1-1 鬼のいない時間
昔から寝付きの良い子供だった。
いつでも、といったら言い過ぎかもしれないが、少なくとも寝ようと思った五分後にまだ起きてるなんて経験がない。寝ようと思ったんだからそこは寝とけよ。
なんてことを友人に話したら無言でほっぺたを摘まれた。真顔だった。とりあえずコーヒー飲むのを控えればいいと思う。
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それは久しぶりに部活が休みになった日曜午後三時のコーヒーショップでのことで。私と副部長は陽当たりのいい二人がけのテーブルに居着いていた。手にはちょっと背伸びして赤い星の散ったフラペチーノ。明日からおやつなしだ。早まった。でも美味しい、やっぱ早まってない。
ここ最近の顧問の力の入りようには鬼気迫るものがあった。怒号の飛ばない日はなかった。そんなにやる気あるならあんたが出ろよ。部会中にそんな言葉が聞こえてきて一瞬口にチャックを掛け忘れたかと思った。隣の副部長だった。
ずごーっと汚い音を鳴らして向かいに座る副部長がキャラメルフラペチーノを飲む。
「 履き違えるな、勇気と蛮勇は違う。」
一年前に部室で一人で勇者ごっこやってた副部長。セピア色の副部長がキメ顔でポーズをとる。履き違えてるのは副部長の方だった。
当たり前だが顧問は怒った。烈火のごとく怒った。そんなに怒ったら今は良くてもお婆さんになった時にくも膜下出血のリスクが高まるかもしれない。偉いお医者さんが顧問に尋ねるだろう。心当たりはありませんか?そしたら顧問は目を三角にして私達とのハッピー・アングリーな日々を話してしまうに違いない。絶望だ。
私は必死に先生を宥めた。血管に時限爆弾を仕掛けた罪で捕まりたくはなかった。こういうのは、設置したのは私じゃないといくら主張してもダメなんだ。私は知っている。テレビの向こうの先人達の悲しい歴史を繰り返させはしない。
烈火となった顧問の操る言葉は、私の理解が及ぶ周波数を超えていたが、暫くすると耳に優しい音域になってきた。むしろ地を這うおどろおどろしい音となって耳を攻撃してきた。顧問は元オペラ歌手だったのだろうか。素晴らしい音域だ。
顧問は言った。
お前ら弛んどる。部長が緩いから部の雰囲気も緩いのだ、と。
顧問の目に私が映っている。あの目は特別製なのだろうか?瞬きをしている所を見たことがない。ガラス玉のような瞳。
根性を入れろ、特にお前。部長のお前。
顧問は続けて言った。
良かった。顧問は大分知性の輝きを取り戻したに違いない。声色ジェットコースターもようやく法定速度の存在に気づいたようだ。これで時限爆弾解体ミッションはクリアだ。あとはあのガラス玉がドライアイになる前に目薬をさせばいい。
顧問の手が伸びてきた。最近酒の力に目覚めた顧問は日本酒を手に塗っているらしい。お手手艶々になるのだそう。
顧問の手が私の顔面を掴んだ。ちょっと痛い気がする。この痛みとは結構良く出会う。でも顧問その艶々お手手見せる人いるんですかって聞いた時もこんな感じだった。
お前に言ってんだよ聞こえてんのか日和ぃ!
顧問はまたジェットコースターを発車させたようだ。みっしょんいんぽっしぶる。
蛮勇なる勇者は私ではない。副部長だ。そう言わなかったあの時の私こそが、ああ、おそらく本当の勇者なのだ。
ずごごごーと太いストローで逃げるクリームも残さず吸い取る。美味しい。幸せ。
憂鬱な土曜日の回想を終える頃には幸せなフラペチーノもすっかり姿を消していた。マイナスとプラスが合わさり今ゼロに見える。つまりカロリーもゼロだ。無敵だ。
容器の隅をしつこくつつき回していた副部長もようやく納得のいく吸い上がりになったようでストローから口を離していた。
日曜午後三時のコーヒーショップ。目の前にはうっすら白い髭を付けた副部長がいた。私は表情筋を動かさないことに神経を使っていた。ストローで吸ってるのに髭が作れるなんて副部長はもしかしたら天才なのかもしれない。私はとても楽しい気持ちだった。
だから。
私が眠っていたはずがない。