第一七四話 終戦
・前回までのあらすじ
マグノリアとエリーゼの仕合は、互いに限界を超えた展開となる。しかしほんの僅かな隙を突き、エリーゼはマグノリアを追い詰めるに至った。
観覧席に居並ぶ貴族達が低く唸り、地鳴りの如くにどよめいている。
管弦楽団とスチーム・オルガンの紡ぎ出す静謐な調べが、円蓋天井に重く反響する。
闘技場では満身創痍のエリーゼとマグノリアが、共に片膝をつき対峙していた。
「――これにて『詰み』でございましょう」
そう告げたエリーゼの左手には、マグノリアから奪ったククリナイフが握られている。
マグノリアの右手には、エリーゼから奪ったスローイング・ダガーが握られている。
エリーゼが差し出す刃の切っ先は、マグノリアの喉を何時でも貫ける状態にある。
マグノリアが振り被ったダガー三本は、しかし右手首を三本のワイヤーで拘束され、すでに殺傷能力を削がれていた。
マグノリアは砕かれた手脚の激痛に苛まれながら、エリーゼを見遣る。
エリーゼもまた全身に傷を負い、濃縮エーテルの紅色に塗れ、顔色ばかりが蒼白だった。
呼吸も乱れ、限界が近いのだろう。
それでも突きつけられた刃より発せられる殺気に、一点の曇りも無い。
必殺の意思が明確に伝わって来る。
その気になればエリーゼは、一突きでこちらの命を断つ事が出来る。
「ならば突けば良い。それで決着だ」
マグノリアは吐き捨てる様に言った。
エリーゼは微かに首を振る。
「私はシスター・カトリーヌとの約束を守りたい、決死決着は避けたいのです」
「……嗤わせるな」
エリーゼの言葉を受け、マグノリアは口の端で嗤った。
マグノリアの背後から聞こえて来るのは、すすり泣くカトリーヌの声だ。
「何も見えていないな――『エリス』。貴様は約束を交わした相手、護らねばならぬ者を盾に刃を振るった、勝負の駆け引きに利用した。確かに勝算はあったのだろう――が、そのやり方で人を救えるなどと決して思うな。貴様は三〇年前から変わる事無く、闘争に踊るだけの悪霊だ」
マグノリアの口調は硬質で、深い断絶を示している。
対するエリーゼは、意外にも首肯で応じた。
「……私もずっと、その様に己を捉えておりました。闘争の宴に咲く刹那の華こそが真にして現、でなければ現世なぞ虚ろにして朧……それが私なのだと確信しておりました」
「……」
鈍く光るマグノリアの黒い瞳が、訝しむ様にエリーゼの瞳を見つめている。
エリーゼは視線を逸らす事無く、言葉を続ける。
「ですが、そうでは無いと『ヤドリギ園』で知ったのです。無意味に思えた些細な事柄、些末な時の流れ……その中にも喜びがあり、それもまた慈しむに足る花なのだと――」
「……」
不意に、ピジョン・ブラッドの煌めきが揺らいだ。
「――シスター・カトリーヌの願いを叶えたく、全霊を尽くし、限界まで試みました。 しかし私は、この道以外に解決する術を知りません。私の裡に宿る魂は、闘争と戦争の狭間で求められたもの。他に手立てがあったのか、より有効な手段があったのか。私には、見出す事が叶いませんでした……」
細く紡がれるエリーゼの言葉に、マグノリアは黙したまま耳を傾けていた。
――が、おもむろに深く息を吐くと、エリーゼから視線を逸らす。
やがて振り被っていた右腕を下ろし、ダガーを手放した。
「……現実は、何一つ思い通りになどならん。ただそれだけの事だ」
言いながらマグノリアは、空になった右手を晒すように、改めて掲げる。
そして低く告げた。
「この仕合は、貴様の勝ちで良い……」
直後、闘技場の東側入場門脇に設けられた『待機スペース』から、黒い修道服を纏った男――ランベール司祭が姿を表す。
ランベール司祭は右手を掲げると周囲を見渡し、大声で告げた。
「我々は敗北を認める!」
どよめきに揺れていた観覧席が、司祭の宣言を受けて一気に沸き立つ。
貴族達は顔を紅潮させながら一斉に起立し、諸手を上げて喝采を送った。
伝説のレジィナと呼ばれていたマグノリアを、新進気鋭のエリーゼが打ち破ったのだ。
それは新たなる伝説の幕開けを数多の貴族達に印象付けた。
管弦楽団が仕合の決着を示す壮麗な曲を奏で始めると同時に、ランベール司祭以外にも修道服を纏う複数の男達が闘技場内へと立ち入る。
マグノリアが脚を負傷し立ち上がれずにいる事を、把握しているのだろう。
対してエリーゼの陣営が待機しているスペースからは、未だ誰も姿を見せない。
マグノリアは手首に巻かれた革ベルトから短針を抜き出し、自身の右膝に打ち込む。
沈痛処置を施したのだ。
更に外れた左肩を右腕で抱え、強引に嵌め込むと口を開いた。
「貴様はこの仕合に勝利したが、失った物も多い筈だ。それほどに貴様は度し難い、どれほどに真っ当を望もうと、貴様の本質は変わらん」
「……」
エリーゼは応じる事無く、眼を伏せる。
束の間の沈黙。
やがて、目を伏せたまま問い掛けた。
「シスター・マグノリアはこの仕合、いいえ――闘技場の地下通路でシスター・カトリーヌと共に再会した時より、仕合での勝利以上に私の損壊を望んでおられました。それはシスターが所属する『マリー直轄部会』の活動方針に由来するものでしょうか」
「……その質問に、答えてやる義理は無い」
マグノリアも、エリーゼの方を見ようとはしない。
ただ俯き、介添え人である司祭達を待っている。
「左様でございますか……」
エリーゼは目蓋を閉じて呟く。
程無くして黒衣のランベール司祭が他の司祭達を伴い、傍らに辿り着いた。
ランベール司祭は険しい表情のまま跪き、マグノリアと短く言葉を交わす。
背後に並ぶ司祭達は鋭い目つきで、周囲を監視する様に見渡している。
程無くしてマグノリアはランベール司祭の肩を借り、立ち上がる。
そのまま言葉も無く、脚を引き摺りながら歩み去った。
「――脚の機能に問題が生じているのか?」
床の上で蹲るエリーゼに、声が掛けられる。
エリーゼは顔を上げ、応答した。
「はい、ご主人様」
黒いラウンジスーツを着込んだレオンと、ワンピースドレス姿のドロテアだった。
レオンは額に脂汗を滲ませた青白い顔で、エリーゼの返答に頷く。
ドロテアはすぐさまエリーゼに寄り添うと、肩を貸して立ち上がらせた。
「脚以外の状態も――良く無さそうだな」
「はい」
ドロテアに凭れ掛かりながら歩くエリーゼに、レオンはしわがれた声で低く問う。
返答するエリーゼの声も低く掠れている。
共に言葉数少なく、笑顔も無く、とても勝利を納めた後だとは思えない。
観覧席から湧き上がる貴族達の大歓声だけが、熱を帯びていた。
西側入場門脇の『待機スペース』に、レオンとドロテア、そしてエリーゼが戻った。
『待機スペース』の中は薄暗く、闘技場の熱から隔絶されているかの様だった。
薄暗がりの奥にベンチがあり、そのベンチにカトリーヌが腰を下ろしている。
膝を揃えて座り、膝の上に肘をつき、上体を前へ倒して、手のひらで顔を覆っている。
すすり泣く声が途切れず、か細く、長く、聞こえて来る。
足元には『小型差分解析機』からタイプアウトされた専用用紙が、何枚も散乱していた。
「シスター・カトリーヌ、ただいま戻りました」
エリーゼは静かな口調で、そう話し掛ける。
その声にカトリーヌは、びくりと身体を震わせた。
ゆっくり顔を上げ、エリーゼを見遣る。
大きな眼は真っ赤に充血し、艶やかな褐色の頬は涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。
カトリーヌは尋ねる。
「エ……エリーゼ……? し、仕合は……シスター・マグノリアは……?」
「仕合に勝利しました。シスター・マグノリアも存命です」
ドロテアに支えられたまま、エリーゼは答えた。
カトリーヌは小さく頷く。
「そ……そうなんだ……良かった……よ、良かった……そうだね、よかった……」
口許に微笑みを浮かべようとして――出来ずに唇を震わせる。
再び俯き呟いた。
「わ、私……私ね……あのね、私……わ……私は……わたし……」
濃紺の修道服に包まれた身体が、細かく震え始める。
レオンが傍に近づく。
カトリーヌは両手で歪む表情を覆い隠すと、嗚咽交じりに告げた。
「わたし、こんなの、もう、嫌だ……」
・マグノリア=『マリー直轄部会』所属のオートマータ。カトリーヌの恩人。
・エリーゼ=レオンが管理するオートマータ。高性能だが戦闘用の身体では無い。
・レオン=孤児院「ヤドリギ園」で働く練成技師。エリーゼの後見人。
・カトリーヌ=グランマリー教のシスター。レオンのアシスタントを務める。
・ランベール司祭=『マリー直轄部会』所属の司祭。マグノリアの介添え人。




