御台所清水の水涼さん 2
ブラウンの半袖チェックシャツに、ローマ字の羅列がワンポイント入った白のTシャツ、カーキのショートパンツ、足下は高校時代の汚れたスニーカーという超適当な恰好で、俺は真夏の日射し照りつける外へと出た。母さんが煩いので車は使わず、歩いて行動することにした。
実家は周辺に何もない一軒家。青々とした頭を垂れ下げ始めた稲穂が広がる田園地帯、少し離れたところに人家が立ち並び、町らしい様相を呈している。一応、隣家はあるが隣家と言えど、ゆうに三百メートルは離れている。ずっと伸びた道路は土曜日にも関わらず、車が通るのは十分間で一、二台だ。俺が生まれ育ったこの秋田県美郷町という町は、人口約二万三千人。ただしそれは町村合併後の話で、俺がまだ幼いときに合併する前の旧六郷町なんて七千人そこそこしか人が住んでない、そんなド田舎だ。もちろん、国道の通る市街地まで出れば車はそれなりに走っているが、いわゆる通勤ラッシュや帰宅ラッシュ、なんて言われるものは学生のころにそこまで感じた事がない。
煩いほどに聞こえる蝉の声。茹だるような夏の暑さによって、家を出て間もないのに俺の背中は汗でじっとりとしてきているのが分かる。サウナ効果か、なるほど、これなら出しゃばった腹も少しは引っ込んでくれそうだ。遠い道路の先に揺れる陽炎を見ながら、俺はまず、ある場所を目指した。
歩くこと三十分弱。町の中心部に位置する、白い漆喰壁に瓦屋根で出来た土蔵造りの建物、まちづくり観光総合施設『湧くや』に到着した。人はまばらだが、この町にしては賑わっている。建物内にはレストランや物産コーナー、雑貨屋に貸し出しホール、町の資料館や観光案内所など、実にさまざまなテナント、施設が入っている。
普段軒先に店を出したりはしていないが、夏の時期にこの町は多少観光客で賑わうため、今日もいくつかの露店が軒を連ねており、それぞれに観光客とおぼしきマダムや気位の高そうなシニアたちが集っている。軒先に臨時で設営された観光案内所も今日は賑わいを見せ、テーブルに陳列されたパンフレットを読む旅行客の姿も見られる。
『古来より時を経て、涼しさと豊かさを感じる湧水群、清水の郷』
そんな謳い文句のパンフレットが目に入る。この町は岩手県と秋田県を分断する奥羽山脈山から流れてくる地下水脈が渾々と湧き出る、全国でも有名な湧水群のある町。その湧水の一つひとつに名前があり、湧き出た水が池や沼、なかには流水のような形となったものを総称して古来より人々は『清水』と呼んでいる。
「いらっしゃいませー!」
観光客や『湧くや』の従業員などのやり取りで賑わう中、一際高い女の子の元気な挨拶が聞こえる。懐かしい、真っ直ぐ通った声。俺はこの声の主に会いに来た。
彼女は軒下の店が建ち並ぶ端、『湧くや』の正面入り口の脇に立って、来店する客を笑顔で迎えていた。髪はうなじあたりまで下がったポニーテール。水色の頭巾を着用し、白いシャツに町のゆるキャラが描かれた青いエプロンを着けていた。
彼女は園崎真愛。俺の初恋の、そして今も想いを寄せている女の子だ。
彼女は同級生で、高校を卒業してからこの『湧くや』の運営会社の従業員として働いている。小学校からの長い付き合いだ。仲良くなって間もないころから好きになって、今もずっとその想いを密かに抱いている。仲良くなりすぎて、小学校のころは暇があれば一緒に遊んでいた俺たち。中学、高校とすべて同じ、この町の学校に進学したが、人も増え、クラスも増え、思春期も相まって、少しずつ距離が離れていったような感覚を覚えている。それでも、偶然二人きりになったときは、昔となんにも変わらず駄弁りあってた。もはや今さらってのもあって、俺の想いは伝えられずにいる。でもなんとなく、それでもいいかな、なんて思ってる部分もある。だから『密かに』想っている。
ボランティアで陸上スポーツ少年団のコーチ補佐もしている彼女だが、一言で言えば天真爛漫。肌は日に焼けないらしく白い。目鼻立ちは控え目で、鼻が小さい分少し幼く見える彼女は、口角がよく広がるので、とにかく笑顔が可愛い。そのくせギャップのある凜々しい眉、それが真っ直ぐで純粋な目をしているように見せている。
その容姿や姿勢を裏付けるように、彼女はどこまでも熱心で優しい。今の『湧くや』に入社したのも、自分が生まれ育った町に恩返しがしたい、一人でも多くの町の人たちの笑顔を増やしてあげたい、という理由だった。彼女がそう言ったとき、本気でそう思ってるんだというのが見てすぐ分かったほどだ。彼女はそれほどまでに純粋で優しい。同時にそれはとても美しかった。
そんな彼女を少し遠巻きに見ていたが、風が吹いて彼女の髪を掻き上げたそのとき、彼女の目が俺の姿を捉えたのが分かった。彼女は驚いた表情をして、こちらに向かって歩いてきた。
「やあ、真愛。元気だった――」
俺も少し歩み寄って声を掛けた、瞬間だった。
バシン!
「でっ――」
俺の首は高速で垂直に下を向いた。そう、彼女はとりわけ手が早い。
「イチ! 帰って来るんなら一言くらい言いなさいよ!」
第一声よりも早く彼女の鉄槌が下ったのだ。これにはさすがにノーガード。予想しうる展開だった。油断した。
頭を押さえながら俺は顔を上げる。真愛は明らかに分かりやすく、目が怒っている。
「ごめんごめんって……昨日帰って来たばっかりだったから――」
「帰ってくる前にって言ってるの! 年末年始も、去年の夏休みだって、その前だって……ちっとも顔見せてくれないんだから。二次元の世界にでも転生したのかと思ってた」
真愛は腕を組んで「む~」と口を前に突き出して見せる。くそ、可愛いな。
「二次元に転生とか、どこの異世界ファンタジーの話だよ。オタクじゃあるまいし」
「オタクでしょ。アニメやゲーム、一途好きでしょ、そーいうの」
はい、好きです。特に可愛い女の子がたくさん出てくるやつ大好きです。なんていうかフルボイスじゃなきゃ嫌です。
真愛を前にしてそんなこと、口が裂けても言えない。
真愛の額には汗が滲んでおり、前髪がぺったりと貼り付いていて少し色っぽく見える。
「とにかく、悪かった。ちょっと、働いてた会社がダメになっちゃって……しばらく時間できたから、その、ちょっと顔見に来た」
「ダメになったって……クビになったの?」
真愛の表情が曇る。ほとんど顔も見せてやらなかったのに、心配してくれてるんだな。
「あ、いや……倒産してさ。まあクビみたいなもんだよ」
「そうなんだ……残念だったね。でも、とりあえず次の就職先が見つかるまで、しばらくこっち、いるんでしょ?」
「ああ、しばらくはそのつもりだ」
真愛の表情がぱっと明るくなった。感情の切り替え早いな。これだから女は分からん。
ふと、エプロンの下に青い七宝焼きのブローチを身に付けているのが見えた。
「真愛、そのブローチ……」
「あ、見えちゃった?」
真愛はエプロンの胸元を少し引っ張ってブローチを見せる。
「まだ持ってたのかよ。恥ずかしいからそんなもん、早く捨てろって言ったのに」
「いいの、気に入ってるから」
そのブローチは俺が小学校のころに真愛にプレゼントしたものだ。
この町の小学校では社会授業の一環で七宝焼きの体験教室が開かれる。そのときに俺が初めて作った七宝焼きだった。濃い青から薄い水色へグラデーションになる綺麗なブローチを作りたかったが、結局上手くいかなくて歪んだ段々のよく分からない模様になってしまった。それでも何とか出来上がったそれを、俺は真愛にプレゼントした。あのころの俺は、無垢で純真で積極的だった。今とは正反対。
「ねえ、あのときのこと、まだ覚えてる?」
真愛がいたずらっぽく聞いてくる。お前こそ、覚えてたのかよ。
「ん、ああ……何だっけな」
俺はとぼけて見せた。穴があったら入りたい。恥ずかしくて、あんなこと……
「うそ~、覚えてるくせに。イチ、あのとき――」
真愛が言いかけたとき、駐車場にバカでかいエンジン音を鳴らした白い車が入ってきた。