コンプレックスの解消には、まず体からなのです~ 6
午後、一度飯の休憩を取った後、再び俺はランニングをしていた。
筋肉痛と装備品の重量アップ、午前のトレーニングの後というのもあり、昨日に増してランニングはキツいものとなっていた。だが、流道の力のおかげもあってか、間違いなくたった一日で俺の体の筋力や体力といった類いのものが成長している実感があった。
ランニングも中盤に差し掛かった田園地帯の路上で、後ろから爆音が聞こえ、俺の横で白い車が減速した。見覚えがある、玻雀の車だ。
「誰かと思えば……昨日の僕ちゃんじゃないか」
「――玻雀、さん!」
マフラーの音が煩いにも関わらず、玻雀の声ははっきりと聞こえた。明らかに見下したような、それでも爽やかな笑顔でこちらを見ている。助手席には知らない女が乗っている。
「なにしてんの? もしかして体鍛えちゃってる? ははっ、発想が貧弱だね。やっぱり君は弱者だ」
「……俺の自由ですから」
俺はそう呟いて、足を止めることなく走り続ける。玻雀はゆっくりと俺のスピードに合わせて併走してくる。車内の奥から「そいつだ~れ?」と女が言っているのが聞こえた。
「俺に言われてムキになって一念発起ってやつ? ウケるねぇ、ダメなやつは何やったってダメなんだよ」
「……」
何か言い返してやりたい、そんな気持ちでいっぱいだった。だが、今の俺にはこいつに何も言ってやる勇気も、自信もまだ何もなかった。
「ま、せいぜい頑張りなよ僕ちゃん。雑魚がどれだけ頑張ったところで、俺には届かないんだからさ。」
また「バ~イ」と言って窓から手を振り、爆音をより一層高めながら走り去った。
「――あれ?」
窓から出した玻雀の手に、うっすら黒いもやのようなものがかかって見えた。目を擦って見たが、車はとっくに小さくなっていて、はっきりと見えなかった。
「あいつが、お前の恋敵か?」
後ろからついてくる流道が俺に問い掛ける。やはり、あいつらには流道の姿は見えてないようだった。
「……ああ」
俺は歯切れ悪く、そう答えた。水板に乗りながら流道はいつになく硬い表情で小さくなっていく玻雀の車を見つめる。そして顎に手を当てた。
「なかなかのいけめん、というやつだな、お前の相手は。だが決して間違えるな、お前の目標はそんなところじゃない。それよりもっと高いところなのだからな。あんなのは通過点にすぎないと思って鍛錬に励め。人間は不思議なもので、目指すべき目標がそこだと決めると、それ以上になることはできん。さらに高みを目指すことで、より上へと到達することができるのだからな」
流道が珍しく俺を励ます。確かに、俺は玻雀を目標にして頑張ってるんじゃない。真愛を守れるだけの力を手に入れるためだ。そしてそれは、あんなやつの言葉に振り回されていたら絶対に手に入らない。こんなことで、心揺れている場合じゃない。
「……応、ありがとな。流道のおっさん」
「あれは、まさか……」
流道が何かを口にしたが、独り言と思い、俺は再び前を向いて走り続けた。玻雀の白い車は、もうどこにも見えなかった。
それから俺は毎日、ハードルの上がっていくトレーニングをこなし続けた。二日、三日と過ぎていき、俺の体は悲鳴を上げながらもみるみる変わっていった。あれだけ出しゃばっていた腹のたるみは三日で完全に消え、体の全体が引き締まった。四日目以降には全身の筋肉の凹凸が顕著になっていった。陰影で薄らと筋肉美が見て取れるようになり「あんた、引き締まったね。どうしたの!」と母さんが驚くほどだった。
五日目からはさらにトレーニングの内容が増して、もうやっていることはおよそ人間の領域を越えていたように思う。しかし流道の力の恩恵もあり、何とかそれらを乗り越えた。六日目のトレーニングも終えて最終日の今日、最後のランニングを終えた俺は達成感に満ち溢れていた。俺の体はもう一週間前とは完全に別人となった。腹にはくっきりとシックスパックが浮かび上がり、まさに理想的とも言える細マッチョ体型へと変貌を遂げていた。
「よくここまで耐え抜いたな、一途よ」
「一途さんすごいです~。ほらほら、お腹こんなにかっちかちですよ」
水涼さんが面白がって俺の腹をつんつんする。完全に俺で遊んでいるようだ。というかこの一週間ほとんど付きっきりだったが、ぶっちゃけこの人何もしてない。本当に暇な神様なんだな。
「流道のおっさん、本当にありがとう。俺、ここまで頑張れるなんて思ってなかった」
はにかみながら、俺は流道に礼を口にする。水涼さんは俺の頭を撫でてよしよししてる。
「なに、気にするな。それだけお前の目標とするものへの想いが強かった、ただそれだけの話だ。俺はきっかけにすぎん」
さて、と流道は俺の頭の上に手をかざす。俺を挟むように、足下と頭上に魔方陣のような紋様が浮かび上がり、小さな水球が浮かんでは弾けて、を繰り返す。そして俺の体が光り出し、魔方陣の中で水柱が立つとともに光は止んでいった。同時に、今まであった筋肉痛や重量感がすべてなくなり、俺の体はものすごく軽くなっていた。
「お、おお! すげー軽い。何か超開放された感じがするぞ」
「お前に与えていた枷を解いたからな。ついでに疲労した筋肉も回復させた。今のが俺の『加護』だ」
「え、じゃあ……」
流道がにやっと笑う。
「合格だ、一途。お前は馬洗い清水の『加護』を得たのだ」
「マジか! よっしゃ、ありがとな流道のおっさん!」
俺は拳を握りしめ、思い切りガッツポーズをした。
「流道さん、ありがとうございます! これで、美しき恋物語はさらなる進展を迎えられます!」
「みみみ水涼殿! そそそ、それは……いかん、いかんのです!」
水涼さんは流道の手を握り、ぶんぶんと上下に振っている。流道は完全に顔が火照り、ぶっ壊れた蒸気機関車のようだ。あれは……確かにいかんな。
「あんたも、そのあがり症なんとかしてもらうよう、どっかの清水の神様にお願いでもしたらどうなんだ」
「う、煩い! お、俺は……これで、いいんだ!」
照れを隠しきれない流道。神様のくせに、そこだけは人間くさいというか何というか。
俺は流道の耳元で囁いた。
「今度、水涼さんとデートできるようセッティングしてやるよ」
言った瞬間、流道の顔がみるみる赤くなっていくのが分かった。水涼さんは「?」な顔をしている。
「よ、余計なことはせんでいい! 調子に乗るなよ、小僧!」
「ははっ、ありがとな、流道のおっさん!」
俺は流道から逃げるようにその場を離れる。
「水涼殿、あの……」
「はい、なんでしょう?」
流道が水涼さんを引き留めて何やら話をしていた。俺は構わず水涼さんを呼んだ。
「おーい、水涼さーん。行こうぜ、おいてっちゃうぞー」
「は~い、今行きま~す」
水涼さんは流道にぺこりと頭を下げて、俺の方へと駆け出した。時折振り返っては、水涼さんは流道に大きく手を振っていた。
ひぐらしの鳴く声と、空を駆けるカラスたちが夕暮れの刻を伝える。俺たちを照らす夕陽は、今までのどのオレンジ色よりも濃く、鮮やかなものに感じられた。