御台所清水の水涼さん
初めまして、水郷美六と申します。
お読みいただきましてありがとうございます。こちらの作品は初の長編連載作品となっております。
ぜひ、お楽しみくださいませ。
何が起きている? 状況が理解できない。
蝉がせわしなく鳴く。容赦ない真夏の暑さで額に汗を滲ませながら、しゃわしゃわと涼しげなせせらぎの音がカクテルパーティ効果のように、蝉の鳴く声を通り越して俺の耳に入ってくる。
目の前にはソフトボール大のぷるぷるとした水球が、 滴をこぼしながらいくつか浮かんでいる。滴ったそれは、あたり半面くらいを石垣に囲まれた清水に落ちて、ゆらゆらと綺麗な波紋を作り出す。そして無数の水球が浮かぶ中央には、水色に紫陽花と菖蒲の刺繍が施された着物を纏った、黒髪の可愛らしいおかっぱの女の子が水面に立っている。
こんなことが、現実に起こりうるのか?
おかっぱの女の子は二十歳前後だろうか、こちらの驚いた様子を見てにっこりと微笑んでいる。
夏休み早々になんだか変なことに巻き込まれている。一体何がどうなってるんだ……。
ことの始まりは数時間前に遡る。
***
午前十時、枕元のスマートフォンが軽やかな音楽を鳴らし、俺に起きろと催促してくる。俺は薄い布団に頭までもぐり込みながら、ごそごそと手だけを出して音の発信源を探る。左右に手を振って、ようやく触れたひんやりとした感触のそれを掴み取り、顔を出してアラーム停止のアイコンをタップした。スヌーズと表示されている。どうやらスマートフォンは何度も俺を起こそうとしたらしいが、まったく気づかなかったようだ。気づかなかったようだ……。
「やばい、仕事!」
がばっと布団を払いのけて起き上がる。が、目の前の空間に違和感を覚える。
古めかしい襖に障子枠のついた窓、木目の天井。懐かしさを思わせる畳のい草の香り……そうだ、ここはいつものアパートじゃない、俺の実家だ。仕事を辞めて、いったん実家に帰って来たんだった。
仙台の大学を卒業して仙台のベンチャー企業に就職するも、四ヶ月で会社は倒産。いきなり毎日が夏休みとなってしまった俺は、無理に早起きをする必要もない。再び眠ろうと布団を自分の体に掛け直す。とたん、外の廊下を歩く足音が近づいてきて、部屋の襖を勢いよく開けた。
「一途、いつまで寝てんの! ご飯とっくに冷めちゃったよ!」
その声の主は母さんだ。久し振りに帰って来た、しかも会社の倒産で無職へ転落という俺の悲しい現実にも容赦がない。
「うあ……分かった、今起きるよ」
弱々しく声を出す。ヘタレな俺は怒鳴り声に弱い。寝ぼけているのが幸い、怒鳴り声がしても右から左へと耳をすり抜けていく。
「まったく、仕事がなくなったからって、働きもしないでダラダラしてないの。早寝早起きは社会人の基本だよ!」
そう言い残して、足音は遠のいていった。早寝早起きは三文の徳だなんて、あの母親は一体いくつでそんなこと言ってんだ。
のっそりと起き上がり、乱れた布団も直さずに洗面所へ向かった。
顔を洗って少しだけすっきりしてリビングに入る。ダイニングテーブルの上には俺の分であろう朝食の目玉焼きとソーセージ、つけ合わせのトマトやレタスが一皿に盛られ、ラップを掛けて置かれていた。四人がけのテーブルの上はすっきりとしており、広い面積を俺の朝食だけが申し訳なさそうにしてるように見えた。ほかの家族は皆朝食を済ませたのだろう。
席について箸を取る。その間に母さんが味噌汁と白飯を持って来た。
「あんたはホント、のそっとしてるねぇ。朝からしゃきっとしなさい、しゃきっと!」
バシッと肩を叩かれる。箸でつまんだトマトが皿の上にこぼれた。母親ってのはどこも朝からこんななのだろうか、と心の中で呟く。
「朝からツッコミ激しいな。味噌汁だったら、ぶちまけてるぞ」
「そしたらあんたが拭きなさい」
ふん、と母さんはシンクの掃除を始める。俺は黙々と食べ続ける。久し振りの母さんの作った朝ご飯。一人暮らしのコンビニ飯とは違ってやはり別格だ。比べるところが違うかもしれないが。
「そう言えば、父さんは?」
「お父さんは町内会よ。もうすぐお盆だからね。この只野家は代々夜市の執行委員だからね。その打ち合わせだって」
今日は八月初めの土曜日。サラリーマンの父さんは普段は休みのはずだが、そういうことらしい。夜市とは町のお盆の時期にあわせて開催される縁日。中学生くらいまではよく遊びに行っていたもんだが、それ以来ずっと行ってない。
「今年は俺も夜市、行こうかなぁ」
「行ってきたら? 地元で再就職しないとも限らないんでしょ? どうせだったら行ってきたらいいじゃない。お父さんも喜ぶよ」
「そうだよなぁ」と呟く。
就活から就職の流れは思い出したくもない。世の中は就職・転職バブルと言われるほどの売り手市場だが、いかんせん頭脳は平凡、特技・特徴なし、ファッションセンスはほぼ皆無、ヘタレでビビりのアビリティ勢を引っ提げている俺には、それでも就職氷河期そのものだった。五十社受けてようやく仙台の小さなベンチャー企業に内定をもらった。人柄重視、未経験者歓迎なんてありふれた謳い文句、俺みたいなのはそんなとこくらいしか採ってもらえなかったのだ。やりたいことも明確にあるわけじゃないし、それでもよかった。
しかしその考えが甘かった。入社早々から激務続き。朝から晩まで働きづめは当たり前、新入社員とは言ってもクライアントにはそんなこと関係なく、まともな教育すら無い中でクレームも受けるし、サービス残業もさせられた。売上とか、利益とか数字のことはよく分かってなかったが、どうも業績は右肩下がりになっていたらしく、小さい規模のベンチャー企業はあっという間に倒産したのだ。運が悪いと思うのは簡単だが、それを見抜けなかった自分にも落ち度がある。我ながら情けない、と小さく溜め息をついて肩を落とした。
「それはそうと……このお腹!」
いつの間にかそばに立っていた母さんが、座っている俺の服を捲り上げ、容赦なく腹をバンバンと叩く。晒された俺の腹が小気味よく、ぶるんと揺れる。
「な、何すんだよ! 食ったもん吐くだろ」
「どうせ学生のころから運動もしないでビールばっか飲んでる証拠でしょ。あんた体は細めなのに、今からもうそんなお腹出てたら、お父さんみたいなビールっ腹のハゲた中年親父になるわよ」
「まだハゲてねーよ! 気にしてんだからあんま見んな!」
俺は恥ずかしさのあまり両手で服を下に引っ張って、無情にも晒された腹を隠す。確かに、ビールは毎晩のお供だ。これはきっと父さんから受け継いだDNAが俺にそうさせているんだなんて自分に言い聞かせて、理想とはかけ離れていくのを黙って見過ごして肥えてしまった腹だ。分かってるくせにどうにもできない。俺のコンプレックスのひとつだ。
「二十歳過ぎてから調子に乗って……ウォーキングでもしてきな! 久し振りの地元散策も兼ねてさ、どうせ暇なんでしょ」
「そんなこと言ったって真夏だぞ、猛暑だぞ? 可愛い息子が流行の熱中症患者として病院に搬送されて、全国版のニュースに取り上げられて、何とも痛ましい若者、みたいな感じになってもいいのかよ」
「そんなひ弱な息子ならいらん」
言い方、と胸の内でツッコむ。
「分かったよ。まあ確かに高校生のとき以来、町の中なんてちゃんと見てないしな」
「そうと決まったら、ほら、さっさとご飯食べて行ってきなさい」
母さんが煽り始める。久し振りの帰省を喜んでるのか、邪険にしてるのか、親心ってのはさっぱり分からん。
「清水でも回ってみるか、あいつにも……久し振りに会いたいしな」
聞こえないほどの声で呟き、俺は味噌汁を一気に流し込んだ。