュを捉え切れない。
金糸の如くに美しい頭髪を数本、散らしたのみだ。
オランジュは白いシュミーズドレスを揺らしながら、バックステップを繰り返す。
改めて六メートルほど距離を取ると足を止め、背を伸ばして顔を上げた。
輝くほどの美貌、蕩けるような微笑み。
ただ――その白い頬に、一筋の紅いラインが引かれていた。
ナヴゥルの鋼鉄爪によるものだった。
ナヴゥルは距離を取ったオランジュの方へ向き直ると、改めて戦斧を構える。
半身となって左足を前に、腰を落して力強く構える基本の形だ。
黒いレザースーツに筋肉のラインを浮かび上がらせ、赤い瞳でオランジュを睨む。
ただ――汗の滲むその頬に、一筋の紅いラインが引かれていた。
オランジュの指先によるものだった。
オランジュは微笑みを湛えたまま、左の指先を口許へ近づける。
しなやかな指先の透き通る爪にて、ナヴゥルの頬を切ったのだ。
形の良い爪と指先には、ナヴゥルの頬から溢れた紅い濃縮エーテルが絡んでいた。
オランジュは指先に絡む紅色を、チロリと舌先で舐め取った。
「凄いわ、あなた……」
そして感心したように、小さく呟くのだった。
・ナヴゥル=ラークン伯所有の非常に強力な戦闘用オートマータ。
・オランジュ=マルセルが錬成した最強のコッペリア。『レジィナ』の称号を持つ。




