第一四七話 正論
・前回までのあらすじ
傷ついたエリーゼの為に治療用のリンゲル液を入手すべく闘技場地下に設けられた『管理局』までカトリーヌは出向いたものの、性質の悪い貴族達に絡まれてしまう。そんなカトリーヌの窮地を救うと共に、狼藉を働いた貴族達に圧力を掛けて追い払ったのは、『ヤドリギ園』周辺の土地を巡って対立しているラークン伯だった。
どちらまで行かれるおつもりか?
戸惑いながら感謝の言葉を口にするカトリーヌに、ラークン伯はそう尋ねた。
『管理局』へ向かう途中でした――カトリーヌは正直に答える。
その言葉を受けてラークン伯は、笑顔を見せた。
闘技場の熱気に中てられ羽目を外す輩が未だおるやも知れぬ、我々も同行しましょう。
仕合を終えて控え室へ戻る途中だったのだと、ラークン伯は言った。
樽の様に肥え太った身体をゆすりながら、カトリーヌの前を先導する様に歩く。
その傍らに付き従い、ゆったりと歩くのは『コッペリア・ナヴゥル』だ。
逞しく研ぎ澄まされた長身に、野性味溢れる美貌が目を惹く。
右手には斧刃部を布で包んだ長大な得物――ハルバートが握られていた。
「――闘技場は神聖な場所、とはいえ羽目を外す輩もおる次第で、しかし彼奴等の如き脆弱極まる不逞の輩など、このラークンが一喝すれば、たちどころに遁走するしか無い訳で、ひとまずご安心召されいシスター。報復の心配もご無用、このラークンの威を知らん貴族など社交界にはおりませんからな、はっはっはっ!」
ラークン伯は頬と顎の弛んだ肉を揺らしながら、しわがれた声で機嫌良く話す。
ナヴゥルはそんなラークン伯を見下ろしながら、静かに微笑んでいる。
驚くほどに穏やかな、慈愛に満ちた眼差しだった。
「しかし『在俗区会』派のシスターが何故この闘技場に――とも考えたのですが、思えば此度のトーナメントには『マリー直轄部会』の方々が参加されておられましたな。『マリー直轄部会』は『在俗区会』派と近しい、シスターが『マリー直轄部会』の関係者という事ならば、彼奴等の処遇はそちらでお決めになっても宜しいかと。何れにせよ証言等が必要とあらばこのラークン、喜んで協力しましょうぞ。それに『マリー直轄部会』といえばガラリア・イーサの治安を維持する機関ですからな、私はこう見えて敵も多い、この機会に治安機関とお近づき出来たなら……という下心が無い事も無いという、いや! これは冗談ですぞ? 真に受けんで下さい、はっはっはっ!」
次々と言葉を紡ぐラークン伯の語り口は軽妙だ。
また、妙に芝居掛かっており、何処かお道化ている様にも感じられる。
とはいえ失礼な印象を与えるものでは無い。
或いはカトリーヌが感じた恐怖を、紛らわせようとしているのかも知れない。
慮ってくれている――そう思える。
が、同時にカトリーヌは『ヤドリギ園』の事を思い出す。
『ヤドリギ園』が抱える『四億八〇〇〇万クシール』という負債。
その原因は、このラークン伯にあるのだ。
工業地帯に隣接する貧民街――通称『歯車街』を、ラークン伯は『衆光会』所属の貴族・ルイス卿から『ヤドリギ園』ごと購入していた。
自身が代表を務める陸運企業『コルベル運輸』の、巨大集配施設とする為だ。
結果、『ヤドリギ園』には立ち退き要求が成された。
孤児達には『一般居住区』内に点在する『国営孤児院』への転居が求められるだろう。
もちろん全員が同じ孤児院へ移れる筈も無い、またどの孤児院も運営状況が厳しく、決して充実した環境とは呼べぬ状況である事も聞き及んでいる。
子供達を待つ、残酷な現実だ。
そんな残酷な現実をもたらした者こそが、ラークン伯だった。
どれほどに憎らしい相手かと考えていた。
道理も通らぬ、醜悪で卑劣な人物を想像していた。
私欲の為に『歯車街』と『ヤドリギ園』の土地を買い占めた人物なのだと。
しかし、そうでは無かった。
風変わりではあっても、常識的な対応の出来る人物だった。
語られる言葉から卑劣さを感じない。
彼を取り巻く従者達も皆、紳士的であり慇懃だ。
なにより――ラークン伯に注がれる『コッペリア・ナヴゥル』の眼差しが優しい。
彼女がオートマータである事は知っている、その名と実力についても聞かされている。
ただ……戦闘用と呼ばれるオートマータが、こんなにも優しい表情で、誰かの傍に立つ事の出来る存在だとは、思ってもみなかった。
ラークン伯。
自分が勝手に思い描いていた悪辣な人物像とは、違うのかも知れない。
だとするなら何か、話し合う余地があるのではないか。
ラークン伯の話を聞きながら、カトリーヌはそんな風に思う。
程無くして『管理局』に辿り着いた。
そこは郵便局の受付窓口を思わせる、長いカウンターが設けられた倉庫だった。
係員からリンゲル液のボトルを受け取ると、カトリーヌはキャリーケースに納める。
「シスター、向かう先は『マリー直轄部会』の控え室ですかな? そのキャリーケースは重いでしょう、我々が代わりに運びましょうぞ。なに……私以外、体力の有り余っとる連中ですからな」
ラークン伯がそう言うと、従者の一人がカトリーヌの傍に近づく。
お荷物をこちらへ……黒いスーツ姿の従者は右手を差し出す。
カトリーヌが断ろうとすると、ラークン伯は笑顔で首を振った。
「いやいやシスター。そやつは若い頃に放蕩を重ねておった親不孝者でしてな、功徳の積める機会を待っておったのですよ。どうか助けると思って、荷物を運ばせてやって下さい」
そう言われては荷物を預けざるを得ない、カトリーヌは従者の男に荷物を頼む。
「すみません、お願いします」
男は微笑み、ラークン伯は満足そうに頷く。
自身の突き出た腹を撫でながら、改めて口を開いた。
「それでは『マリー直轄部会』の控え室まで、お付き合い致しましょう」
その言葉にカトリーヌは、事実を伝えるしか無いと思った。
どういう結果になろうと、礼を尽くしてくれた人に嘘は吐けない。
「あの……ラークン伯。私は『マリー直轄部会』の所属ではありません」
「ん? ではどちらへお運びしましょう?」
予想外の返答だったのだろう、ラークン伯は少し驚いた様に尋ねる。
カトリーヌは僅かに逡巡する。
しかし、意を決して告げた。
「その荷物は『衆光会』の控え室へ運ぶつもりでした」
従者達が動きを止めた。
カトリーヌに視線が集まる。
ラークン伯も、じっとカトリーヌを見つめる。
数秒後。
ラークン伯は顎の肉を弛ませながら微笑んだ。
「……左様ですか。いや、解りました。ではそちらまでお付き合いしましょう」
そして何事も無かったかの様に、歩き始める。
『管理局』を離れて通路を真っ直ぐ、参加者用の待合室が連なる区画へ。
皆と共に連れ立って歩く中、カトリーヌはどうしても我慢出来なくなった。
「ラークン伯、その……『歯車街』一帯の土地購入について、お願いがあるのです」
でっぷりと太った小さなフロックコート姿が立ち止まる。
振り返ったラークン伯は、穏やかに応じた。
「ええ、構いませんよ? 仰って下さい」
落ち着いた声音と表情だ。
若い貴族達と相対した時とは別人の様だった。
「私は『歯車街』に建てられた孤児院『ヤドリギ園』で、孤児達の世話を行っています。ラークン伯が推し進めている事業が実行されれば、『ヤドリギ園』で兄弟の様に暮らしていた子供達は皆、散り散りになってしまいます。また『歯車街』で暮らす人々も、行く当てを失ってしまいます。どうか……土地購入を考え直す事は出来ませんか?」
単刀直入な物言いだった。
失礼だったかも知れないと思う。
だけど――子供達の事を想うと。
血に塗れたエリーゼの姿を思い出すと。
青褪めたレオン先生の顔を思い出すと。
万にひとつでも可能性があるのなら。
話し合いで解決できるのなら。
そう思わずにはいられなかった。
カトリーヌは思い詰めた表情で、ラークン伯を見つめた。
ラークン伯はその視線を真っ直ぐに受け止め、静かに答えた。
「若きシスター、貴方にご納得頂けるかは解かり兼ねますが……お答えしましょう。まず最初に……今回の土地取引に際し、私どもラークン家と『コルベル運輸』は、何一つ違法な事柄に手を染めておりません。これは紛れも無い事実です。どうかご理解頂きたい」
「……」
「次に『ヤドリギ園』の問題ですが、『ガラリア・イーサ』に存在する多くの孤児達は皆、国が認定した国営孤児院に引き取られて教育を受け、社会へと巣立っております。そこに分け隔てや差別は無い筈。『ヤドリギ園』で暮らす孤児達の転院に、何かしら忌避感を覚えていらっしゃる様ですが、それは国営孤児院に対する信頼が薄いのではないでしょうか。そこで働く職員達も貴方と同じ様に、真面目に子供達を思いやり、取り組んでいる筈」
「……」
「そして、貧民街で生活する失業者達ですが……彼らをあのまま放置して、果たして幸せな未来は訪れるのでしょうか。ガラリアの財政を圧迫するばかり、彼らにとっても不幸な筈。私はあの貧民街を再開発し、巨大な物流拠点とするつもりです。そこには間違い無く新たな雇用も生まれましょう、貧民街で暮らす失業者達も、全員とは言えないが、仕事を得る事が出来るかも知れない。庶民生活の安定にも繋がる話です」
「……」
「確かに私は、ラークン家とゲヌキス領の利益に繋がる事業を行っている。しかしガラリア・イーサの発展にも常に貢献していると自負しております。今回の『貧民街再開発計画』は、国益にも叶う正しい事業だと、私は胸を張って訴える事が出来るのです」
「……」
正論だった。
ラークン伯の行おうとしている事は、間違っていない様に思える。
カトリーヌの理性が、納得を感じている。
だとするなら――と、カトリーヌは思う。
だとするなら、私の感じていた憤りは、自身の視野の狭さ故なのか。
社会という大きな枠組みを考慮したなら。
私の考えと『ヤドリギ園』、そして『歯車街』の在り方が誤りなのか。
唯一、割り切れない点があるとするなら。
『ヤドリギ園』で暮らす子供達は、兄弟の様に過ごしているという事実だ。
子供達に罪は無い、大人の都合であの子達が引き裂かれてしまうというのは。
だけど……それすら自身の欺瞞なのではと思えてしまう。
子供達との別離を恐れるが余り、何かを見誤っているのか。
そう、別離の時は必ず来るのだ。
その時期が早まるか遅くなるか――
――さすがにそう考えるのは、早計に過ぎるのかも知れない。
しかしラークン伯の言葉は確かに、正鵠を射ている様に思えた。
カトリーヌは口を噤んだまま俯き、煩悶する。
そんなカトリーヌにラークン伯は、笑顔を浮かべて見せた。
「――とはいえ、この様に貴方と出会えて良かった。なんと申しますか、私は他人を警戒する癖がついておりましてな? 今回の件でも……計画に反対する『ヤドリギ園』を、随分と不満に思っておりました。なぜ妨害するのかとね。しかし実際には貴方の様に、誠実な方が働いておられたのですな。まったくの偏見でした、反省しましょう」
自身の弛んだ顎を軽く撫でながら、続けた。
「計画の変更は出来兼ねますが、ラークン家から『グランマリー教団』への社会福祉に関する寄付は拡充しますよ、シスター」
「……」
どの様に応じて良いのか解らず、押し黙ってしまう。
ラークン伯の言葉に、濁りを感じない。
そしてラークン伯が『ヤドリギ園』に対して感じていた偏見は、私がラークン伯に感じていた偏見と同じものだった。
その事についてラークン伯は、自ら誤りを認め、詫びたのだ。
これ以上……何か言うべき事があるのかどうか。
カトリーヌは、顔を上げる。
ひとつだけ伝えて於くべき事を思い出した。
「――ラークン伯。私は先ほどラークン伯に危機を救って頂いたのにも関わらず、気が動転してしまい、自身の名前すらお伝えしておりませんでした……申し訳ございません。私はカトリーヌ・ルルス・フローと申します。『グランマリー教団』が助祭、『ヤドリギ園』にて奉仕活動を行っております。繰り返しとなりますが、救いの手を差し伸べて下さった事、心より感謝申し上げます……」
カトリーヌは胸元に右手を添え、その様に告げた。
ラークン伯は鷹揚な笑みを浮かべながら答える。
「当然の事をしたまでですよ、シスター・カトリーヌ」
その時、ラークン伯の傍らに立つ、黒いレザースーツに包まれた長身――ナヴゥルが声を発した。
「我が主よ、我もシスターに申し述べたい事がある……宜しいか?」
「うむ、構わんよ……ナヴゥル」
ラークン伯が頷いてみせると、ナヴゥルはカトリーヌの傍へと歩み寄る。
おもむろに片膝を着き、顔を上げると口を開いた。
「――シスター・カトリーヌ。貴方が闘技場の控え室に立ち入れるならば『コッペリア・エリーゼ』とも近しい筈、彼の者にお伝え頂きたい。ラークンが懐刀は未だ折れず、再びこの地にて相まみえん……と」
その身体は大きく、筋骨逞しく、強大な力を秘めていると一目で感じ取れた。
これが戦う為に錬成されたオートマータ――コッペリアなのだ。
しかしカトリーヌを見つめる赤い瞳は、驚くほどに理知的だった。
カトリーヌは瞳を見つめ返しながら、はい……と答えて頷く。
ナヴゥルは口許に笑みを浮かべると立ち上がった。
「それでは参ろうか、我が主よ」
「ああ……それではシスター・カトリーヌ。参りましょう」
穏やかな口調で応じたラークン伯は、ゆっくりと歩き始めた。
・カトリーヌ=グランマリー教のシスター。レオンのアシスタントを務める。
・ラークン伯=ヤドリギ園一帯の土地買い上げを狙う実業家であり大貴族。
・ナヴゥル=ラークン伯所有の非常に強力な戦闘用オートマータ。




