第一三三話 弟御
・前回までのあらすじ
マルセルと母親との再婚を聞かされ、心苦しさを感じるイザベラ。表向きは二人を祝福するものの、内心穏やかではいられず、二人と距離を置こうとしてしまう。しかし折り悪く、二人が暮らす『ジブロール自治区』にて内戦が勃発、移動の制限がなされ会う事が出来なくなる。自身の狭量さを悟ったイザベラは二人に手紙を送るものの、その返答には母親の体調不良と妊娠が記載されていた。
内戦状態に陥った『ジブロール自治区』への移動制限が行われ、数ヶ月が過ぎた。
市街地や住宅街がどんな様子なのか、それを正確に伝えるニュースも無かった。
治安維持軍による情報統制が成されている為だ。
突如として発生した内戦に、学習院の生徒たちも関心を寄せていた。
風光明媚な『ジブロール自治区』は、数多くの貴族達が利用する保養地として有名だ、それだけに土地の権利問題が複雑に絡み、治安維持軍の活動が阻害されているのではないか――その様な噂が、学習院内ではまことしやかに囁かれた。
いずれにしてもイザベラに出来る事は無かった。
すべき事も見えて来ない。
どうしようも無く、心が鈍く重い。
胸の裡に抱えた、わだかまりのせいかも知れない。
マルセルの子供を母親が身籠ったという事実に感じた、仄暗いわだかまりだ。
もちろん母親の事は大切だ、心から心配している。
マルセルの事だって、何も伝えなかった自分が悪いのだ。
それでも――苦い想いを拭えない。
母とマルセルを許そうと思った筈なのに、己の幼さを反省した筈なのに。
心の奥底からの納得には至らない。
そんな袋小路の状況から目を背ける様に、イザベラは勉学に励んだ。
勉学に没頭していられる時間だけが救いだった。
つらい状況から逃れる様、必死で勉学に縋りついた。
季節が巡り、冬から春へと移り変わった頃。
また、マルセルから手紙が届いた。
◆ ◇ ◆ ◇
キミにつらい事実を伝えなければならない。
キミの母親であるゾエが、危篤状態に陥った。
先日、ゾエは無事に男児を出産したのだが、後に体調を崩した。
産褥期中、容態が徐々に悪化、医師達も懸命に力を尽くしたが改善に至らなかった。
内戦は未だ収束せず、移動も儘ならぬ為、イザベラに伝えるべきか迷ったが、ゾエの頼みを聞き入れ、キミに伝える。
どうか心を強く持って、過ごして欲しい。
キミの母親は、いつでもキミの幸せと健康を祈っていた。
◆ ◇ ◆ ◇
「ああ……」
信じられぬという想いがあった。
信じたくは無かった。
でも、これは事実なのだろう。
こんな馬鹿な嘘を手紙にしたため、送付する理由など無い。
出産とは錬成科学と医学が進んだ現代であっても、危険が伴うとは聞き及んでいる。
また、母親の年齢を考慮するなら、身体的負担が大きかった可能性もある。
ただ、それ以上に――信じられない。
こんな事が、本当に起こってしまうだなんて。
「ママ……ママ……ごめんなさい……」
何処かで何かを間違ってしまったのか。
そんな間違いを犯したが為の、これは罰なのだろうか。
机の上に突っ伏したまま、イザベラは泣いた。
もう、母親に会う事は出来ない。
ずっと大切に育てて貰ったのに。
自分の我が儘で、会って話す機会を失ってしまって。
つまらぬ事で意固地になって、会いにも行かず。
気苦労を掛けてしまったのかも知れない。
でも、それを謝罪する機会すらもう無い。
◆ ◇ ◆ ◇
更に数ヶ月が過ぎて夏。
『ジブロール自治区』で発生した内戦が、沈静化しつつあるとのニュースが流れた。
自治区内で武装蜂起を行った者達の多くが拘束され、また土地の所有権に絡む様々な問題も解決し、人々の移動制限も解除されたとの事だった。
イザベラは帰郷を決めていた。
母はもういない、会う事は出来ない。
それでも帰らずにはいられない。
葬儀にすら参加出来なかったのだ、せめて墓前で謝りたいと思っていた。
◆ ◇ ◆ ◇
夏季休暇、汽車で帰郷するイザベラは、車窓から見える景色の変化に驚愕する。
緑豊かだった『ジブロール自治区』の山間部が、無残に削り取られていたのだ。
削られた跡には幾つものバラック小屋と、蒸気式の巨大重機が並んでいた。
更には地下へと延びる何本ものトンネル入口が、抉られた山の中腹に口を開けている。
それらは地下資源を採掘する為の採掘場だった。
そうした採掘場が山間の至る所に設けられ、緑を削りつつ連なっているのだ。
採掘場の近隣には、巨大な精錬施設も併設されている。
施設の煙突からは黒々とした煙が途切れる事無く、上空へと吐き出されていた。
『ジブロール自治区』で発生した内戦のきっかけは、資源採掘反対運動の激化が原因だったとされている。
――が、既にこれほどの規模で、採掘作業が行われているとは思わなかった。
空は灰色に濁り、山肌は黄土色にくすみ、線路脇の街道を巨大な運搬用車両が行き交う、そんな光景をイザベラは、暗い眼差しで眺めていた。
◆ ◇ ◆ ◇
『ジブロール自治区』の中央駅に到着した。
汽車を降りてすぐ、イザベラは周囲の様子が大きく変化している事に気づく。
駅前を彩っていた華やかなカフェやショップの類いが、軒並み閉店しているのだ。
修繕の為か、改築の為か、無骨な木製の足場で囲われている建造物ばかりが目につく。
これも内戦の影響だろうか、気持ちが沈む。
重い足取りで幾らほども歩かぬうちに、イザベラは迎えの黒い駆動車を見つけた。
「お帰りなさいませ、イザベラお嬢様」
年老いた運転手は枯れた声でそう言いながら、慇懃に頭を垂れる。
彼に会うのは久しぶりだ、幾分、老け込んだ様にも見える。
イザベラは挨拶を返しつつ、車内に乗り込む。
運転手はドアを閉めると自身も座席へ戻り、ハンドルを握る。
駆動車は静かに走り出した。
市街地を離れて郊外へ、しかし内戦の傷跡が、そこかしこに見て取れる。
タール・マカダム舗装された道路の至る所が破損し、ひび割れている。
損壊した駆動車両が乗り捨てられ、横転したままの軍用車両も放置されている。
広大な麦畑だった土地は無残に掘り返され、大量の土砂が無造作に積み上がっていた。
屋敷まで続く広大な森林も、至る所が切り倒され、虫食いの様に失われている。
もはや『ジブロール自治区』の景観は、風光明媚とは言い難い。
それでも屋敷へと近づくにつれ、損傷の跡は薄らいで行く。
貴族達の居住区を避けて、内戦が行われたという事だろうか。
やがて駆動車が走りゆく先に、懐かしい屋敷の外観が見えて来る。
同時にイザベラは気づいた。
屋敷の周囲も街並みと同様、変化していたのだ。
見慣れた屋敷のすぐ隣りに、兵舎と思しき真新しい家屋が建てられていた。
ガラリアの帝国旗が掲げられており、敷地内には軍用の武装駆動車も停車している。
内戦勃発に際し、母親のゾエに護衛がついていたという事なのだろうか。
詳しい事情は窺い知れないが、物々しい気配を感じてしまう。
程無くして屋敷の前庭へ駆動車は滑り込み、静かに停車する。
そこには幾人かの使用人達が集い、駆動車から降りるイザベラを出迎えた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
そう言いながら歩み寄ったのは、古びたエプロンドレス姿の老婦人――使用人長だ。
イザベラは子供の頃から彼女に、良く面倒を見て貰っていた。
馴染み深い柔和な笑みに、イザベラも応じる。
「ただいま」
しかし。
彼女以外の使用人は皆、真新しいエプロンドレス姿の、見知らぬ者達ばかりだった。
以前この屋敷で働いていた、他の使用人達はどうしたのだろうか。
内戦勃発に際し、街で暮らす家族と共に逃れたのかも知れない。
もしくは――母親のゾエが亡くなり、屋敷での生活に見切りをつけたのか。
それでもイザベラは居並ぶ使用人達に労いの言葉を掛け、今までの不在を詫びた。
謝意を口にするイザベラに対し、使用人達は儀礼的に頭を垂れる。
そんな使用人達の背後に立つのは、スーツ姿の長身痩躯――マルセルだった。
静かな笑みと煌めくグレーの瞳。
昔と変わらぬ優しい声が響く。
「おかえり、イザベラ」
「……ただいま、マルセル」
イザベラは顔を上げ、微笑もうとする。
――が、口角が引き攣る、ぎこちの無い笑みだった。
「上がりたまえ、疲れただろう」
マルセルは差し伸べた手で、屋敷の奥を示す。
イザベラは短く答える。
「……ええ」
マルセルから視線を逸らし、歩き出す。
胸の奥が、どんよりと冷える。
ここは私とママの屋敷だったのに――そんな考えが頭をもたげる。
それは利己的な思考かも知れない、マルセルは母親と婚姻関係にあったのだ。
つまりは家族であり、マルセルがこの屋敷で主の様に振る舞うのは自然な事だろう。
ただ、簡単に割り切れるものでは無い。
加えて見知らぬ使用人達ばかりという状況。
内戦の傷跡も生々しい街の景観。
少し、人間不信に陥っているのかも知れない。
複雑な想いを飲み込み、イザベラは口を開いた。
「部屋で着替えて来るね。外は埃っぽかったし」
「ああ、そうしたまえ。それと……着替えを終えたら、客間に来てくれないか?」
イザベラは頷くと自室へ向かった。
◆ ◇ ◆ ◇
身支度を整えたイザベラは客間へと足を運ぶ。
そこではマルセルと、使用人長である老婦人が待っていた。
「お嬢様、こちらへいらして下さい――」
使用人長は微笑みと共にそう告げると、右手で前方を示し、歩き出す。
その後にマルセルも続く。
「行こう、イザベラ」
案内された先は誰も使用した事の無い、来客用の寝室だった。
使用人長は軽くドアをノックし、声を掛けて後、入室する。
南向きの部屋は明るく、そして暖かだった。
家具調度品の類いはどれも簡素だったが、綺麗に手入れが成されていた。
そして部屋の奥には小さなベッド。
隣りには椅子が設えられており、そこには一人の女が座っていた。
やはり新たに雇い入れた使用人だろう、豊かな体躯の年若い女性だ。
「彼女はお嬢様の、弟御の世話を担当している乳母でございます」
使用人長がそう紹介する、乳母は目を伏せ、挨拶の言葉を口にした。
その胸元には、柔らかそうな風合いのくるみ布団が抱かれている。
「弟……」
「――見てごらん、イザベラ」
当惑するイザベラの隣りで、マルセルが囁く。
イザベラはくるみ布団に顔を近づける。
小さな赤ん坊が眠っていた。
「キミの弟――レオンだ」
・イザベラ=偉大な錬金術師の娘。後のベネックス所長。
・ゾエ=イザベラの母親。偉大な錬金術師。
・マルセル=錬成技師の青年。後の天才錬成技師。




