第一三六話 誘惑
・前回までのあらすじ
『ジブロール自治区』で発生した内戦の原因が、マルセルと母親にあった事を知ったイザベラは激しく取り乱してしまう。そして『ベネックス』の家名に賭け『ジブロール自治区』への贖罪を決意する。
巨大な円形闘技場内に響き渡るのは、管弦楽団による重厚な演奏だった。
澄み渡るソプラノヴォイスの主旋律に導かれて溢れ出す、貴族達の混声合唱だった。
荘厳さと醜悪さを高い次元で掛け合わせた独特の熱狂が、辺り一面に満ちている。
『コッペリア・エリーゼ』と『コッペリア・ベルベット』。
二人が紡ぎ上げた仕合という名の惨劇に触れ、誰も彼もが興奮に酔い痴れていた。
◆ ◇ ◆ ◇
「――私は、マルセル君とママが犯した罪を、清算しなきゃならなかった。『ジブロール自治区』にて出会った有志達と共に『故郷』を取り戻し、グランマリーの『神性』を否定する為に……その足掛かりとして私達の想いを託し、山河の精霊たる『ベルベット』を錬成したんだ、『錬金術師』として『錬成技師』として、私は勝負を挑んだ……」
観覧席最上段、個室状に区切られたバルコニー席。
ベネックス所長は闘技場を見下ろし、欄干を飾る臙脂色のカーテンを握り締め、呟いた。
「負ける筈無かった……何も知ろうとせず、恵まれた環境で安閑と育ち、その挙句に生ぬるい妄言を吐いて『義務』を放棄したレオンなんかに……負ける筈は無かったんだ……」
端正な美貌を苛立ちに歪め、額に汗を滲ませながら歯を食いしばり、肩を震わせる。
視線の先では、地に伏し動かぬベルベットを介添えの男達が、運び出そうとしている。
「残念だがキミの『義務』感は、あらぬ方向へと向かってしまったんだよ。だから辿り着けたかも知れない場所へ、キミは辿り着かなかった。キミが『有志達』と呼んだ連中なんて、キミとは釣り合わない俗物だ、キミを唆しては甘い汁を吸おうとする、蝿のような存在だ」
ベネックス所長の背後に立つマルセルが、穏やかな口調で告げた。
その声に反応し、ベネックス所長は肩越しにマルセルを見遣る。
眼鏡越しに見える尖った眼差しは、噛みつかんばかりだ。
それでもマルセルの微笑みは消えない。
「キミには『才能』がある。過去に何度も伝えた通り、それは間違いの無い事実だ。そう――キミには『錬成技師』として生きるに足る才能がある、だけどね……」
黄金に煌めく義肢を、マルセルは自身の胸元へ添える。
「ボクたち『錬成技師』は、振り返らないんだ」
「……は?」
ベネックス所長は掠れた声で聞き返す。
マルセルは義肢を軽く掲げ、顔の前に翳す。
そして指の隙間から、ベネックス所長を見遣る。
「過去を振り返ったりしない、絶対に。常に前へ、前へ、先へと進み続ける。『錬成技師』とはそういう存在だ、ボクもそうだ、それが『錬成技師』だ」
「――確かにそうだろうさ。キミのせいで『ジブロール自治区』は内戦状態に陥った――にも拘らずキミは平然としていた、過去を振り返るどころか気にも留めない。そんな事は普通じゃ無い、そんな言い草も欺瞞だっ……」
吐き捨てる様にベネックス所長は言う。
マルセルは軽く首を振り、口を開く。
「違うね、事実であり真実さ。過去を振り返って何になる? たいだい『欺瞞』と言うのならイザベラ、キミこそ自分を偽っているんじゃ無いのかな?」
「なに……?」
ベネックス所長の瞳が、僅かに揺らいだ。
黄金色の人差し指が、揺れる瞳を指し示す。
「何度でも言おう、キミは才能に溢れた『錬金術師』にして『錬成技師』だ。ボクだけじゃなく、今じゃ誰もがそれを認めている――にも関わらずキミは過去に囚われている。『錬金術師』は過去に囚われたりしないんだ。キミは間違っている、間違っているから自分を偽る、自分を偽っているから物事を見誤り、あんな連中に関わってしまう、だから目的を達する事が出来ない――」
「何が言いたい……?」
「キミは、己が胸の裡に抱えた苦しみや哀しみを偽っているんだ。その苦しみや哀しみを、真っ直ぐに見据える事が怖いから、『ジブロール自治区』解放運動に意識と感情を転嫁する事で、どうにか消化しようとしていたんだよ」
「……っ!」
「奪われた『故郷』を取り戻し、グランマリーの『神性』を否定する――そんな事は全て『後付け』の理由だ。事実はそうじゃ無いだろう?」
「何を言っているっ! 知った風な事をっ……」
ベネックス所長は怒りの形相も露わに否定した。
しかしマルセルは気にする事無く続ける。
「そもそもキミの理屈で言えば、キミが苦しむ最大の原因はボクだ。ボクがゾエに『エーテル』埋蔵の調査を依頼し、その結果を『錬成機関院』に伝えたのが、事の発端だ。なら、まずはこのボクを心の底から恨む筈だ、それが筋だ」
「黙れ……!」
否定を繰り返すベネックス所長の声が震える。
黄金の義肢は、再びマルセルの胸元へ添えられた。
「とはいえボク個人への復讐だなんて、そんな生産性の無い事を、キミは優秀さ故に選択出来ない。キミの『理性』と『知性』が、そんな無意味な事を許さない。だからこそ……代替え行為として『ジブロール自治区』の解放運動なんてものに参加してしまった。自分の知性と理性を納得させ、世の中の道理に照らして納得できる、そんな行動に依ってしまった」
「黙れって言っているだろうっ……!」
「更に『ジブロール自治区』の解放運動に参加する事で、『錬成技師』として活動し続けるボクから、何らかの歩み寄り、譲歩を引き出したかった――そうだろう? だからキミは、憎しみの発端にいる筈のボクを、完全に否定出来ない。ボクが持ち掛ける取り引きに、何度も二つ返事で応じてしまう……」
「違うっ!!」
「……エリーゼとの仕合に勝った際の要求も、ボクとエリク皇子の『計画』に参加させろだなんて事になる。キミの言葉を借りるなら、ボクはキミの母親を騙して『ジブロール自治区』を売り払った男だぞ? 普通はそんな男と取り引きなんかしない、ましてや組もうだなんて思わないんだよ。だいたいキミの『取り巻き』連中が、ボクを認めると思うかい?」
「違うっ!! 違う違うっ!!」
激高したベネックス所長は振り返り、傍らの丸テーブルを拳で叩く。
卓上のワイングラスが倒れ、床に敷かれた絨毯の上へ転がり落ちる。
「この国に蔓延る盲目的な『グランマリー』信仰を否定する為だっ……! それが『ジブロール自治区』解放に繋がるんだっ……! 『スロバント』だって『グランマリー』信仰の犠牲になった……! 何より、私の母が犯した過ちを清算する為だっ……! その為なら私は、悪魔にだって魂を売る覚悟だった……! だからっ、マルセル君を利用して、私は成すべき事をっ……」
一歩踏み出した足が、繊細なワイングラスを粉々に踏み潰す。
汗の滲む美貌は、苦しげに歪んでいる。
更に言葉を紡ごうとするものの、激し過ぎる怒りの為か、言葉が出なくなる。
――が、幾度か呼吸を繰り返すと、ベネックス所長は唇の端を吊り上げて言った。
「そうさ……マルセル君、キミは、エリク第二皇子の『王位継承』に助力しているんだろう……? 事実上の継承者・『第一皇子』を差しおいてだ。現皇帝が肩入れしている『枢機機関院』を弱体化させ、『錬成機関院』に尽力するエリク皇子の影響力を、更に増そうと考えているんだ……! だから強力な『オートマータ』を錬成すべく手を尽くし、強引に結果を出そうとしているっ……! そうだろう!? だったら、私もそれに力を貸すっ……その代わり『ジブロール自治区』の解放にも力を貸せっ……」
絞り出すような声音だった。
その表情には、切り札を切ったギャンブラーの様に張り詰めた笑みが浮かんでいた。
しかし――マルセルはゆっくりと首を振る。
「……イザベラ。キミはそんなレベルの事を想像していたのかい? 或いはそういう噂が社交界で流れているのかも知れないが……いや、確かキミは特殊錬成素材の消費量から、ボクの行動を推察しようとしていたね? しかしその回答はノン――間違いだ。ボクは、そんな程度の事では満足出来ない、それだけじゃ全く足りないんだ」
「な……」
虚を突かれたのか、ベネックス所長は硬直する。
マルセルを見つめる瞳が揺れる。
確信があっての発言だったのだろう。
しかし完全に否定され、混乱しているのだ。
そんなベネックス所長に、マルセルは優しく微笑み掛ける。
輝く左の義肢を、そっと差し出した。
「ボクはもっと『先』を見据えている。『錬成技師』として『錬成科学』の絶対的な発展の為に、全身全霊を以て取り組んでいる。その為には、ガラリアの次期皇帝にエリク第二皇子を据える……その程度の事では駄目なんだ、到達しない。もっと前へ、もっともっと前へ、『先』の『先』を目指している、だから――」
マルセルは囁いた。
「――ボクの手を取ってくれ、イザベラ」
「えっ……?」
モノクルの下では、灰色の瞳が煌めいている。
その瞳には、ベネックス所長が映り込んでいる。
受け入れがたい現実と敗北感、信じ難いマルセルの言葉に、美貌の主が揺らいでいる。
今にも泣き出しそうな表情が、瞳の奥に映り込んでいる。
「良いんだよ……賭けの結果なんて些細な事だ、キミも本当は、そのつもりだったのだろう? 解っているよ。だから敗北した場合でも、ボクとの繋がりが途切れぬ様、『ベルベット』に組み込まれた新機軸を全て開示すると言ったんだ。そうさ、その提案を聞かされてボクは、とても嬉しかったよ……イザベラ」
「……」
ベネックス所長は、微笑むマルセルを当惑した面持ちで見つめる。
やがて、自身に向けて差し出された金色の義肢へと視線を落した。
「ボクは可能な限り、キミと真摯に向き合いたいと考えていた――ずっとだ。覚えているかい? レオンの姉がキミである事を伏せる様にと、キミはボクに訴えただろう? ボクは、レオンの『錬成技師』としての将来を思えば、どんな手を使ってでも、キミの母親――偉大な錬金術師『ベネックス』の名を、彼に冠するべきだと考えていた。でも考え直したんだ、キミの提案を受け入れた」
「な……なぜ……?」
「イザベラ、キミは――ボクには見えぬモノが見えている。ボクの気づかぬ事に気づく。キミはそういう素敵な女の子なんだ。恐らくあの時、ボクがキミの意見を考慮せず、自分の考えに固執し、レオンに『ベネックス』の名も背負わせていたなら。恐らくレオンは重圧に耐え切れず『錬成技師』である事を完全に捨てていたかも知れない。だけど、そうはならなかった。アイツは今、『錬成技師』として、『ピグマリオン』として、『グランギニョール』に参加している……キミのおかげだ、ありがとうイザベラ」
「マル……セル……」
マルセルは頷いて見せる。
ベネックス所長は、おずおずと手を伸ばす。
差し伸べられた、黄金の義肢に。
「共に行こう。今のボクには、キミが必要なんだ」
「あ……」
マルセルの左義肢が、白い手を、そっと掴んだ。
同時に、引き寄せられる。
「ボクと一緒に『先』を目指そう……」
一歩、二歩、前へとよろめいて。
イザベラは、マルセルの腕の中にいた。
※来週の更新は確定申告の作業がある為、お休みとなります;
・マルセル=達士、天才と呼ばれる錬成技師。レオンの実父。
・ベネックス所長=レオンの古い知人で実の姉。有能な練成技師。




