御台所清水の水涼さん 6
時は冒頭に戻る。
彼女はずっと俺に微笑み続けていた。
彼女は広げた扇子をゆっくりと上へあげる。すると、周囲の水球が呼応するかのように、さらに高く浮かんでいく。そして扇子を閉じる。と同時に、高く浮いた水球は皆弾け飛び、清水に小さな雨を降らすかのようにザアッと降り落ちた。俺はその小さな雨に打たれながら、口を阿呆のように開けていた。
「これなら、信じていただけますか?」
「え、ちょ、まっ……どういうこと? まさか、君は本当に神様、なの?」
「はい、先ほどからそう申しています」
彼女は笑顔を崩さない。にわかに信じがたいが、手品とか、そういう次元ではないことは確かだった。
「君は、一体……」
「先ほども申しましたが、ここの清水で神様をやってます、御台所水涼と申します。あなた様にお礼がしたくて、現世にこうして姿を現したんですよ~」
おっとりと、ゆっくりと話す彼女。お礼? なんのことだ。
「お礼って……俺は何も礼をされる覚えはないんだけど」
「先ほど、塞がっていた水源を元に戻していただきました。おかげで、苦しかったのが嘘のように元気になることができました」
「ああ、あの石のことか。苦しかったって、神様でもそんなもんなのか?」
「はい、元は人間ですから……神様って言っても、あんまり万能ではないんです」
「そうなのか、あんま融通利かないんだな」
てっきり俺は何でもできるのが神様だと思ってた。とはいえ、そもそも神様ってのがどんなものなのか、どんな人なのか、わざわざ考えたこともなかった。それがこんな可愛い女の子が神様だなんて……かなり意外だ。
「水源は私たちの力の源。それが本来よりも弱まれば、もちろん存在するための力も弱まってしまうんです。半減した力では現世に姿を見せることも叶いませんから、念を送り続けていました。そこであなた様が来てくれて、念が通じて石を避けてくれた、という流れです」
さっき感じた妙な空気感の正体はその念とやらだったのか。どうやら何かしらを感じたのは気のせいではなかったようだ。
「それなら、まあ……良かったな。でも俺以外にもここには人なんて来るだろ。何で俺だったんだ?」
「それは多分、あなた様が私たち清水の神との波長が合う人間だったから、だと思います。今では波長の合う人間はほとんどおりませんから……はっきり言って奇跡なんです」
「そ、そうか。こっちは変なことに巻き込まれたような感覚でしかないけどな」
ような、ではなく実際もう巻き込まれている、と言ったほうが正しい気がする。
「そう言えばあなた様、お名前は?」
「一途。只野一途だよ」
「一途様、ありがとうございます。一途様のおかげで、私は救われました。何かお礼をさせてください!」
「お礼って言われてもなぁ、別にそんなこと……」
彼女は目をうるうるさせてこちらを見つめてくる。あーもう、そういうのは反則だって、なんで女の子は分からないかなぁ。
俺は彼女を直視できず、目を逸らして頬を掻く。
「何かお困りごとや、お悩みはありませんか? 清水の神として全霊をもって、一途様のお悩み解決にお応えいたします!」
彼女は両手を胸の前でぐっと握ってこちらに迫る。何か逆に悪い気がしてきた。
悩み事か、そんなある意味悩みしかないが、急に言えと言われても、そういうときに限ってなかなか出てこないものだ。
「あ……」
俺の頭の中にある言葉が思い出される。
『真愛に近づくなって言ってんだよ、雑魚が。薄汚いテメェは目障りだっての』
玻雀に言われた言葉、思い浮かんでくる俺のコンプレックスの数々。こんな情けない自分とおさらばしたい。そして、真愛を玻雀の手から守ってやりたい。
こんなことでも、本当に彼女は解決してくれるんだろうか。
「俺……男らしくなりたい。コンプレックスを克服して、あいつを見返してやりたい。そして……真愛を、あの男から守ってやりたい」
彼女の目がきらっと輝いた気がした。猫耳が付いてたら、ピンっと耳が立った時のような、あの反応だ。
「お悩みありありなんですね? コンプレックスを克服ですか、じゃあコンプレックスの内容と成り行きを具体的に教えていただけますか?」
せがむ彼女に、俺はコンプレックスの内容と、これまでの経緯……恥ずかしいけど真愛への気持ちを説明した。
「なるほど……いいですねぇ、長年に渡ってただの一人を一途に想う恋心。そこに現れる強力な恋敵、両雄の想いの狭間で揺れ動く乙女の淡い気持ち……自らの弱さと向き合い、立ち上がろうとする一人の青年の儚くも熱い一夏の恋の争奪戦、完璧な物語ですわ!」
説明した俺が馬鹿だったんだろうか……この人、いやこの神様は完全にワールドを展開している状態だ。あまりに人間くさくて神様であることを忘れてしまいそうだ。
「……分かりました、私もその物語において、一途様の大団円を迎えるためにも、一肌脱がせていただきます! ぜひ、お力添えさせてください!」
興奮しながら片腕の袖を捲り、細い腕を見せる彼女。何だか勝手に暴走しているが、とりあえずやる気満々らしい。
「あ、ああ、分かった、ありがとう。でも、具体的にどうやって克服してくれるんだ?」
「それはですねぇ……」
彼女はこちらに少し前のめりになり、自分の顔に手を近づけて指を一本立てて見せた。
「清水の神様の皆さんから『加護』を与えてもらいます」
「かご?」
聞き慣れない言葉に、俺はすぐに聞き返す。
「はい。ここだけではなく、それぞれの清水に神様がいるんです。皆さんそれぞれ特有の力を持っています。そして、神様が認めてくれた時、その人間には一人前である証として『加護』という恩恵をもたらします。そうすれば、一途様のお悩みも一挙に解決、恋バナもハッピーエンド、ですわ!」
いかん、聞き返したところで、やっぱり言っている意味の一ミリも分からん。
「全然意味が分かんねえよ、大体何で神様のくせに『恋バナ』とか『ハッピーエンド』なんて略語や横文字が出てくんだよ」
「いいじゃありませんか、神様だって、女の子なんですよ」
ぷぅ、と彼女は頬を膨らませてみせる。
「お、おお。何だかよく分からんが、とりあえず分かった。その、ほかの神様にも認めてもらって『加護』とやらをもらえばいいんだろ。手始めにどこの神様んとこに行けばいいんだ?」
むくれる彼女に俺は聞いた。彼女はすぐに不機嫌を払拭し、自信のある顔つきで話し始めた。
「はい、一途様にはまず、馬洗い清水の神様に会っていただこうと思います」
「馬洗い清水か……」
俺は呟く。馬洗い清水は町の北西に位置する、清水の中でも町の外れにある清水だ。ここからは歩いて三十分くらいか。
「はい。そこの神様なら一途様のまずは『体』に関するコンプレックスを、きっと解決してくれると思います」
時間は昼の十二時前、特に予定も無いし時間はまだある。
「よし、分かった。じゃあ馬洗い清水に行ってみるよ」
「では、私もお供させていただきます」
「え?」
彼女はふわりと水面を蹴って石畳に降り立つ。人がジャンプするそれと違い、風に舞う羽根のように柔らかく宙を駆けた。
「一途様だけでいきなり行っても、出てきてくれないかもしれないじゃないですか。なので私が、一途様の案内役をさせていただきます」
彼女はまた可愛らしい笑顔で俺に言った。彼女は純粋無垢な気持ちなのだろう。その笑顔に嘘偽りは感じられなかった。
「ああ、分かった。じゃあ頼むよ。ただ、その一途様ってのはやめてくれ。なんだか……こそばゆい」
「そうなんですか?」
彼女は顎に手を当てて、うーんと悩む仕草を見せる。
「じゃあ、一途さん、にしておきます」
「それならまあ、いいかな」
「では私のことは水涼、とお呼びください」
「それはそれで何だか……神様に対して失礼な気がするなぁ。俺も、水涼さんって呼ばせてもらうよ」
とは言いつつ、目の前にいる彼女はあまり神様に見えないんだけどな。と俺は心の中で呟く。
「はい、分かりました。では一途さん、参りましょう」
「ああ、よろしく頼むよ。水涼さん。」
こうして俺は水涼さんとの奇妙な夏を迎える。
このとき俺は、災難とも言える試練が山ほど待ち受けているなんて、知る由もなかった。