第一五五話 満足
・前回までのあらすじ
準決勝へと駒を進めた『マリー直轄部会』所属のシスター・マグノリア。マグノリアはマルセルの犯罪を突き止めるべく、エリーゼの頭部に納まっている筈の『タブラ・スマラグディナ』を奪取しようと考える。
同じく準決勝へと駒を進めたラークン伯所有のオートマータ、ナヴゥル。極限まで自己を研ぎ澄ます事で、精密な攻撃と知覚を手に入れる。しかしその様子を見守るラークン伯の表情は冴えなかった。
シャンデリアの明かりが燈る、豪奢にして広大な部屋の中央。
ヘリンボーン柄の床に片膝を着き、身を屈めているのは肌を晒したナヴゥルだった。
「――切り花の微弱な『エーテルプルス』であれ、肌にて掴めばその形状は精緻に浮かぼうというもの、仕合であれば更に研ぎ澄まされ、着衣であっても精度は変わらぬ」
言いながらナヴゥルは戦斧を床に置き、身体を起こして立ち上がる。
汗ばむ裸身を隠す事無く、壁際のソファに腰を下ろすラークン伯の方へ向き直った。
目元は未だ黒い布で覆われたままだ。
ナヴゥルはラークン伯の方へ歩み寄る。
「我が主よ……その胸中が揺らぎ、ざわめきは、次戦に臨む我を想っての事か?」
ナヴゥルの足取りは平時と変わらない、見えているかの様だ。
やがて肥え太った主の傍に辿り着くと、ナヴゥルはその足元に跪く。
「肌より伝わる心臓の鼓動、血流の囁き、それらが主の不安を示している……」
「……」
ラークン伯は口を噤んだまま眼前のナヴゥルに両手を伸ばし、目許を覆う布を解いた。
ナヴゥルは赤い瞳に主の丸い顔を映し、微笑む。
「今の我に死角は無い。仕合を前に迷い無く、意識は張り詰め澄み渡る。主の名の基、誓った『グランギニョール』の頂点――今なら間違い無く手が届くと確信している」
そう言いながらナヴゥルは、目隠しを解いた主のでっぷりとした手を捕まえる。
そっと、自身の頬に押しつけた。
愛おしげに眼を細め、ラークン伯を見上げる。
「ご案じ召さるな、我が主よ……必ずや勝利の栄誉をお届けすると、約束しよう」
ラークン伯は差し伸べた右手の親指で、ナヴゥルの頬をそっと撫でる。
しかし、ナヴゥルを見つめる眼差しには、複雑な色が滲んでいる。
おもむろに口を開いた。
「――ナヴゥルよ。私は常にナヴゥルの勝利を喜ばしいと感じておる。最良の出来事だとな。ナヴゥルの勝利を心から望んでおる……」
右手でナヴゥルの頬を包み込み、左手は自身の胸元へ添える。
細く濁った眼の奥では、青い瞳が揺れている。
ラークン伯は、弛んだ顎の肉を揺らしながら呟いた。
「しかし今は……勝利以上にナヴゥルの事が心配なのだ……」
「我が身を案じての懸念であったか、我が主よ……」
ナヴゥルは微笑みを絶やす事無く、応じる。
その微笑みを見据えたまま、ラークン伯は続ける。
「ナヴゥルが本能的に闘争を求め、力を振るう事で、その魂が満たされるという事実、錬成技師達より聞き及び、私は理解したつもりでおった――何故なら私も同じだからだ、この社会に於いて何処まで上を目指せるか、この私が何処まで通用するのか、それが知りたく、私もまた闘争と政争を繰り返し、先を目指し続けておった……」
「……」
「――だが私は、例え惨敗しても再起が可能な、そういう退路を残した戦いをしておったのだ……生き残りさえすれば幾らでも再起出来る、そう自負しておった。しかしナヴゥルは違う……刃を振るい、全てか無かという戦いに身を投じておる。その事実を私は深く考えもせず、ナヴゥルの主となり、ナヴゥルの仕合う姿に魅入っておった……」
「……」
「ナヴゥルは難敵に際して痛覚の抑制さえ解き、仕合に挑もうとしておる、どれほどの苦痛を背負う覚悟あっての事か、もはや私の理解が及ばぬ領域での闘争……私は今になって己が浅薄な想いを恥じておる。ナヴゥルの想いを本当に理解していたかどうか……むしろ、ナヴゥルに何かあったらと思う事自体が……ナヴゥルの覚悟を侮辱しておるのではないかと……」
「ああ……我が主よ……」
ナヴゥルは感極まった様に呟き、膝立ちとなって両腕を伸ばす。
そのまま身を寄せ、ラークン伯の首に抱きついた。
幸せそうに目蓋を閉じ、耳元で囁く。
「主は覚えているか……? 我がこの世に顕現した時の事を。我は己が醜悪さと劣悪さ、おぞましさ、見苦しさに身悶え、吐き気を催し、即死を乞うた。それが叶わぬならこの場にいる者全てを殺害すると告げた、本気だった。そんな私に主は――頼むから生きて欲しいと言って泣いたのだ」
「……」
「あの時、主は背後に控えた従者達に、我を銃撃させる事も出来た。そうすれば我も安閑に死を迎え、主も平穏無事なまま、全てが終わったのだ。にも関わらず主は、自らの危険を顧みる事無く、我が手を取った。主を殺すと告げた我の手を」
「……」
「唾棄と嫌悪のみが我に向けられる全てだと思っていた。故に全てを拒絶し、全てを憎んでいた。そうでは無いと教えてくれたのは、我が主――貴方だ。こんな我にも価値があるのだと、命と引き換えの慈愛で悟らされた」
ナヴゥルはそっと身体を遠ざける。
ラークン伯を真っ直ぐに見つめた。
「今の我が、主にとって失い難い存在だと仰るならば……そんなにも、それほどに、それならば我も、闘争に価値を見出さずとも、きっと満ち足りてしまうではないか……我が主の盾として、或いは憩いとして傍に居られるだけで、満ち足りてしまうぞ……?」
「ナヴゥル……」
「ただ、あと二仕合……次の仕合に勝ち、我が主に最強の座を献上し、次いで決勝、間違い無く勝ち上がって来る『エリーゼ』を下して雪辱を果たす。これだけは、これだけは、暴虐と悪意を司る猛き精霊『ナックラビィ』の誇りに賭けて成し遂げたい。これを以て我は――弱く醜き我と決別する、そのけじめとしたい」
ラークン伯は腕を伸ばす、そのままナヴゥルを抱き寄せた。
短くカットされた艶やかな黒髪を撫でながら、厚ぼったい目蓋を閉じる。
震える声で、静かに言った。
「ナヴゥルよ……勝利を確信しておるぞ……」
・ナヴゥル=ラークン伯所有の非常に強力な戦闘用オートマータ。
・ラークン伯=ヤドリギ園一帯の土地買い上げを狙う実業家であり大貴族。




