コンプレックスの解消には、まず体からなのです~ 2
馬洗い清水はほかの清水に比べて少し広い敷地の清水だ。
その名が表しているように、その昔この清水には、人々が馬をここで洗うために訪れたと聞いている。だから馬洗い清水。
道路からそのまま入り口の道が続いており、清水の手前に木で出来た桟橋のような場所がほとりとなっている。幅五メートル、奥行き二メートル程度の広さ。ここで昔の人は馬を洗っていたのかと考えると何だか感慨深い。
周囲は木々に囲まれており、少し離れたところに人が入れそうなくらいの大きめな社が建っている。木々の外側一帯には田園が広がっており、常に風通しが良く、涼しさが感じられる。ここにはヨコエビやハリザッコも生息している、水質環境の良い清水だ。水深は三十センチ前後だろうか。
町の外れということもあり観光客などもおらず、とても静かな雰囲気。本当にここにも神様なんてのがいるのだろうか。
水涼さんは桟橋の上に立ち、大きく息を吸って叫ぶ。
「流道さ~ん、御台所の水涼で~す! 遊びに来ましたよ~」
いや、水涼さん。決して遊びに来たわけじゃ……
彼女の声に呼応したのか、それまで静かだった清水の中央辺りの水面がもこもこと盛り上がる。それはどんどん大きくなり、やがてすごい勢いで太い水柱を立てた。天高く舞い上がった水は雨のように辺りに降り注ぐ。
あっけに取られていると、やがて水柱は薄れていき、その中心に一人の大男が立っていた。
男は一目で分かるほどに体格が良い。黒い衣服を身に纏ってはいるが、盛り上がった筋肉のせいか、衣服が肩と膝上のところで破れている。胸元からは白いさらしが覗き、腰には赤い帯を巻いている。手には手甲、足は黒い足袋……これは多分、忍び装束と思われる。
流道と呼ばれた男はこちらに鋭い眼光を向ける。その目はいとも簡単に相手を怯ませてしまいそうなほど鋭い。眼窩上方が飛び出ており、眉が太く全体的に彫りが深い。四角型で立体的な顔立ちだ。
神様は水涼さんしか見てないから分からないけど、もっと雰囲気の柔らかそうなやつらばっかりだと思っていたが、こいつは違う。明らかに……威圧的だ。
「み……」
流道が何かを言いかける。上手く聞こえない。
「みみみ、水涼殿ではありませんか! お、お久し振りにごごごございます!」
何だこいつ、すげーテンパってやがる。体格に似合わず、なんかモジモジしてるし。呂律も回っていない。
「流道さん、お久し振りです、お元気でしたか?」
水涼さんがぺこりと礼をして挨拶をする。流道はしゃきん! と直立不動の姿勢を保ち、結構な勢いで鼻息を出す。顔が……赤い。
「は、はい。ぼくは元気であります! みみみ、水涼殿こそ、お身体の具合は、よよよろしゅうございますか!」
「私はこのとおり元気ですよ。そんな改まった挨拶じゃなくてもいいですから、ね」
「す、すみません! つい、水涼殿と言葉を交わすなど、そんな……なんだか、あがってしまって……」
言っている意味がよく分からないくらいテンパってる。緊張しているのと、顔が赤いのと……察するに、流道は水涼さんに惚れているんだなってのが一目瞭然だ。神様って言っても、やっぱり人間くさいな。だとしても極端すぎだろ、どれだけ人間のときに面倒くさいやつだったんだろう、この人。
「まあまあ落ち着いてください、流道さん。今日はお願いがあって参りました」
「おおおお願い、と申されますか。ならばこの流道、全身全霊をもって水涼殿の願いを成就すべく邁進させて、いいいただきまする!」
拍車をかけて流道がおかしくなってきている気がする。流道はガチガチに固まりながら桟橋へと歩み寄る。
「して願いとは、どのような願いで?」
ようやく落ち着いたのか、少し流暢に話し始めた。
「はい、こちらにいる方に『加護』を与えていただきたいんです」
「只野一途と申します。よろしくおねがい――」
「――ほう?」
流道が俺をギロリと睨みつける。さっきまでのフニャフニャした流道の面影はなく、まさに人を取って殺しそうなほどの威圧的な眼光。はっきり言って超怖ぇ、ちびる。
「あ、あの……」
さっきまで馬鹿にしてたが、その迫力にたじろぎながらおそるおそる口を開く。
「貴様、俺の『加護』が欲しいだと?」
「あ……はい」
流道が俺の目の前に立つ。間近で見るとその体格の良さがよく分かる。胸板が厚く、腕や脚も俺の二回りは大きい。何よりデカい、百九十センチはあろうか。
硬直する俺、そこへ流道に近づいた水涼さんが、事の経緯を伝えた。流道は顔を真っ赤にして阿呆みたいにだらしなく口を開いたままフニャフニャとなって話を聞いている。こいつ、聞く気あるのか。
成り行きを知った流道は、改めて俺を見て威圧モードに戻る。そして不意に俺の腕を掴んだ。
「痛っ……な、何ですか、突然!」
掴んだ腕を離し、今度は服をめくって俺の残念な腹をまじまじと見る。そして両肩に手をかけて、流道は突然俺を持ち上げて思い切り清水の中へと投げ込んだ。
「のわあぁぁああぁっっっ!」
ばっしゃーん、と大きな着水音を響かせて、俺は清水の中へと沈む。とはいえ、三十センチ程度の深さ。顔面を清水につっこみ、ケツを突き上げるような体勢で俺は沈んでいた。飛ばされる最中、水涼さんからの「あらあら」という相変わらずおっとりした声が聞こえた。いきなり何て洗礼だ。
「ぬるい、ぬるすぎるぞ小僧!」
流道が大声で怒鳴る。
俺はゆっくりと起き上がり、清水に浸かりながら桟橋の二人へと向き直す。
「会って早々、何なんだこりゃ!」
流道が偉そうに腕を組みながらこちらを見下ろしている。水涼さんと話しているときとはまるで別人だ。
「俺の名は馬洗流道。この馬洗い清水の神だ」
「今さらかよ、自己紹介する前に人をぶん投げるやつがどこにいるんだよ!」
俺は痛みに耐えながら立ち上がる。全身ずぶ濡れで、水をたっぷり含んだ衣服がとても重く感じられる。
「む、すまぬ。貴様のたるみっぷり、なかなかに類を見ないしょぼさなもんでつい……俺はたるんでる奴が大嫌いなんでな」
「あんたの好き嫌いなんか知ったことかよ、こっちはその『加護』とやらをもらいに来ただけなんだよ!」
俺も負けじと流道に噛みついてみせる。俺たちの間には火花のようなものが散っているが、水涼さんが
「まあまあ」と割って入る。
「一途さんも落ち着いてください。『加護』を頂くには、神様に認められなければもらえないんですよ」
「そうだ小僧。俺の『加護』をもらいたければ、それ相応の試練に耐えてもらわねばならん。でなければ、俺は貴様に『加護』を与えてなどやれん」
そういえば、来る前に水涼さんが言ってたな。試練って……何か話がどんどん飛躍していってるような気がする。
「試練って……何かいちいち大げさだな。具体的に何をすりゃいいんだ?」
「体力錬成だ」
「はぁ?」
「貴様らの時代で言うところなれば、筋力とれーにんぐ、とでもいうやつだな」
「はぁ?」
俺は二度繰り返した。何を試練と言い出すと思いきや筋トレだとは。まずもって安直だというか、何というか……。
「この馬洗い清水は『力』を司っている。力強い戦馬をいとも容易く操るほどの力を持つ者でなければ、この清水ではそう簡単に馬を洗えん。古くからそう言い伝えられるほど、ここでは『力』が象徴とされてきたのだ」
「それとこれとはどう関係があるんだ?」
「力を持つ者はその資格を得るに値する。それに相応しくない者には『加護』は与えられん。そういうことだ」
「なるほどね……」
水涼さんが言っていた「まずは体」ってのはこういう意味だったのか。
確かに俺の腹は限りなく残念だし、それじゃなくともお世辞にも体が出来上がっているとは到底言えない。俺のコンプレックス解消にはアレコレ考えずに、まず体から鍛えるのが確かに手っ取り早い。
ただ、こいつの熱量はかなり高い。想像を絶する厳しいトレーニングになりそうだ。
俺はゴクリと唾を飲む。
「大丈夫ですよ、一途さん。きっとこの試練を乗り越えて、見違えるようになって……そしたら、真愛さんにだって立派な体、見せてあげられますよ」
俺が怖じ気づいているのを察してか、水涼さんが耳打ちして励ましてくれる。そうだ、俺は玻雀を見返すためにも、真愛をあいつから守るためにも……この試練を越えなきゃならない。でなきゃ、何のためにここに来たんだ。
「さあ、どうする小僧。試練をやるのか、やらぬのか」
「ああ、分かったよ。その試練、乗り越えてみせる!」
俺は再び流道の目を見る。流道は相変わらず鋭い眼光を放っているが、俺は決して目を逸らさない。やがて流道はにやりと笑みを浮かべた。
「うむ、先のほどよりいい目をしているな、小僧」
「小僧じゃない、一途だ。何でも受けて立ってやるよ」
「よかろう。ついて来い、一途。早速鍛錬を始めるぞ」
「応!」
俺は清水から上がり流道の後に付いていく。水涼さんは少し離れて俺たちに手を振る。
「一途さん、頑張ってくださいね~。流道さん、あんまり無理しすぎないでくださいね~」
「は、はい! 分かりましたでああありまする!」
彼女の前だとすぐこうか……むしろこいつのほうが、あがり症治す試練を受けたほうがいいんじゃないのか、あるのか知らないけど。
やれやれと俺は溜め息をついた。