コンプレックスの解消には、まず体からなのです~ 4
家に着いた俺はもうぐったりだった。陽は沈み、西の空が鮮やかなオレンジとピンクを織り交ぜた色で染まっており、東の空から少しずつ濃い藍色の闇が深まっていく。
昼でもない、夜でもない、俺はこの黄昏時の空が一番好きだ。大勢の人が生きるこの世界で、どんなことがあってもそんなのは取るに足らない、小さな問題だ。そんなふうに思えてくるから。
家に入るなり、俺は風呂を入れた。とてもじゃないが風呂にでも浸からないと体がもつ気がしなかった。
「一途、どうしたのあんた? 自分でお風呂なんか入れちゃって。まああたしは助かるけど」
母さんの言葉に何かを言い返す元気もなく、脱衣所で服を脱いでお湯が張るとすぐさま浴槽に入った。
熱いお湯は体の隅々まで残さず包み込み、今日の異常な鍛錬でボロボロになった筋肉たちを安らかにさせていく。風呂最高。
家の浴槽は大きめで、百七十五センチある俺でもゆったりと座って脚を伸ばしきれるほど広い。俺は浴槽に背を預けながら、天井を眺めていた。
『俺にはこの『湧くや』を、この町を、どうにでもできるカードを持っているんだよ』
不意に玻雀の言葉が浮かぶ。
今の俺にはあいつに勝てる部分などない。たとえ俺が今こうして清水の神様に『加護』を受け、自分自身がもし、見違えるように強くなったとしても、あいつの持っているカードを止めることはできない。それほどあいつのカードは強力だということは分かっている。
だとしても……。
だからと言って、真愛の身の危険をみすみす見逃すことなんかできない。俺は真愛を守ってやりたい。強くなって真愛の笑顔を、守ってやりたい。でもどうすれば……。
真愛を守ろうとすることは、玻雀のカードを使わせることになる。そうなれば、きっと真愛は心の底から悲しむ。それじゃ何の意味も……。
俺はひたすらに自分の無力さを責めた。浴槽の底がわずかにぬるくなっているのが分かった。
風呂上がり、部屋に戻ると机の上に置いていたスマートフォンが振動する。確認すると真愛からのLINEが入っていた。
真愛
やっほー、今日は久し振りに会えたのにごめんね、忙しくて。
お詫びになんだけど、良かったら今度の夜市、イチ一緒に
行かない? あたし浴衣で行ってあげるからさ(笑)
20:38
俺は思い切りガッツポーズを取る。引いた肘が壁に当たり、当たりどころが悪く悶絶する。ふるふると震える手で俺はすぐにLINEを返した。
一途
なんも気にしてないよ。どうせしばらく暇だから、いいよ。
夜市行く。なんなら猫耳も付けてこいよ。
20:39
あえてあの後、玻雀とあった出来事に関しては触れないでおいた。
夜市まではまだ時間がある。それなら今の試練も終わって、それなりな姿を真愛に見せられる。なんなら、次の清水の『加護』だって受けられるかもしれない。
勝手な妄想を張り巡らせる俺。真愛からの返信はすぐ来た。
真愛
あんま調子乗るな、イチのバカ! 変態!
普通に浴衣で行くよ。じゃあ来週末、イベント広場でね。
20:40
イベント広場は、御台所清水と馬洗い清水までの間にある、公園のようなだだっ広いだけの広場。確かに、待ち合わせ場所にはうってつけだ。
俺は「了解」とだけ入力してLINEを終えた。短いやり取りだが、思わぬ流れに俺は心躍らせてした。怒られはしたが、それでもこんな何気ないやり取りのなかでさえ、真愛の可愛らしさを感じてしまうほど、俺は相当彼女に惚れ込んでいる。
真愛と知り合ったのは小学四年生のとき。俺たちの学校では一年生から三年生までクラス替えがなく、それまでクラスの違う真愛のことを俺は知らなかった。四年生になったとき同じクラスになり、すぐ近くの席になったことで俺は真愛のことを知った。
真愛はスポーツ万能で明朗快活な女の子。頭は決して良いほうではないが、誰にでも優しくて分け隔てなく接する女の子だった。近くの席になった俺にも、笑って話し掛けてくれて、そのときの笑顔がとても可愛かったのを覚えている。
俺は俺で当時、好奇心がとにかく旺盛で結構わんぱくな男子だった。ガキ大将とか、そういうのではなかったが、落ち着きのない俺を止める女房役として、真愛はぴったりハマっていた。気がつけば家も違う方向なのに、俺と真愛はいつも途中までお互いにどちらかの家路をわざわざ遠回りしてまで一緒に下校するほど仲良くなっていた。
それだけ同じ時間を過ごせば、自然と好意は生まれるもの。俺は自分でも知らないうちに真愛を好きになっていた。好きになれば見方も変わる。こういうことで喜ぶのかとか、こうすると怒るんだなとか、こんな面もあるんだなとか……。
俺の初恋だった。学校がひとつずつしかないから、中学校も同じ学校に通った。よっぽどのことがなければほかの町の学校に行くやつなんかいない。共有する時間が長すぎたために、俺は初恋を拗らせた。ほかの誰かを好きになる、なんて考えもしなかった。
真愛が俺のことをどう思っているかは分からない。真愛は素直だが、誰のことを好きだとか、そういう浮いた話はたとえ女子同士の友達でも、具体的に言ってはいなかったようで、噂さえも聞こえてこなかった。もちろん、当時から隠れチキンだった俺は本人に告白はおろか、誰か好きな人がいるのかさえ聞くことができなかった。ただ、ああいう人でこういう感じの人がタイプ、なんていうのはたまに聞いた気がする。それが俺に当てはまっていたかどうかはまた別の話だが。
少しずつ大人になっていき、思春期も相まって、ほかの男子女子より少し遅めに、俺たちは互いにある程度の距離を取るようになっていた。しかし、高校もまさかの同じ学校を選んでいたことには驚いた。高校は町にひとつしかない中学校とは違い、学力に見合う学校を選ぶために受験をするし、バスや自転車、両親の送り迎えなど登校手段も増えるため選択肢も広がる。みんなそれぞれに、さまざまな町の高校を選ぶが、真愛も俺と同じ地元の六郷高校を選んでいた。とはいえ、俺たち以外も約三割の人間が六郷高校を選ぶため、可能性的にあり得ない話ではなかった。
話を聞いたときは「ふーん、そっか」程度に聞いていたが、内心は結構ハッピーだった。まだ彼女と過ごせる時間が伸びた、なんて。
でももう、俺たちの間には良い意味での腐れ縁、というような見えない絆が出来上がっており、高校では会話したり、一緒にいたりすることはほとんどなかったが、なぜか気持ちが離れているとか、今さら恥ずかしいとか、そんな気持ちは全然なかった。その代償に、俺は真愛に告白をするという機会も同時に失っていた。
「あたし、就職するんだ。この町に恩返ししたいから」
高校三年生の秋。久し振りに話した真愛は、純粋で真っ直ぐな瞳で俺に告げた。こいつなら、そう考えてもおかしくないな。むしろぴったりだと思えた。俺は「お前らしくて良いと思う」とだけ伝えたが、俺なりの精一杯の応援だった。俺は仙台の大学になんとか進学した。
それから今まで、たまに実家に帰ってきたときは、『湧くや』で働く真愛の様子を見に行っていた。たまに見つけられたときに言葉を交わすくらい、俺はそれだけで十分だった。
やがて『湧くや』の経営が芳しくなくなってきたころ、真愛もまた仕事に追われるようになり、店舗だけではなく、ちょっとした営業や商談にもアシスタントとして参加するようになった。それからはなかなか顔を合わせることがなくなったため、今日までの二年間、一度も会うことはなかった。
昔お互いにLINEを交換はしていたが、今さら、というのもあって俺から送ることはほとんどなかった。それは多分真愛も同じで、彼女から送られてくることもほぼなかった。俺の好きな女の子は、毎日間違いなく、元気に町のために頑張ってる。それだけで俺には十分だった。
だから正直、今日のLINEには内心かなり驚いた。まあ二年振りだったから真愛も思うところがあったんだと思う。なんにせよ嬉しい誤算だった。
「あいつの笑顔は……絶対に守ってやらないとな」
布団の上で寝転がり、彼女の文面をずっと見ながら、いつもより早い時間に、俺は眠りについていた。