第一〇一話 鋼鞭
・前回のあらすじ
トーナメント予選・第三仕合。かつてエリーゼと死闘を繰り広げたナヴゥルが姿を見せる。対戦相手は大貴族・バルザック辺境伯のオートマータであるメリッサ。メリッサはナヴゥルを挑発し、手にした鋼の鞭を駆使して仕合を優位に進めようとする。
漆黒のレザースーツを纏ったナヴゥルは、低い姿勢で戦斧を構える。
筋肉の束が浮き上がる両腕に、前方を睨む双眸に、力が漲っている。
――が、その精悍な横顔には、一筋の傷が刻まれていた。
傷口からは濃縮エーテルが染み出し、頬を伝って顎へと流れる。
鞭による一閃を受けての傷だった。
紅いドレスを身に纏うメリッサは、背筋を伸ばして不敵に微笑む。
右手に携えた鞭を、石床の上で波打つ様に軽く躍らせている。
鞭の長さは柄の部分も含め、およそ三・五メートル。
金属ワイヤーを編んで仕上げた、いわば鋼の鞭だ。
この鞭を用いてメリッサは、ナヴゥルの頬を切り裂いたのだ。
仕合開始時、二人は六メートルほどの距離を置いて対峙していた。
間合いの遠い鞭を用いてなお、届かぬ間合いだ。
にも拘らずメリッサは、予備動作の無い踏み込みにて一気に距離を潰し、鞭を振るったのだ。
それは慎重に間合いを図るナヴゥルの、機先を制する一撃となった。
「ほほっ……眼を潰すつもりでしたが、上手く避けましたね」
唇の端を吊り上げながら、挑発する様にメリッサは囁く。
しかしナヴゥルは応じない。
メリッサを見据える表情も落ち着いている。
飛び退いた位置から改めて、じりじりと左側へ回り込もうとする。
前腕を覆う強化外殻から蒸気を漂わせつつ、機を窺う様に移動する。
慎重な動きだ。
その様子に、観覧席の貴族達がどよめく。
些か慎重過ぎるのでは無いか――そういう想いがある為だ。
これまでナヴゥルは一貫して、攻撃的なスタイルを貫いて来た。
その上でかすり傷ひとつ負わぬ、神業の如き回避を行っていた。
烈火の如き攻撃と、圧倒的な回避。
成立困難な攻防の極みを、成立させていたのが、ナヴゥルというコッペリアだった。
そのナヴゥルが今回、相手の出方を伺い、しかも早々に被弾している。
これまでの戦闘スタイルからは、想像もつかない展開だ。
それほどにメリッサの攻撃が、冴え渡っているという事か。
或いは。
エリーゼとの仕合を経て、ナヴゥルの技量に問題が生じたのか。
つまりは弱くなったと――貴族達はその様に感じているのだ。
「……ま、遠からず、その眼は潰しますがね? ほほほ……」
嘲笑と共にメリッサは、ゆるりと一歩、ナヴゥルの方へ足を踏み出す。
白い爪先が、前方へ伸びる。
初弾を受け、後方へ跳躍したナヴゥルとの距離は、五メートルほど。
この足取りならば鞭の間合いには、まだ届かない――
にも拘わらず。
その一歩を以てメリッサは、鞭の間合いに飛び込んでいた。
先ほども見せた、何の予備動作も無い『踏み込み』だった。
直後、強烈な風切り音と共に鋼の鞭が閃く。
うねる鞭の先端は、完全に目視の限界を超えていた。
弾ける様にナヴゥルが地を蹴り、左サイドへ飛び退く。
耳を劈く炸裂音が響き、ナヴゥルの黒いスーツ――その肩口が引き千切れる。
間髪置かずメリッサの右手が、しなる様に動く。
その挙動は半ば霞んでいる。
鋼の鞭は、意思を持つ蛇の如くに跳ね上がり、ナヴゥルを狙う。
肩に攻撃を受けたナヴゥルは姿勢を崩しており、再度跳躍する事が出来ない。
頭から床の上へ飛び込み、転がる事で回避する。
しかし完璧な回避とは成らず、筋肉の隆起する背に、新たな傷が刻まれた。
「ほほっ……死と暴虐のナクラビィ、この程度ですかっ……!」
メリッサは嘲り、更に踏み込むと、畳み掛ける様に攻撃を重ねる。
鋼の鞭は銀光と化し、立て続けにナヴゥルを襲う。
複雑に波打ち、煌めき、霞む高速の軌跡は、さながら稲妻だ。
不可視の刃と化した強烈な連撃を、ナヴゥルはそれでも回避し続ける。
機敏に飛び退き、身を翻しては転がり逃れる。
が、鞭による攻撃は、僅かずつ、僅かずつ、ナヴゥルの身体を刻んでゆく。
直撃こそ避けてはいるが、躱し切れてはいない。
黒いレザースーツのあちこちが弾けて千切れ、濃縮エーテルが飛沫く。
ナヴゥルは後方へ跳躍しつつ戦斧を振るい、追撃の鞭を弾こうとする。
にも拘らず鞭は鋭敏に反応、振るった戦斧の柄を伝い、迅速に這い上がる。
その動きは生ける蛇を思わせる、それも毒を持つ蛇だ。
次の瞬間。
鞭の先端が閃き、戦斧を握るナヴゥルの眼を狙った。
ナヴゥルは咄嗟に首を巡らせ、ギリギリでその攻撃を回避する。
しかし完全な回避には至らず、再び頬を切り裂かれ、紅色の飛沫が散る。
「ちっ……!」
ナヴゥルは微かに眉を顰め、石床を蹴る。
大きく、左サイドへステップした。
そして改めて、戦斧を手に低く構える。
戦斧の柄を握る強化外殻の関節部から、仄白い蒸気が溢れ出している。
メリッサは放った鋼の鞭を、手元へ引き戻す。
背筋を伸ばして立つ妖艶な姿に、変化は無い。
イブニングドレスと同色の、紅い唇を歪めて嘲笑った。
「……どういうおつもりか知りませんが――」
言いながら、手にした鞭を足元へ垂らす。
床の上に伸びた鞭は脈打つ様にうねりながら、メリッサの周囲に広がる。
「――痛覚を抑制されていないのですね?」
ナヴゥルはメリッサの言葉に答えず、じりじりと回り込む様に移動する。
身に纏う黒いレザースーツのあちこちが、無残に切り裂かれている。
裂けた箇所からは引き攣れた傷口と、滲み出す濃縮エーテルが見えている。
前腕部を覆う強化外殻から溢れる蒸気は、ダメージによる流血を思わせる。
メリッサの言葉通り、ナヴゥルが痛覚抑制措置を解除しているのだとしたら。
全身を激痛で苛まれていても、おかしく無い。
「そういった趣味をラークン伯はお持ちなのかしら? でなければ、闘技場で痛覚を抑制しない理由なんてありませんもの。それとも痛みに苦しむ姿を主に敢えて晒し、情けを乞うて早々に仕合を放棄しようと?」
嘲りの言葉を口にしながらメリッサは、移動するナヴゥルを眼で追う。
ナヴゥルは一定の距離を保ったまま、左へ、左へと、回り込む。
挙動の読みにくい鞭による攻撃を警戒しているのか。
本当に痛覚を遮断していないならば、慎重になって当然だろう。
しかしそんな事をする必要があるのか。
結果、消極的な戦闘になるなら、本末転倒に過ぎるのではないか。
観覧席より闘技場を見下ろす貴族達は、ナヴゥルの消極姿勢にどよめく。
やはりエリーゼとの一戦が原因か。
敗北を経て、歯車が狂ったのか。
思えば仕合開始直前の、空砲を用いたセレモニーも無かった。
爆音と共に姿を現し、観覧席に向かって己が聖戦をアピールする。
己が力を誇示し、絶対の回避を披露し、絶対的な決死決着へと雪崩れ込む。
それがナヴゥルの仕合であった筈だ。
自己を顕示する事を止めたのか。意識に変化があったのか。
いずれにしても、過去に一度も見せた事の無い姿だった。
「――痛みに怯えて逃げ惑い、自ら間合いに踏み込む事すら出来ない。死と暴虐のナクラビィがこの程度だったとは。興も醒めるというものですわね」
メリッサは唇の端を吊り上げたまま、右手の鞭を勢い良く振るった。
耳を劈く風切り音、そして炸裂音。
足元の石床を、鞭の先端が強かに打ったのだ。
その僅か一撃で、床に敷き詰められた石板の一枚が、砕けて散った。
巨大なハンマーで打ち据えたかの様な、重い打撃だ。
粉塵が立ち昇る中、メリッサが嘲る様に言った。
「ならば私が臆病な贄を打擲する事で、興の乗った娯楽としましょう。せいぜい無様に逃げ惑えば良い……伝承にあるナクラビィに倣い、全身の皮膚を、ひん剥いで差し上げましょうかね? ほほほっ……」
◆登場人物紹介
・ナヴゥル=ラークン伯所有の非常に強力な戦闘用オートマータ。
・メリッサ=バルザック伯が所有するオートマータ。非常に強力。




