第一〇三話 覚悟
・前回までのあらすじ
ラークン伯所有のコッペリア・ナヴゥルは、バルザック辺境伯所有のコッペリア・メリッサに追い込まれる。しかしナヴゥルは全身に傷を負いながらも覚醒、とどめを刺そうと追撃するメリッサの攻撃を全て回避し、素手による攻撃で逆転勝利を納める。
人もオートマータも『動く』為には、筋肉の伸縮が必要となる。
筋肉の伸縮運動を司るのは、神経だ。
神経が『エーテル粒子』を『波動』として筋肉へ伝達する。
筋肉は『エーテル粒子』の『波動』に感応、伸縮稼動する。
これが、人とオートマータが『動く』為の基本的な原理だ。
『エーテル粒子』による『波動』の伝達。
錬成医学では『エーテル・プルス』と呼称される現象だ。
この『エーテル・プルス』を、ナヴゥルは戦闘に利用している。
己が魂の形――精霊『ナクラビィ』の能力を活かした、特異な利用法だ。
『ナクラビィ』は、古の水妖海魔として伝承されている。
水辺に彷徨い出た人畜の『命の調べ』を手繰り近づき、害を成すのだという。
ナヴゥルは『水辺にて人畜の命の調べを手繰る』という伝承を『エーテル・プルス』の感知という形で、再現していた。
つまり自身が保有する『エーテル粒子』を、大気中に大量散布する事で――例えば空砲等を用いて、同質の粒子を闘技場内に撒き散らしたならば――ナヴゥルはその粒子が漂う空間を『海』と見立て、そこに存在する『生物』の『エーテルプルス』を『命の調べ』とし、知覚する事が出来るのだ。
ナヴゥルはこの能力で、対戦相手の『エーテルプルス』を知覚、あらゆる行動を事前に察知し、神懸かり的な回避能力と先読みを実現していた。
だがナヴゥルは今回の仕合、空砲による『エーテル粒子』の散布を拒否した。
あまつさえ痛覚抑制の措置も断ったのだ。
調整を担当する錬成技師も、主であるラークン伯も、真意を問い質した。
ナヴゥルは答えた。
このやり方では、エリーゼに届かぬと。
確かに『エーテル・プルス』を利用した先読みの能力は、圧倒的だ。
『グランギニョール』の序列一位――『オランジュ』にも通用する筈だ。
しかし前回の仕合。
エリーゼに仕組みを看破され、攻略されたのだ。
今のままでは――少なくともエリーゼには勝てない。
新たな試みが必要なのだと。
そしてナヴゥルは打開策を考案する。
前腕を覆う強化外殻を用いて、自身の体内から直接『エーテル粒子』を抽出、外殻より排出される蒸気に混合し、散布する事にしたのだ。
この方法なら、より高濃度な『エーテル粒子』の散布が可能だ。
より正確な『エーテル・プルス』の知覚を可能となる。
その一方で、粒子を知覚出来る範囲は、極めて狭くなる。
半径数メートルといったところか。
この問題を解決する為にナヴゥルは、痛覚抑制措置の停止を実行する。
それは、どの様な判断によるものか。
エリーゼの言葉を借りるならば。
『死地』にて『覚悟』を決める為の行為であった。
◆ ◇ ◆ ◇
円形闘技場内に大歓声が吹き荒れていた。
メリッサは地に伏したまま動かない。
バルザック辺境伯サイドの介添え人達が、血相を変えて闘技場に雪崩れ込む。
ナヴゥルは彼らに視線を送る事無く、歩き出す。
口許には自信に満ちた、力強い笑み。
歓声と喝采は治まらず、やがて聖歌の合唱へと移り変わって行く。
絢爛たる混声合唱が降り注ぐ中、ナヴゥルは悠然と歩き続ける。
そして貴族達の歌声に、鋼の得物ごと右腕を突き上げ、応じてみせた。
改めて観覧席が、興奮と熱狂に沸き返った。
逞しい長身を包む黒のレザースーツは、あちこちが引き裂かれている。
腕や脚、頬に背中、全身至る所に負った裂傷から、血が滲み出している。
仕合の最中、危うい場面が何度もあった。
或いは以前の様に、戦えないのではと危ぶまれた瞬間もあった。
それでも貴族達は、ナヴゥルの圧倒的な強さを讃え、高く評価していた。
かつての完璧な仕合ぶりで無くとも、打たれ傷つき血を流そうとも。
ナヴゥルの獰猛な本質に変わりは無い――その事を確認し、興奮していた。
ナヴゥルの仕合ぶりに、佇まいに、貴族達は魅せられていたのだった。
◆ ◇ ◆ ◇
仕合を終えたナヴゥルは入場門脇のゲートを潜り、闘技場を後にする。
そのまま自陣営の待機スペースへ向かうべく、廊下を歩き始める。
しかし程無くして廊下の奥から響く、複数の足音に気づき立ち止まった。
ナヴゥルは淡く微笑み、目を伏せる。
その場に片膝を着き、手にした戦斧を傍らに置く。
空いた右手を床の上に添えると、低く頭を垂れた。
跪くナヴゥルの元に駆けつけて来たのは、汗に塗れたラークン伯だった。
後ろに続くのは、眼鏡を掛けた瘦せぎすの錬成技師が二人、そして黒のスーツで身を固めた警護の男たちが五名。
皆、介添え人として、待機スペースで仕合に立ち会っていたのだ。
警護の男達と錬成技師はともかく、ガラリアきっての大貴族であるラークン伯自らが、闘技場の待機スペースに立ち入るなど、前代未聞の出来事だった。
本来、コッペリアを直接サポートする者以外、立ち入る事の無い場所だ。
そこで仕合中の事故等に巻き込まれたとしても、何の保証も無い為だ。
介添え人達は、コッペリアと共に仕合を行っているも同義である――闘技場がかつて、仇討ちの場や、決闘場として使用されていた頃よりの慣習であった。
ラークン伯は丸々と肥え太った身体を揺すりながら、息を切らせて走り寄る。
ナヴゥルは主に戦勝の報告を行うべく、口を開いた。
「我が主よ――怨敵、討ち果たして参り……」
その言葉が途切れるより早く、ラークン伯はナヴゥルの前に膝を着いた。
コートの裾とスーツの膝が石床の上で汚れるが、気にも留めない。
額に脂汗を滲ませつつ、辛そうに眉根を寄せると、ナヴゥルを見つめる。
たるみ切った頬と顎を震わせ、呻くように言った。
「傷は……傷は痛むか? 無理をしたのでは無いか?」
ラークン伯は、顔を伏せたままのナヴゥルに、そっと手を伸ばす。
そのまま、ナヴゥルの頭を自身の胸元へ抱き寄せた。
ナヴゥルはラークン伯の腕の中、小さく呟く。
「我が主よ、その様に我を掻き抱けば、召し物が汚れように……」
「構わぬ、私の為に流れた血と汗、誰が厭うものか、厭う筈も無い」
汗に濡れた短い黒髪を、ラークン伯は慈しむ様に撫でる。
警護の男達と技師達は、黙したまま背後に控える。
が、やがて錬成技師の一人が、ラークン伯に低く声を掛ける。
程無く、次の仕合が始まる為だ。
ラークン伯は鷹揚に頷くと、ナヴゥルに立つよう促した。
「――そうだな、早く傷の手当をせねばならん、すぐに控室へ戻ろう。傷が痛むであろう、鎮痛の処置を取らねばな」
戦斧を手に立ち上がったナヴゥルは、優しい眼差しでラークン伯を見下ろす。
穏やかな口調で答えた。
「大事無い、むしろ我が主の心遣いに、痛みなど忘れてしまおうというもの」
「戯れとる場合で無いわ……」
ナヴゥルの言葉にラークン伯は、小さく鼻を鳴らし唇を歪める。
そして足早に歩き始めた。
◆ ◇ ◆ ◇
控室へ戻ったナヴゥルに、差分解析機を用いた鎮痛措置が施される。
全身に浅からぬダメージを受けたのだ、応急の処置が必要だった。
レザースーツを脱いだナヴゥルは、全裸で簡易ベッドの上に横たわる。
腕から濃縮エーテルの輸液を受けつつ、傷の治療を錬成技師達に任せた。
筋肉のラインが美しく隆起するナヴゥルの肩に、腕に、腹部に、脚に、生々しい傷が幾つも刻まれている。
傍らに立つラークン伯は、その傷を痛ましげに見つめながら、口を開いた。
「……痛覚抑制措置を施さず、仕合う意味など本当にあるのか? これほどに傷ついて……大事無いなど、その言葉が信用出来ん……」
しわがれた声に、苦悩の色が滲む。
ナヴゥルはラークン伯を見上げると、落ち着いた口調で応じた。
「ご案じ召さるな、我が主よ。此度の仕合にて確信を得た」
「確信?」
不安げに眉を顰めるラークン伯に、ナヴゥルは口許を綻ばせる。
そっと右手を差し伸べつつ、言った。
「先の仕合、『衆光会』のエリーゼに敗北した理由――奴と我の差よ」
「差だと?」
錬成技師の一人がラークン伯に近づき、椅子を勧める。
腰を下ろしたラークン伯は、差し出されたナヴゥルの手を取る。
「痛みの伴う仕合。苦痛の伴う闘争。その在り様は――やはり恐怖だった。踏み込めば斬られる、裂かれる、打たれる。加撃される事への恐れが、胸の裡に湧いた」
「……」
「斬られ、裂かれ、打たれ、痛みを覚えた。痛みは更なる加撃への恐怖を生み、恐怖は足を竦ませる。不安と焦燥の中、己が命の弦の危うさを、意識せざるを得ない」
「……」
ラークン伯は険しい表情のまま、ナヴゥルの手を両手で包む。
ナヴゥルは静かに続ける。
「そして理解した。敵の刃が、我が命の弦に届くまでの距離――その瀬戸際を」
二人の錬成技師は、忙しなく応急処置を続ける。
ラークン伯は口を噤んだままだ。
「瀬戸際こそが『死地』だ。『死地』に在り続ける事こそが『覚悟』だ。エリーゼは『覚悟』の意味を理解していた。我は見誤っていた。そこに差が生じた。しかし、もはや二度と見誤るまい――」
ナヴゥルは濡れ光る紅い瞳で、ラークン伯を見つめる。
口許に浮かぶ微笑みは美しく、そして優しい。
ナヴゥルのしなやかな指が、そっとラークン伯の指に絡む。
「次に仕合わば我が勝つ。我が主の望みを、必ず叶えよう」
ラークン伯は、ナヴゥルの紅い瞳を、じっと見つめる。
黙したまま、ナヴゥルの手を握り、真っ直ぐに見つめる。
分厚い唇が震え、開き掛けては止まる。
垂れ下がる頬肉も、腫れぼったい瞼も、微かに震えている。
濁った小さな眼の奥で、仄かに光が揺れる。
が、やがてラークン伯は、喉の奥から絞り出す様に、低く応じた。
「――期待して……おるぞ、ナヴゥル」
・ナヴゥル=ラークン伯所有の非常に強力な戦闘用オートマータ。
・ラークン伯=ヤドリギ園一帯の土地買い上げを狙う実業家であり大貴族。




