第一三七話 躊躇
・前回までのあらすじ
過去の苦い経験と故郷に対する罪の意識から『ジブロール自治区解放運動』に参加し、『コッペリア・ベルベット』を錬成したものの、弟であるレオンに敗北を喫したベネックス所長。苦しむベネックス所長に対してマルセルは、彼女の秘めたる真の願いに言及し、その上で自分と共に歩んで欲しいと提案するのだった。
割れんばかりの大歓声を背に受けながら、エリーゼは円形闘技場を後にする。
歩み去るその先は、しかし入場門では無い。
エリーゼはゆっくりと待機スペースへ近づく。
やがて錆びた鉄柵に手を掛けて立つ、レオンの前で立ち止まる。
「お帰り、エリーゼ」
掠れた声でレオンは言った。
小さく微笑むその顔には、憔悴の色が滲んでいる。
身に纏うシャツは汗に塗れており、青白い頬がこけていた。
右の義肢に内蔵された『知覚共鳴処理回路』の影響だ。
エリーゼの『神経網』に掛かる負荷を、レオンは自身の脳と神経にて処理していた。
その反動が、レオンの肉体を蝕んでいたのだ。
「――ただいま戻りました、ご主人様」
レオンと向き合うエリーゼは、血塗れだった。
小さな身体を包むタイトな純白のドレスは、濃縮エーテルの紅色に濁っていた。
全身至る所に傷を負っている、特に前腕の切創が酷い。
特殊ワイヤーを絡ませた腕で、『ベルベット』の斬撃を受け流した為だ。
更には腕以外にも、腿や首筋、頬に掛けて、焼け爛れた様な跡が広がっている。
火傷にも似たその症状に、レオンは自身の身体に生じた異変の理由を悟った。
同時に、エリーゼが体感していたであろう苦痛を想い、表情を曇らせる。
――が、すぐに冷静な錬成技師の顔で、口を開いた。
「自力で歩けそうか? 可能なら控え室へ移動しよう、すぐに応急処置を行う」
「はい、ご主人様。問題ございません」
エリーゼは静かに応じると、レオンの後方へ視線を移した。
仄暗い待機スペースの奥。
濃紺の修道服に身を包んだカトリーヌが、ひっそりと立ち尽くしていた。
胸元に手を当て、大きな瞳に涙を湛えたまま、エリーゼを見つめている。
不安と恐れ、そして悲しみが入り混じった、筆舌尽くし難い表情だ。
それでもカトリーヌは、震える声で小さく告げた。
「お帰りなさい、エリーゼ……」
「……」
その言葉を聞いたエリーゼは、視線から逃れる様に目を伏せた。
そのまま鉄柵の門扉を通り、カトリーヌの傍まで近づくと足を止める。
「申し訳ございません、シスター・カトリーヌ。また、約束を守れませんでした――」
抑揚の無い、乾いた声だった。
紅い瞳に灰色の石床を映したまま、エリーゼは続けた。
「――『ヤドリギ園』の子供達にも、シスター・カトリーヌにも、決して『業』を背負わせぬと、その様に誓っておりました。私の裡に在る想いも、その様に望んでおりました。ですが想いを叶えるには、足りぬものがございました。私は……」
「構わないよ」
エリーゼの言葉に、カトリーヌの声が重なった。
一歩、二歩、エリーゼに近づき、カトリーヌは腕を伸ばす。
濃縮エーテルに塗れた小さな背中に腕を回し、そっと抱き寄せた。
自身が纏う修道服に、白いウィンプルに、紅の色が染み込もうと一切構わなかった。
「言ったでしょ? この仕合は私達の仕合だって。エリーゼだけが背負う仕合じゃ無い、私も一緒に戦っているんだ」
そう語る言葉は震えていた。
どうしようも無く震えていた。
でも、言い澱む事は無かった。
「この仕合でエリーゼが『業』を背負うというのなら、私も一緒に背負うよ。だけど子供達には背負わせない。私が、私の責任で子供達の分も背負う。もし、それで失われる物があるというのなら、それは私が一生抱える」
カトリーヌの腕の中、エリーゼは微かに震え、そっと息を吐く。
小さく応じた。
「――ありがとうございます」
カトリーヌの背後ではベンチに座るドロテアが、俯いたまま両手で顔を覆っている。
灰色のワンピースに包まれた肩を震わせ、声も無く泣いている。
黒い布が巻かれた目許から、指の隙間から、涙の雫が手首へと伝っていた。
◆ ◇ ◆ ◇
レオン達と共に控え室へ戻ったエリーゼは、紅く引き攣れたドレスを脱ぎ去る。
傷と濃縮エーテルに塗れた身体をシャワーで洗浄し、滅菌された布で拭う。
そのまま簡易ベッドへ腰を下ろし、頸椎に埋め込まれたコネクタを解放した。
レオンは『小型差分解析機』と、露出したエリーゼのコネクタをケーブルで接続、音響効果による麻酔処理を開始、その間にカトリーヌは、濃縮エーテルとリンゲル液の輸液準備を行い、更に爛れた皮膚をカバーする為の、滅菌ガーゼと圧迫止血用の包帯も用意する。
レオンはフェノール希釈溶液で両手を消毒すると、上半身の切創を縫合し始める。
ほぼ言葉を交わす事無く、しかし澱み無く応急処置が行われる。
その時、ドアをノックする音が響いた。
「――ヨハンだ、入らせて貰うよ」
声の主は『シュミット商会』の代表・ヨハンだった。
入室したヨハンはジャケットを脱ぐと、フェノール希釈溶液で手を消毒し、応急処置を行っているレオンに歩み寄った。
「ダミアン卿は情報収集の為、次の仕合も確認するそうだ」
そう言いながらヨハンは、憔悴したレオンの横顔を見遣る。
僅かに表情を曇らせ、声を掛けた。
「……大丈夫か?」
「ええ、僕なら問題ありません」
「そうか……彼女の状態はどうだ?」
勝利を讃える言葉は無い。
『グランギニョール』に参加するレオン達の目的が、『ヤドリギ園』の抱えた莫大な負債の返済である事を聞かされている為だ。
レオンはエリーゼの皮膚を縫合しながら答える。
「裂傷と切創、熱傷と思しき痕も皮膚に広がっています、良い状態だとは言えません」
「熱傷?」
「酸の様な……ある種の化学熱傷です。仕合中に受けた攻撃が原因でしょう。既に反応は消えているので、拡大する恐れはありませんが」
「そうか、何処か様子がおかしいとは思っていた――」
ヨハンは険しい表情で頷くと、簡易ベッドに視線を落す。
うつ伏せに身を横たえたエリーゼの、傷の程度を観察しながら呟いた。
「仕合間隔が問題だな……。通常なら時間を掛けて再錬成と調整が行える……が、今回はトーナメント形式だ、次戦開催はあろうことか一週間後。皮膚の受肉置換は間に合うかも知れないが、神経や筋肉にまで達するダメージは、簡単に回復しないだろう。主催が『錬成機関院』の特別顧問を務めるエリク第二皇子で無ければ、こんな酷い日程でのトーナメント戦など、とても認められはしなかっただろうな」
物憂げな様子のヨハンに、レオンは手を止める事無く応じる。
「しかし今回のイベント、社交界での評判は上々だと聞きます。それが正しいかどうかはともかく、莫大な金銭が動いているとか――」
「ベットされる金額が増えればオッズは安定するか……。負債返済の資金が必要な君たちにとって、唯一のメリットではある、しかし状況が厳しいのは事実だ」
レオンの発言に理解を示しつつも、ヨハンの表情は冴えない。
まだ気掛かりな事がある為だ。
「……エリーゼ君、質問しても良いかな?」
「はい、モルティエ様」
透き通った声が応じた。
輸液用のゴム管と、コネクタに繋がるケーブルが、何本も連なる簡易ベッドの上。
エリーゼは枕代わりのタオルに頭を乗せ、白い背中を晒し、横たわっている。
仄白い美貌――その頬には、爛れた様な火傷の痕が残っていた。
「今日の仕合、エリーゼ君の動きはすこぶる悪く思えた。仕合中に何か特殊な攻撃を受けた可能性を考慮しても、開始直後から決して良い動きでは無かった。理由が知りたい」
ヨハンの質問に対しエリーゼは、暫しの沈黙を経て答えた。
「……いいえ、その様な事は無かったかと」
「いや、そんな筈は無い」
納得しかねるとばかりにヨハンは首を振り、続けた。
「こう言ってはなんだが……僕が錬成した『グレナディ』と仕合った時より、明らかに動きが鈍かった。『グレナディ』の主は僕だ、あの仕合を見ていたが故に見誤る事は無い。動きが鈍くなったその理由は、レオン君の『知覚共鳴処理回路』にあるのか? 彼に掛かる負荷が気になり、自由に動く事が出来なかったという事か?」
「……いいえ、その様な事はございません」
エリーゼは否定する。
しかしヨハンは訝しげに眉根を寄せると、食い下がる。
「では、何か他に理由でもあるのかね? 君の不調は恐らく、レオン君も感じていた筈だ。何らかの対策を講じねば、取り返しの着かない事になる――」
――が、その時。
ヨハンの許へ、ワンピース姿のドロテアが歩み寄った。
先ほどまで控え室の入口に程近いソファで、ひとり待機していたのだ。
ドロテアは両手を差し伸べながら近づくと、そのままヨハンの腕に縋る。
目許を黒い布で覆い隠している為、表情は良く解らない。
しかしヨハンは、その黒い布と頬が涙で濡れている事に気づいた。
「どうした? ドロテア」
身を屈めたヨハンの耳元に、ドロテアは唇を近づけ耳打ちする。
なんと囁いたのか。
ヨハンは驚いた様にエリーゼを見遣る。
そして言った。
「――エリーゼ君、君はもう、戦いたく無いと考えているのか……?」
・エリーゼ=レオンが管理するオートマータ。高性能だが戦闘用の身体では無い。
・レオン=孤児院「ヤドリギ園」で働く練成技師。エリーゼの後見人。
・カトリーヌ=グランマリー教のシスター。レオンのアシスタントを務める。
・ヨハン=シュミット商会の代表。マルセルの再来と呼ばれる程、腕が立つ。
・ドロテア=ヨハンが錬成したオートマータ。エリーゼのサポートを行う。
・シャルル=貴族でありレオンの旧友。篤志家として知られている。




