第一三四話 疑惑
・前回までのあらすじ
内戦の勃発と終結、そして母親との別離。傷心のイザベラはそれでも母の墓前にて謝罪すべく帰郷する。帰郷先では景観の変化に加え、馴染みの使用人達がすべていなくなっている事に複雑な想いを抱き、更にマルセルの出迎えにも心を乱されてしまう。そんなイザベラは、亡くなった母親の息子であり自分の弟である赤ん坊・レオンと対面する。
可愛いと思った。
小さな顔、小さな耳、小さな鼻、小さな唇。
綿毛の様にフワフワとしたダークブロンドの髪。
乳母の胸に抱かれて眠る弟――レオンは、天使の様だった。
そっと指を伸ばし、紅色の丸い頬に触れる。
シルクよりも繊細で柔らかな頬の感触に、イザベラは思わず微笑んでしまう。
閉じた目許が、口許が、耳の形が、ママに似ていると思う。
ママの子供。
ママが残した男の子。
胸の奥から寂しさが込み上げて来るのを感じた。
「こんなに可愛い子を……残していっちゃうなんて……ママ……」
呟いた言葉は掠れて途切れる、涙が溢れて止まらない。
傍らに立つ使用人長は懐からハンカチを取り出すと、イザベラに差し出した。
◆ ◇ ◆ ◇
「落ち着いたかい? イザベラ」
「ええ……もう大丈夫」
客間へ戻ったマルセルとイザベラは、テーブルを挟んで向かい合う様に座っていた。
二人の前にはそれぞれ、熱いお茶の注がれたカップが置かれている。
マルセルは落ち着いた声で告げた。
「辛い話だが、伝えておかなければならない事を伝えておく。キミの母親……ゾエの葬儀は、ジブロールの自治法に則り執り行われた。指定の墓所に埋葬も終えている、駆動車で三〇分ほどのところだ」
「ええ……」
動かしようの無い現実が語られる。
心が冷える、しかし知っておかねばならない事だ。
「そしてゾエが残した財産だが、最終的に金融資産も固定資産も、キミが相続する事になる。ボクには相続権が無いからね」
「えっ……? どうして?」
思わずイザベラは聞き返す。
母親の夫であるマルセルに、相続権が無いとはどういう事か。
その疑問にマルセルは答える。
「婚姻に際し『神聖帝国ガラリア』では――特に爵位を持つ者は、必ず『グランマリー』に誓いを立てる必要がある。『枢機機関院』の正式な許可と共にね。だけど……以前話した通り、ゾエは自身が『錬金術師』であるとして『グランマリー』に誓いを立てなかった、結果的に『枢機機関院』の許可を得る事も無かった。つまり、ボクとゾエは公的に認められていない、事実婚の状態だったんだ」
「……」
イザベラは表情を曇らせる。
公的に認められた関係では無いから――では無い。
自身の父親を思い出したからだ。
イザベラの父親は、母親・ゾエのパトロンであり『スロバント』の領主だった。
彼は多額の援助を以て、母のサポートを行っていた。
だが、イザベラは『スロバント』領主の顔すら覚えていないのだ。
彼は父親らしい事を何一つしなかった。
そういった事を思い出した為だ。
更にもうひとつ、気になる事があった。
「……それじゃあレオンは、誰の子供という事になるの? ママの私生児?」
固い声でイザベラは確認した。
『グランマリー教』が国教である『神聖帝国ガラリア』の――特に貴族社会では、親が定かならぬ非嫡出子は、安楽な人生を歩む事が難しい。
未だ世情に疎いところのあるイザベラでも、それくらいの事は理解出来る。
思わず発した質問には、隠しようの無い棘が含まれていた。
しかしマルセルは、気にした風も無く答える。
「いや、レオンはボクの息子だ。そして書類上の関係ではあるが、レオンの母親は、この屋敷の『使用人長』という事になっている」
「……え?」
イザベラは呆気に取られた。
それはつまり、年老いた使用人長とマルセルが婚姻関係にあるという事か。
事実婚であるママとの間に子を儲け、その上で使用人長と結婚したという。
普通に考えれば歪な話だ、混乱しそうになる。
その混乱を払拭する様に、マルセルは淡々とした口調で告げた。
「レオンが産まれる前、ゾエが彼女に打診した。婚姻が公的に認められず、体調不安も重なり、焦りを覚えていたのかも知れない。それでも彼女――使用人長はゾエの信頼も篤く、この屋敷の事情にも精通している。彼女は夫を早くに亡くした寡婦で、子供もおらず、身寄りも無い。何の打算も無く、善意でレオンとゾエの為に了承してくれた……」
確かに使用人長は、信頼に足る老婦人だ。
母親のゾエと共に、屋敷の全てを切り盛りしていた。
年齢は六〇歳を少し超えたくらいか。
レオンをマルセルの実子として育てるには、そうするしか無かったのかも知れない。
「ボクはゾエと二人で生きるつもりだったから――使用人長が書類上の婚姻相手でも、何ら問題を感じなかった。この件について屋敷の者は皆、理解を示してくれている。それに、こういう特殊な形式の婚姻は、貴族社会では間々ある事だ……血筋と世間体を維持する為の方策としてね」
「……」
貴族社会に於ける常識の是非は問いようも無い。
気持ち的には釈然としない物を感じる。
しかし使用人長の、実直かつ誠実な人柄は良く知っている。
母の為に良く尽くしてくれていた。
レオンの将来を思うなら、これは正しい選択なのかも知れない。
黙考するイザベラに、マルセルはまた声を掛ける。
「ただ……先の話を踏まえた上で、ひとつボクの要望を聞いて貰えないだろうか」
「要望……?」
財産分与に関する事柄だろうか――一瞬、そう考える。
レオンを二人の子供と認める事で、法的に何かが変わるという事か。
小さく復唱しつつ思索を巡らすイザベラに、マルセルは言う。
「レオンの事だ、彼はまだ幼い。出来ればこの恵まれた環境、この屋敷で、物心着くまで育って欲しいと思う。屋敷の使用人達も皆、レオンの事を想ってくれている。勿論、使用人長もね……とはいえ、この屋敷はゾエより権利を譲り受けたイザベラの所有物だ。どうだろう、協力を頼めないだろうか」
ママの子供であるレオンを想えば、妥当な要望だ。
彼は幸せに生きるべきだろう。
イザベラは頷く。
「うん……ママもそれを望むと思うから」
「ありがとう」
マルセルは微笑み、謝意を口にする。
更に続けた。
「それと……学習院を卒業したらイザベラ、キミはどうするつもりかな? ボクはレオンの保護者、父親として、可能な限り屋敷に留まろうと思う。ゾエと共に立ち上げた簡易の『錬成工房』もあるしね。どうだろう……キミはこの屋敷の正当な所有者だ、そしてレオンの義理の姉でもある。もし良ければキミも……」
イザベラは首を振った。
「ううん。私は学習院を卒業したら、首都・イーサで研究職に就くつもりでいる。私にはママから引き継いだ金融資産があるんでしょう? だったら何も困る事なんて無い……それに」
「それに?」
先を促す様に、マルセルは尋ねる。
イザベラは寂しげに微笑み、答える。
「マルセルはママと結婚したけれど、私はマルセルを、どんな風に思えば良いのか解らない。私はママの娘だけれど、マルセルと私には……正式には、どうという繋がりも無いでしょう? だから、ゴメンね」
その言葉に、マルセルは苦笑した。
「どういう繋がりも無い……か。それは何とも寂しいな。少なくともボクはキミの事を、特別な存在だと思っているよ?」
「……揶揄わないで」
イザベラは短く否定する。
次いで俯き視線を逸らす。
その頬が僅かに赤みを帯びたのは、気のせいだろうか。
「――だけど解った。でも、キミの事は支援させて貰うよ。『錬金術師』として『錬成技師』を目指すキミの『才能』は、ゾエに勝るとも劣らない本物だ、イザベラ」
視線を逸らしたまま、イザベラは謝意を口にした。
「……ありがとう、マルセル」
◆ ◇ ◆ ◇
翌日、イザベラは母親が眠る墓所へ向かった。
移動に際して帯同を許したのは、白髪交じりの老運転手のみだった。
他の者が付き添う事は固辞した。
運転手にも、墓所の入口で待機して貰う。
イザベラは一人で、墓前に花束を供えた。
『グランマリー』の祈りを捧げる事は無い。
母親のゾエは『錬金術師』であり、イザベラ自身も『錬金術師』である為だ。
『グランマリー』には祈らない。
代わりに、イザベラの口から零れた言葉は謝罪だった。
「ママ……心配掛けてごめんなさい、会いに来なくて、ごめんなさい……」
もう届く事の無い言葉を、イザベラは何度も繰り返した。
何度も何度も繰り返しながら、涙を流していた。
◆ ◇ ◆ ◇
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「大丈夫よ、気にしないで。ありがとう」
墓所からの帰り、運転手は目許を赤く腫らしたイザベラを気遣い、声を掛ける。
イザベラは笑みを浮かべて答える。
運転手はハンドルを握ったまま、ミラー越しにイザベラを見遣り頷く。
しばしの沈黙を経て、運転手は改めて口を開いた。
「――お嬢様は今後も、お屋敷を離れて生活なさるのですか?」
彼の方から質問を投げ掛けて来るのは珍しい。
イザベラは答えた。
「ええ、学習院で学びたい事もあるし、卒業後はそのまま、首都で研究職に就こうと思うの。ママも……ううん、お母様もきっと認めて下さる筈だし」
「そうですか、寂しくなりますが……それが良いのかも知れません」
こう答える運転手の声は、諦念を帯びていた。
その響きに、イザベラは微かな違和感を覚える。
思わず問い質してしまう。
「どうかしたの? 何かあった?」
「いえ、その……」
運転手はバックミラーに映るイザベラから視線を逸らし、言葉を濁す。
が、改めて低い声で応じた。
「マルセル様の事です……私は彼の立ち居振る舞いに、何の問題も感じておりません。きっと屋敷で働く使用人達も同じでしょう。ですが……良くない噂を耳にしてしまいまして……」
「……良くない噂?」
「あくまで噂ですから……」
「ううん、どんな噂か教えて?」
恐縮する運転手に、イザベラはなるべく軽い口調で質問する。
運転手は罰が悪そうに応じた。
「――ご存じの通り、私は『ベネックス邸』の専属ドライバーではございません。保養地として知られる『ジブロール自治区』にて、爵位を持つ方々にその都度ご用命頂き、生活しております。ですがゾエ様には格別のご愛顧を賜り、半ば専任ドライバーの様に取り立てて頂いておりました……」
皺深い顔を前へ向けたまま、運転手は語る。
「しかし内戦が始まる少し前辺りから、お声が掛からなくなり、私は以前の様に複数の方から――主に『ジブロール自治区』で過ごされている貴族の方々から、ご用命を受ける様になったのです。そんな折、妙な噂を耳にしてしまいまして……」
「……」
運転手の言葉に黙って耳を傾けるイザベラ。
車窓の景色も淀み無く流れ続ける。
「……『ジブロール自治区』内に土地を所有する『ある貴族』が、知り合いの『錬成技師』に地質調査を依頼、技師は該当する土地から『エーテル』産出する可能性を『錬成機関院』に報告したのだと」
「……」
「お嬢様ならご存じでしょう、国内で産出される『エーテル』は全て『神聖帝国ガラリア』の『錬成機関院』と『枢機機関院』が共同で管理する事になっていると。古より『ジブロール自治区』は貴族の保養地として知られた土地です。これまではいたずらに資源採掘を行わぬよう、土地を有する貴族間で配慮し合い、自然保護に力を注いで参ったのです。ですが……」
バックミラーに映る運転手の表情は暗い。
言葉に迷っているのだろう、時折ちらりとミラー越しにイザベラの表情を確認する。
「……ですが『エーテル』産出の可能性を、その技師が報告した事で、ガラリアより正式に調査隊が派遣されて来たのです。『エーテル』の管理は国家事業であり、土地を有する貴族と言えど協力すべき事柄であると。産出する資源が『エーテル』である以上、一定の利権は得られても、独占は認められないのだと……」
「……」
「帝国主導の元に行われる『エーテル』採掘事業を止める事など、半ば不可能です。結局は、その『錬成技師』と『貴族』の行動を発端に、『ジブロール自治区』に土地を有する他の貴族達も利権を求めんが為、帝国の指導を待たず、こぞって自身が所有する土地で『エーテル』の試掘調査を開始したのです」
「……」
「そんな貴族達の行動に反発した住民達は反対運動を開始、また利権の絡まぬ一部の貴族達も地域住民の運動に加担、更には反帝国主義の団体まで押し掛けた結果、『ジブロール自治区』は内戦に等しい状況に陥ってしまい……」
「――その『ある貴族』と『錬成技師』が……という噂なの?」
イザベラは最も気になる点について質問する。
運転手はしばし口を噤み、苦しげに眉根を寄せるものの、やがて答えた。
「……『ジブロール自治区』に訪れていた帝国議会関係者同士の会話を、耳にしてしまったのです。没落していた錬成技師の家系『マルブランシュ』が、今回の『エーテル』産出に尽力した事で、息を吹き返したのだと。そして『錬金術』とは未だ得る所の多い技術だと、その様な話をしておりました」
「……」
イザベラは運転手が告げた言葉の意味を、胸の裡で反芻する。
この『ジブロール自治区』で『錬金術』を修めた者など、母と私以外にはいない。
そして『マルブランシュ』とは、マルセルの家名だ。
「本来であればこの様な話は、例えお嬢様が相手だとしても、お伝えすべきでは無いのでしょう……ですが私の愛した『ジブロール自治区』は半ば失われ、ご愛顧頂いたゾエ様も……私も、もうこの職を辞する頃合いなのかも知れません……」
低く呟く運転手の言葉を聞きながら、イザベラは唇を噛んだ。
・イザベラ=偉大な錬金術師の娘。後のベネックス所長。
・ゾエ=イザベラの母親。偉大な錬金術師。
・使用人長=ゾエとイザベラの元で働いていた老使用人。
・運転手=ゾエに雇われていた運転手。専属では無いが懇意にしていた。
・マルセル=錬成技師の青年。後の天才錬成技師。




