第一七三話 絶無
・前回までのあらすじ
エリーゼの仕掛けた非情の罠、その全貌を理解したマグノリアは、この窮地を脱するべく自ら動く事を決意する。そしてエリーゼが隙を見せたその瞬間に『縮地』による速攻を仕掛けた。
エリーゼまでの距離は僅かに四メートル。
四メートルの短距離を『縮地』で一気に潰す。
回避不能の速攻だ。
瞬きする間すら無く、左手のククリナイフがエリーゼの胸を貫く――
――筈だった。
決定的な瞬間が訪れる直前。
マグノリアの視界から、エリーゼの姿が忽然と消えた。
「……ッ!?」
回避したのか――!?
そんな事は在り得ない、回避など出来ぬタイミングだ。
――違う。
マグノリアは『縮地』による超加速の中で違和感に気づく。
エリーゼも踏み込んだのだ、『縮地』と全く同じタイミングで。
視線を落したマグノリアは、己の足元へ滑り込むエリーゼの姿を視認する。
「!!」
完璧なタイミングだった。
このタイミングにカウンターを合わせる事など、在り得ない筈だ。
エリーゼはワイヤー操作に誤り、弾いたダガーを後逸した。
エリーゼは確かに受け止め損ねたダガーの方へ、意識を向けていた。
更に操作するダガーも全て、ディフェンシブな形に変化していた。
その瞬間こそが、エリーゼに生じた決定的な『隙』だった筈――
――否、そうでは無い……!
マグノリアは、己が思い描いた安易な発想に戦慄した。
相手がミスを犯した瞬間、その『隙』を突いて距離を詰める、などという発想は。
これほどに膠着した状況であるなら、予想されて然るべきだ。
思えばカトリーヌにも危害が及ぶ可能性のある『待機スペース』前での攻防。
幾重にも策を巡らし作られた、チキン・ランにも似た異様な状況、狡猾な罠。
罠を用意したのはエリーゼだ。
罠に嵌ったと感じたなら、誰であっても脱する方法を模索するだろう。
異常な状況を早急に脱し、己のペースを掴むべく自ら動く事を選択する。
自ら動くにあたって最も重要なポイントは確実性だ。
最も確実に動ける瞬間を見極め、実行する。
それが何時か? それは問題が最小化された瞬間だ。
カトリーヌを巻き込む恐れが無く、攻撃の波が僅かにでも引いた瞬間以外に無い。
攻撃を仕掛けているエリーゼの視点に立ち返って考えるなら。
意図的に『最も都合の良い瞬間』を『演出』すれば良い。
意図的にワイヤーの操作をしくじり『隙』を作れば良い。
幾重にも連なる策に翻弄され、思考が硬直化した私に敢えて『隙』を見せた。
それこそが『縮地』を用いて踏み込むべき、絶好のタイミング。
――の、様に見えた。
完全なる誘導だった。
「っ……!」
マグノリアは右脚にて大きく踏み込み、左手のククリナイフを突き込もうとしていた。
エリーゼは踏み込んだマグノリアの、左右の脚の間に爪先から滑り込んでいた。
間髪入れずエリーゼの左脚が、踏み込んだマグノリアの右脚に、下から絡みつく。
「ッ!?」
マグノリアの背筋に悪寒が走る。
巨大な違和感を覚える。
何をしている……!?
即座にククリナイフを構え直し、捕捉された右脚を引き抜こうとする。
――が、それが出来ない。
エリーゼの左腕が、右脚の爪先と踵を捉え、腋と肘で挟み込み、固定しているのだ。
更に固定された右脚が捻られ、その膝裏をエリーゼの左脚が押し込む。
いったい何が――そう考える間すら無い。
マグノリアはガクンと前のめりに崩れる、構えたククリナイフを振るう事も出来ない。
そのまま膝を着くと俯せに倒れ、両手を床に着いてしまう。
次の瞬間。
「ぬっ……!?」
マグノリアは、濡れた革紐がブチブチと引き千切れるような異音を聴いた。
同時に、融けた金属を膝関節に流し込まれる様な、灼熱の激痛。
エリーゼに爪先と踵を捉えられ捻られた結果、マグノリアは右膝の靭帯と半月板を、一気に破壊されていた。
「ぐううっ……」
それでもマグノリアは強引に身を捻ると、右手のダガーでエリーゼの右脚を狙う。
更に身体を捩りながら、左手のククリナイフを振るおうとする。
しかし床に両手を着いた状態からの攻撃だ、どうしても鋭さに欠ける。
床の上へ、仰向けに滑り込んだエリーゼの回避速度が速い。
ククリナイフの先端は、距離を取ろうとするエリーゼの脇腹を僅かに掠めたのみだ。
在り得ぬ姿勢での高速回避と高速移動、ワイヤーを用いての牽引か――
マグノリアは一瞬で理解し、視界にエリーゼを捉えたまま、身体を起こそうとする。
力を失った右脚に、眼が眩むほどの激痛が走るが構わない。
片脚では体術を駆使する事が出来ない、距離を取られたならダガーを使用される。
改めて全方位攻撃を繰り出されたなら、もはや凌ぎ切れない。
不意にマグノリアの顔面目掛けてスローイング・ダガーが三本、纏めて撃ち込まれた。
「ふっ……!」
殺気を帯びた鋭い攻撃に、マグノリアは完璧な反応を示す。
右手に握ったダガーを放棄、同時に向かい来る三本のダガーを纏めて掴み取ったのだ。
――が、脳裏を掠めたのは嫌な予感だった。
この仕合で初めて感じた、匂い立つほどに強烈な殺気。
剣呑極まる気配を受け、己が意思よりも先に『見切り』と『先読み』が反応していた。
結果――
「……なにっ!?」
ダガーを掴み取った右手に、三本のワイヤーがギリギリと絡みつく。
ダガーは投擲されたのでは無く、ワイヤーを伴い鞭の様に振るわれていたのだ。
続けざまに放たれた二つの想定外に、マグノリアはエリーゼの姿を見失う。
「くっ……」
この一瞬を盗む為、敢えて必殺の攻撃を顔面に仕掛け、意識を刃に集中させたのか。
更に絡みついたワイヤーが、マグノリアの右腕を強い力で後方へと引き絞る。
背後だ、エリーゼは背後に回り込んでいる。
マグノリアは引かれる方へ振り向きざま、左のククリナイフを叩きつけた。
だが、振るわれた刃は、エリーゼを捉える事無く空を斬る。
視界の隅にエリーゼを捉える。
更に背後へと回り込もうとしている。
砕かれた右膝の激痛がノイズとなり、マグノリアはその移動速度に追いつけない。
その時、不穏な風切り音が耳朶を打った。
「……!!」
マグノリアは咄嗟に左手で喉元を庇う、そこへエリーゼのワイヤーが巻きつく。
ククリナイフを握る左手の甲ごと、首の頸動脈をワイヤーが絞り上げた。
「ぐっ……!」
意識が遠退きそうになる中、マグノリアは手首に巻かれた革ベルトに口を着ける。
そこから短針を二本、咥えて抜き出すと、自身の左前腕と左上腕に突き刺した。
針を用いて左腕の神経に干渉、一時的に筋力を極限まで高めたのだ。
マグノリアは首に巻かれたワイヤーを、左腕一本で強引に引き剥がす。
引き攣れた首筋に血が滲むが構わない。
力づくでワイヤーを振り解いた勢いのまま、猛然と背面に腕を振るい身を捻る。
そこにいる筈のエリーゼを斬りつけんとしたのだ。
強化された筋力より放たれた一閃は、恐るべき威力の斬撃となる。
しかし。
その斬撃が血飛沫に彩られる事は無かった。
過剰な膂力から放たれた高速の一撃は、横合いからの僅かな力により軌道を歪められ、捻じ曲げられる。
マグノリアの左手首に、強化外殻に包まれたエリーゼの手が添えられていた。
直後、ボコリという鈍い音が響き、左肩に激痛が走る。
肩関節を外されたのだ。
「ぐううっ……」
力の抜け落ちた左手から、ククリナイフが捥ぎ取られる。
それでもマグノリアは止まらない。
左肩が異様な角度で垂れ下がる事も構わず、猛然と身を捻る。
右手に握った三本のダガーを全力で突き込もうと振り被り――止まった。
右手首に絡まる三本のワイヤーが張り詰め、右腕の動きを激しく阻害している。
動く事の出来ぬマグノリアの喉元へ、ククリナイフの刃が真っ直ぐに伸びていた。
膝立ちの姿勢でナイフを構えた血塗れのエリーゼが、掠れ濁った声で告げる。
「――これにて『詰み』でございましょう」
・エリーゼ=レオンが管理するオートマータ。高性能だが戦闘用の身体では無い。
・マグノリア=『マリー直轄部会』所属の強力なオートマータ。カトリーヌの恩人。




