第一三二話 失望
・前回までのあらすじ
マルセルに才能を見出され、その事に奮起したイザベラはガラリア・イーサの『錬成機関院付属学習院』にて勉学に励んでいた。イザベラは優秀な生徒として学習院で過ごし、そして長期休暇を迎え久しぶりに帰郷する。未来に夢を抱き、順風満帆のイザベラに対し、イザベラの母親であるゾエは、マルセルと近く結婚するのだと切り出したのだった。
沈黙が落ちた時間は、ごく僅かだった。
そうなんだ、おめでとう――イザベラはそう言い、笑顔で母親を祝福した。
ありがとう、イザベラ――母親のゾエはそう答え、微笑んだ。
その隣りには、邪気の無い笑みを浮かべるマルセルがいた。
イザベラはお茶の注がれたカップを傾けながら、口を開く。
「……だけど、マルセルとママが結婚しても、私、マルセルの事をパパって呼ぶ事は出来ないな。だって親子って呼べるほど、歳なんて離れていないでしょう? 今まで通り、マルセルで良いよね?」
「勿論だよ、イザベラ。キミの好きに呼んでくれたら良い」
微笑みを絶やす事無くマルセルは、鷹揚に頷いた。
隣りでは母親が、何処か気恥ずかしげに、或いは――心苦しげに俯く。
イザベラは、僅かに唇を尖らせながら言う。
「それにママったら、今までの手紙に一度もこんな話、書いてくれ無かったんだもの。私、驚いちゃった。事前に教えてくれても良かったのに」
「ごめんねイザベラ。どうしても……恥ずかしくて、伝えそびれてしまったの」
母親は目を伏せたまま答え、更に言葉を重ねた。
それでね、式を挙げるつもりは無いの。私は『錬金術師』だから。ガラリアの流儀に則って、グランマリーに誓い立てるのは違うと思う。判るでしょう? マルセルもそれで構わないと言ってくれているし――照れているのか、少し饒舌になった母親を、イザベラは口許に笑みを湛えたまま見つめる。
時折、揶揄う様に声を掛けては混ぜっ返し、コロコロと笑った。
そんな二人の様子に、マルセルは穏やかに微笑んだままだ。
やがてイザベラは椅子から立ち上がると、明るい表情で告げた。
「それじゃあ私、夕食まで部屋でゆっくりしてるね? 今日は汽車に乗り遅れない様、早起きしちゃったから眠くって」
イザベラは自室へと戻った。
◆ ◇ ◆ ◇
自室に戻ったイザベラは、そのままベッドへ倒れ込んだ。
ブランケットに顔を埋めたまま動かない。
室内は冷え切っており、ベッドにすら些かの温もりも無かった。
それでもイザベラは身動ぎ一つせず、動こうとしない。
胸の奥から止め処も無く湧き上がる想いが、身体の感覚を鈍くしていた。
次から次へと、言葉にならない想いが湧き上がり続ける。
息苦しくて、切なくて、もどかしくて。
この気持ちはなんだろうと、イザベラは思った。
胸がキリキリと痛むようで。焼けるようで。
やがて、これは濁った感情なのだと気づいた。
これは、憎しみであり、嫉妬なのだと。
でも、そんな感情は、イザベラの理性が許さなかった。
何故なら、何も無かったからだ。
マルセルとは、何も無かった。
私はマルセルに何も伝えなかったし、マルセルも私に何も言わなかった。
手紙だって出して無い。
だから、何一つ言える筈も無い。
そう――手紙すら出して無い、だって恥ずかしかったから。
だって、家族でも無いマルセルに手紙を出すという事は。
――マルセルに好意があると、認める様なものだから。
好意だとか、誰かを好きになるだとか。
そんな気持ち、解らなかった。
気づかなかった。
ああ……何故、手紙を出さなかったのだろう。
柔らかに冷えたブランケットの上で。
イザベラは身体を丸めて膝を抱く。
そして、少しだけ泣いた。
◆ ◇ ◆ ◇
そのまま数日間、イザベラは屋敷に滞在した。
母親や、使用人達の前では今までと変わらぬ態度を心掛け、笑顔で過ごした。
婚約者となっていたマルセルは、未だ母と共に暮らしてはいないらしい。
市街地に程近いコンドミニアムで、ひとり暮らしを続けていた。
それはイザベラにとって、都合が良かった。
母親とマルセル、二人の前で演技を続けるのは苦痛だったからだ。
無邪気さを装い続け、やがてイーサの学習院へ帰る日になった。
その日も母とマルセルが、旅立った時と同じく、駅のホームで見送ってくれた。
「それじゃあね、ママ。身体に気をつけてね。マルセルもね」
「ええ、イザベラも身体に気をつけて頑張ってね――」
イザベラの言葉に母親は応じる。
その表情には何処か陰が差し――やはり別れが寂しいのだろうと思う。
母の隣りにはマルセルが立ち、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべている。
一点の曇りも屈託も無い笑みだ。
その子供の様な笑みから視線を逸らし、イザベラは汽車へ乗り込む。
と、その時。
「……ごめんね、イザベラ」
震えて掠れた小さな声が、イザベラの耳朶を打った。
母親のゾエだった。
美しい眉が悲しげなハの字を描き、微かに眉根を寄せている。
「ごめんなさい……」
もう一度、母親はそう呟いた。
そして俯く母親の肩を、マルセルがそっと抱き寄せる。
イザベラが口を開き掛けた時、目の前で汽車のドアを駅員が閉ざした。
汽笛が響き、車窓の外の景色が流れ出す。
遠ざかって行く母親とマルセルの姿を、イザベラは見つめる。
身を寄せて佇む二人の姿は、どんどん小さくなり、やがて涙に滲んで消えた。
◆ ◇ ◆ ◇
つまり、母は気づいていたのだ。
私がマルセルに想いを寄せている、その事に。
私自身、自覚も出来ない感情だった。
だけど母は気づいていた。
なのに、気づいていたのに、ママはマルセルと。
私は、言葉にも、態度にも、示さなかった。
だから、私の想いはマルセルに伝わる筈も無い。
だけど母は気づいていた。
私がマルセルに想いを寄せていると、気づいていたのに。
これは――裏切りなのだろうか。
揺れる汽車の中、イザベラは車窓から灰色の景色を見送り続けた。
◆ ◇ ◆ ◇
『錬成機関院付属学習院』に舞い戻ったイザベラは、再び勉学に励んだ。
今まで以上に、これまで以上に、錬成科学の知識を吸収しようと努力した。
そうせずにはいられなかった。
もう――母親の様な人物を目指そうという気持ちは、無くなっていた。
マルセルの言葉で奮起した自分が、恥ずかしいと思った。
それでも――自分が歩んだ道は正しかったのだと信じたかった。
せめて己が身に宿った『才能』だけは、本物であると信じたかった。
勉学に打ち込む事で、嫌な事を忘れたかった。
幼過ぎて何も理解出来なかった無知な自分を、忘れたかった。
その年の夏、イザベラは帰郷しなかった。
今は、学びの時間を大切にしたいと手紙に書いた。
『グランマリー聖誕祭』の長期休暇にも帰らなかった。
グループで研究に取り組んでいるので、帰る事が出来ないと手紙で伝えた。
帰れなくて残念です。
ですがこちらでは問題無く、元気に過ごしています。
ママも身体に気をつけて。
その様に記した。
◆ ◇ ◆ ◇
月日が過ぎて、再び夏の長期休暇が訪れる頃。
国内に不穏なニュースが流れた。
七月中旬『ジブロール自治区』内にて大規模な暴動が発生。
同自治区内での資源採掘反対運動が過激化した事が原因。
帝国は治安の維持を図るべく、治安維持軍の派遣を決定。
事態が収束するまで『ジブロール自治区』への移動は制限される。
まさかという想いがあった。
しかし、戦争や動乱は現実に起こり得る事なのだと、イザベラは理解していた。
幼少の頃、神聖帝国ガラリアの侵攻にて故郷を失っているのだ。
半ば霞んでいた記憶ではあるが、戦争のリアルは覚えていた。
イザベラは悔やんだ。
こんな事になるのなら。
母に逢いに行けば良かった。
母の事を許せば良かった、マルセルの事を許せば良かった。
全ては己が幼さ故の我が儘だったのだと、そう思えば良かった。
母とマルセルの無事を確認すべく、手紙では無く電信を送った。
無事でいるのか、どんな状況なのか。
数日後、電信が返って来た。
暴動は市街地のみ、こちらには影響無し。
私もマルセルも、屋敷の者達も全員無事です。
簡潔な内容だったが、イザベラは胸を撫で下ろした。
母親とマルセルの無事が確認出来たのだ。
それほど酷い状況では無いのかも知れない。
――が、その後も新聞等で報じられる内容に、好転の兆しは見られなかった。
むしろ状況の悪化ばかりが記されていた。
『ジブロール自治区』で発生した暴動が、組織的抵抗に変化したらしい。
完全な内戦状態に陥ったのだと、そう締め括られていた。
イザベラは困惑の中で、母親に電信を送る。
無事でいるのか、本当に大丈夫なのか。
気を揉みながら、母からの返信を待つ。
だが、なかなか返信が無い、何かあったのだろうか。
二週間後、漸く手紙にて返信があった。
手紙の主は、マルセルだった。
返信が遅くなってしまい、すまない。
治安維持軍の要請で電信の使用が制限されており、時間が掛かってしまった。
まずひとつ、キミの母上は少し体調を崩している。
市街地と屋敷は遠く離れているので直接の被害は無いが、心労が重なった様だ。
だけど、大した事は無い。
屋敷の者も、ボクも、医者も傍についているので大丈夫。
また逢える日を楽しみにしていると、伝言を頼まれた。
キミの健康を祈っていると言っていた。
勿論、ボクもキミの健康を祈っている。
立派な『錬成技師』を目指して欲しい。
イザベラは両手で顔を覆った。
胸が痛み、不安が募る。
再び自分を責める。
あの時、母親を許す事が出来たなら。
マルセルを許す事が出来たなら。
少なくともこんな想いを抱える事は無かった筈だと。
『ジブロール自治区』で発生した内戦は、未だ納まる事無く続いているらしい。
陸路であれ、空路であれ、正規のルートは完全に封鎖されている。
逢いに行く事など不可能だった。
手紙でのやり取りだけが、頼みの綱だった。
数ヶ月が過ぎ、『グランマリー聖誕祭』の時期が近づいた時。
マルセルより手紙が届いた。
キミの母上・ゾエの体調が芳しくない。
そして今から書き記す事柄は、ゾエに口留めされていた事柄だ。
キミに隠し事をするのは心苦しかったが、彼女の意向を尊重していた。
まず――彼女が内乱に巻き込まれ、心労で倒れた事は事実だ。
しかし同時に、彼女は新しい家族を、その身に身籠っていたという理由もある。
その為、体力的に厳しい状態にあったのだ。
近々、キミの弟か妹が産まれる事になる。
動悸が激しくなり、息苦しさを感じた。
解かっている、理解している。
マルセルは母親の夫だ、解っている。
私も、その事を認めた筈だ。
だから何度も、許す事が出来たならと思ったのだ。
「どうして……」
なのに。
胸は苦しく、冷たい汗が滲む。
私は何に対して、苦しい想いを抱いているのだろう。
この狂おしい想いは、何なのだろう。
許した筈なのに、反省した筈なのに。
イザベラは奥歯を食い締めながら、手紙の文字を何度も読み返していた。
・イザベラ=偉大な錬金術師の娘。後のベネックス所長。
・ゾエ=イザベラの母親。偉大な錬金術師。
・マルセル=錬成技師の青年。後の天才錬成技師。




