コンプレックスの解消には、まず体からなのです~ 3
清水の奥にあった社の前で、流道は腕を組みながら説明を始めた。
「それじゃあ手始めにまず、駆け足からだ」
「駆け足?」
「お前たちの言うところで……らんにんぐ、というものだな」
まさに体を鍛える鉄板だな。案外普通の試練、とはいえ俺もずっとまともに運動はしていない。無理は禁物だな。
「分かった、どこをどれくらい走るんだ?」
「お前が先導して、好きなところを走れ。俺が後ろからお前を監視する。速度は常に一定。今はおよそ正午過ぎ、これから暮れ六つまでだ」
「暮れ六つってのは……つまり何時だ?」
「今の時代で言うとおよそ午後六時の刻までだ」
「は、六時間もかよ!」
油断した、六時間も走ったことなんか人生史上一度もないぞ。もう完全にアスリートじゃないか。
俺はここで軽く後悔した。
「仕方あるまい、お前の体はそれほどにたるんでおるのだ。安心しろ、今のお前の体では、この試練をいきなり乗り越えることはできんことくらい分かっている」
「な……じゃあどうするんだよ?」
「そう焦るな、どれ」
そう言うと、流道は俺の頭上に手をかざす。すると体の下から水が湧き出て、俺を囲むように螺旋を描いてのぼってくる。
「な、なんだこりゃ!」
「お前の身体に眠る潜在能力を引き上げている。これも『加護』の力の一部だ」
やがて俺を包む水流は光を放ち、周辺に飛び散った。俺の体もそれに呼応するように光って消える。
体が……嘘のように軽い。こんなにも力がみなぎったような感覚、初めてだ。
「す、すげーな! 本当に神様っぽいぞ!」
「神だと言っておろう」
これなら、どこまででも走って行けるような、そんな気がする。 俺は軽くジャンプしてみせる。
「本来ならこのような反則技は使わん。だが、事を急いているようだからな。反動は強いがその分、身体能力の成長速度が飛躍的に上がる。普通の人間が鍛えて二ヶ月はかかるところを、一週間でものにさせてやる」
「反動って、どんなだ?」
俺は少しビビりながら尋ねる。
「普通に鍛えても筋肉痛に襲われるだろう? それを九週間分凝縮させるのだ……分かるだろう」
何かマンガとかにありがちな設定だな、なんとなく想像はできるが……
俺はゆっくりと頷いた。
「なら鍛練を始めるとするか。では一途、走れ」
「あ、ああ。分かった」
俺は恐る恐る、とりあえず適当に走り出した。
「――!」
足取りがものすごく軽やかなことに驚いた。まるで自分の体じゃないみたいだ。それに……全然呼吸も苦しくない。これなら、イケる。
速くもなく、遅くもなく……最も疲れにくいであろうスピードを計算しながら俺はペースを決めて走る。
最初のコーナーを曲がり、次の十字路を左に曲がって……そうだな、時間はたっぷりあるから、大仙市にでも抜けて――。
次の瞬間、後頭部を何やら固い物でど突かれ、俺は前のめりになり倒れそうになる。
「痛って~、何すんだよ!」
走りながら後ろを振り返ると、宙に浮いた水の板のようなものに乗った流道が、人の背丈ほどはある棒で俺の頭を突いていた。ていうか、その乗りモンなんだ。
「監視すると言ったであろう。余計なことを考えながら走っているから、速度が乱れておる」
「っていうか、それずるくね? あんたも走れよおっさん!」
「俺はもう十分に鍛錬している。お前と違うのだよ、お前とは」
そう言ってまた俺の頭を突く。結構地味に痛い。
「分かったよ、分かったから黙って走らせてくれ!」
「ならば無心になって駆けよ。今のお前は雑念だらけだ」
「くっそ~、ぜってー走りきってやる」
俺はひたすらに目的地も決めずに走り続けた。
***
少しずつ陽が傾いていき、空がオレンジ色に染まっていく。カラスたちの声がいっそう多くなり、みな自分の巣がある森へと帰っていくのが分かった。
走り出して六時間弱。俺の体は『加護』の力を一部受けているとはいえ、それでも悲鳴を上げていた、もはや息も絶え絶え。疲れないペースでと思ったが、時間が過ぎれば過ぎるほど、俺の脚はまるで鉛にでもなったかのように重くなり、一歩一歩が確実に遅くなった。その都度、俺の後頭部は流道の棒で突かれ、頭までどうにかなってしまいそうだった。
(完全に甘く見てた。だが、あと少し。あと少しで終わりだ!)
俺は最後の力を振り絞って走る。
コーナーを曲がったところで馬洗い清水が見えてきた。桟橋のところで水涼さんが立っていて、こちらに向かって手を振っているのが見える。
「はあ、はあ……よし、あと少し――」
「みみ水涼殿おぉ! ぶぶ、無事に帰りましたぞぉぉ!」
「うるせーな、あんた!」
最後はごちゃごちゃしながらも、何とか馬洗い清水に到着し、走り終えた俺はそのまま桟橋の上に倒れ込んだ。仰向けになって寝転ぶ。体中の疲労が一気に押し寄せ、腕も脚も腹筋も、すべてが限界を訴えていた。
「はあっ、はあっ……ダメだ、もう一歩も動けん」
「頑張りましたね、一途さん!」
水涼さんが必死に俺に声を掛ける。ああ、何だか達成感みたいなものが胸に溢れてきて、気持ちが良い。マラソン選手がゴールしたりするときってこんな感じなのかな。ここまでやりきると、感動もひとしおだ。
「はあ、どうだ……流道のおっさん。たるんだ俺だって……やればできるんだ」
辛いこと、苦しいことから逃げてきた俺には 、たとえ神様の力を借りたとはいえ、やり遂げたことが誇らしく思えた。
痛む体に無理を言って、何とか起き上がる。しかし立つにはまだ辛く、座りながら俺は流道に言った。
「うむ、よくやった。では、明日は辰の刻の三つ時、つまり朝の九時にここへ集合だ。今日から一週間、しっかりと鍛錬に励めよ。駆け足は毎日やるぞ」
「早えな! しかもこれも一週間だって!」
今、俺は間違いなくこいつに殺意を覚えた。水涼さんは隣でにっこり微笑んで「がんば!」ってしてる。こいつらマジで狂ってやがる。
「それから一途、お前の家はここからどれくらいだ?」
うな垂れる俺をよそに、流道が聞いてくる。
「ここからだと歩いて、一時間かかるかどうかってとこ……ちょうど五キロくらいだな」
「ふむ、およそ一里と十町か。では一週間、毎日ここまで走ってこい。そして走って帰るのだ。それも鍛錬のひとつ」
「マジかよ! 鬼だ、あんた……」
「鬼ではない、神だ」
「そんなことは分かってるよ!」
「一途さん、ファイト♪」
俺はついノリでツッコミしてしまうが、限界に近いこの体では、思うようにキレが出なかった。
帰りのランニングはあるものの、この日のトレーニングはいったん終了した。わりとすんなり『加護』がもらえてコンプレックスをさらっと解消! なんて思っていたが、そうやすやすと事は運ばなそうだ。後悔したが、毒を食らわば皿までだ。
玻雀や真愛を思い出しては自分を奮い立たせると、二人に別れを告げてから、痛む体に鞭打って走って家路についた。