いま、海です。
「いま、海です。」
カズオは辺りを見渡して、ヨシミからかかってきた携帯電話に応えた。
「何で?」
とヨシミに聞かれても、自分でも何故ここにいるのか良く分かっていない。今、ヨシミからの電話で目が覚めたばかりなのだ。
カズオが返答に困り黙っているとヨシミも黙っていた。波の音しか漂っていない。
「今、何時?」カズオは聞いた。
「今日、なんの日か分かってる?」
「うん」
カズオは目を閉じたままうなずいた。朝日と思われる光がとても眩しかった。
「じゃあ、なんで海にいるの?」
うん、と言ってゆっくりと目を開けようと努力した。頭がガンガンする。
「どういうこと?」
ヨシミは優しく、冷静に語りかけたが、電池が切れてしまったカズオの携帯電話からは返事が無かった。
おとといまでカズオと過ごしたベッドは、シーツ類が綺麗に交換されている。ヨシミがベッドの上に電話を投げつけると、長期出張から戻ってくる彼氏お気に入りの枕にめり込み、整えたばかりの配置をずらした。ヨシミは軋ませるほどに勢い良くベッドに座り込み、枕から携帯電話を救い出した。7:10だ。画面を眺めてから、電話を折りたたみ、もう一度投げつけると、彼氏お気に入りの枕が電話と道連れとなってベッドから落ちていった。
馬鹿とは分かっていたけど、ここまで男が馬鹿だとは思わなかった。もう二度とあんなマヌケな男と浮気なんてするもんか。
ヨシミは心に決めるように強く思った。
次はちゃんと賢い男と浮気をするようにしなきゃ。
受話器からは波の音しかしなくなった。心地よさに2分ほど電源が切れていることに気付かず、そのまま耳に付けていた。
場所も時間も分からないまま電話は切れてしまった。ゆっくりと立ち上がり、尻の砂を落とす。ズボンが濡れているようだ。立ちくらみと戦いながら辺りを見渡すと、今立っている砂浜の向こうに車が通っているのが見えた。道がある。無人島では無いようだ。とにかくここから動かなきゃ。カズオはふらふら道に向かって歩き出した。
「予定より早く帰って来れそうなんだ。今日の3時には着くと思う」
彼氏はそう言って電話を切った。8:30。張り替えたカレンダーにはハートマークで明日の日付が囲われている。予定通り1日早く帰ってくる。同じ馬鹿なら、せめて分かりやすいほうが良い。
ヨシミは窓を全開にして掃除を始めた。2時間で隅々までキッチリ掃除をしよう。落ちていて許されるのは愛される私の陰毛だけだ。完璧に空間を入れ替えたら、食材を買いに出かけてから香辛料をたっぷり入れたカレーを作ろう。上書きする匂いはキツいほうが良い。どうせカレーを食べることにはならないだろう。冷凍出来るし。素敵なお店でディナーをするためのコーディネイトはあらかじめ選んでおいてクローゼットにしまってある。イタリアンならA、中華ならB。イタリアンが食べたい気分だ。
化学繊維のモップを手に取り、鼻歌と掃除が始まった。モップのあとは、掃除機、しっかり雑巾までかけてやる。もちろん水周りもキッチリと。2時間もあれば余裕よ。お花? お花を飾るのは結婚してから! ドリカムを歌いながらモップを滑らせていく。
ボストンバッグが目に入るとモップと鼻歌が止まった。
「こいつだ」
ヨシミは思わず言葉として発してしまった。マンション入口の横にあるゴミ捨て場に保管しておいてやろうかしら。いや、それに気付くくらいの馬鹿なら良いけど……
カズオは合鍵を持っている。
部屋にこられたら、ものすごく迷惑だ。どうせバッテリーが無くなったんだろう、電話は通じない。
ボストンバッグを蹴りとばすとチャックの閉まってない口からは汚れた服が散らばった。
いつだって、してほしくないことをしてくれるのが男だ。
カズオは道沿いに歩いていった。
濡れている靴が痛くなり始めるくらい歩くと、小さい喫茶店が見えた。コーヒーとカレーの良い匂いが外まで漂っている。
入るのに躊躇したが、来た道にも、先の道にも、見える範囲にコンビニらしい建物は無い。ガソリンスタンドも無い。
濡れている白いTシャツと黒いズボンは、見た目には乾いていそうだ。そういえばアロハシャツを羽織っていたような気もするが……
アロハがきっかけで、思い出したようにポケットを探る。濡れて色が変わっている千円札1枚と小銭、反対のポケットには合鍵が入っているのを確認して安堵のため息をついた。
カランコロン鳴らしながら店に入ると客はいなかったが、「いらっしゃい」 と言ってもらえた。ちゃんと営業はしているらしい。
中年の女性が水を持って来てくれ、とりあえずコーヒーを頼んだ。店内を見渡すと時計が無い。慌てて女性を呼び止めた。
「あ、あの、すいません」
「はい?」
「…カレーもお願いします」
「はい」
「あの、すいません」
「はい?」
「今、何時ですか?」
「ねえ! 今、何時かね?」
女性はカウンターの中にいる男に聞いた。旦那であろう男は横を見て「9時」と応えた。
しばらくすると女性がまたテーブルへやってきた。
「すいません。コーヒーは先ですか? 後ですか?」
「え? ああ。どっちでも良いです」と言うと、女性がなんともいえない顔をしたので、「先で」とお願いした。
「あの、携帯の充電器ってお借りできたりしますか?」
「携帯の充電器? おばちゃん持ってないからねぇ。ねぇ! 携帯の充電器あるかね?」
カウンターの中から「あるよ」と声が聞こえた。
おばちゃんはコーヒーと一緒に充電器を持ってきてくれた。残念ながらメーカーが違うために合わなかった。
コーヒーを身体に染み渡していると、カレーが運ばれてきた。とたんに腹が鳴った。
「あの、すいません。ここって何処ですかね?」
「はい?」
沈黙を察知してカズオは慌てて次の言葉を出した。
「い、いや。気がついたらここにいたんですよ」
「はあ」
「いや。お酒を飲みすぎちゃったみたいでして。へ、へへへ」
「はあ」
場所のほうは分かった。ヨシミの部屋まで車で2時間ほどの距離だ。電車だと良く分からない。
おばちゃんは「ごゆっくりどうぞ」とテーブルを離れたきり、カウンターの旦那とアイコンタクトを交わしつつ、こっちのテーブルをしっかりと視界に入れている。
居心地は良く無かったが、カレーは美味しかった。コップの水は飲み干していたが、注ぎに来る感じは無かったので早々に店を出ようと決めた。そうっとポケットからお札を出して確かめるも、やはり濡れていた。スプーンを包んでいた紙ナプキンを押し付けるも、湿り気は取れなかった。
伝票を持って席から立ち上がると、おばちゃんはカウンターから慌ててレジスターのところへ来た。申し訳なさそうかつ、あたりまえのごとく振る舞い、濡れた千円札で支払い、外に出た。海の匂いがする、それにようやく気付いた。駅はどっちの方向か聞くのを忘れたことにも気付いた。
10:00になった。
ヨシミは掃除を終わらせ、スーパーへ来ていた。カゴにお目当てのものをサクサク放り込んでいくと、どんどんカゴが重くなっていく。でもカートはあまり好きじゃない。買いすぎてしまうから。
ニンジン買う、玉ねぎある、セロリ買う、ニンニク、生姜買う、トマトはどうしよう、缶にしよう、ジャガイモは……
彼氏はジャガイモあり派だ。カズオはどっちでも良かった。私は自分で作るときは入れない。嫌いなわけじゃない。色々と面倒なだけだ。
ヨシミは手に取ったジャガイモを戻した。…鶏肉買う。あとはヨーグルトとあまり出番が無いがゆえに切らしているスパイスを少々。隠し味なんてあるもので十分。
買い物をサっと済まし、マンションへ戻ると、さっそくカレー作りに取り掛かった。
カレーの作り方は、「インドを放浪して来たときに学んだ」と言った男から教わった作り方だった。その男は3年前に「インドに行く」と言い残し、ヨシミの前から姿を消した。ヨシミはインドに負けた。ろくでもない男だったが、作ってくれるカレーは美味しかった。
熱された油に、スパイスの香りが立ち上る。
その男は言った。美味しくするコツがあるのだ、と。
「愛だよ。愛」
血のように赤い、缶から出し入れたトマトがマグマみたいにぐつぐつ煮えている。
ヨシミはドリカムの鼻歌を止めて、フッと鼻で笑った。
このカレーを作る度にヨシミはその彼氏だった男のことを少しだけ思い出す。
今日のカレーも美味しいはずだ。
「そりゃあ、カズオちゃん悪くないべ」
ドライバーの男はカズオに言った。
カズオは長距離トラックの助手席に座っている。
「いやぁ、まぁ。でもオレが悪いんですよ」
話は1時間ほど前にさかのぼる。
喫茶店を出たカズオは、なんとなくコンビニを目指して歩きだした。コンビニはあるはずだが、どれぐらい先かは分からないので、先に目に付いたガソリンスタンドに立ち寄りトイレを借りた。田舎らしい大型のガソリンスタンドだ。荷を運ぶトレーラーやトラックが並んで休憩をしている。そこで運良く、目的地へのヒッチハイクが出来たのだ。
「オレがバーでバイトをしていたときに客で来たんですよ。なんか長期出張中の彼氏さんの相談を受けてるうちにこう…ずるずると。明後日、彼氏さんが帰ってくるまでの期間限定ってのも分かっていたんで」
「で、別れがつらくて飲みすぎて、気がついたら海にいた、っと」
「そうですね。ちゃんと覚悟はしてたつもりなんですけど」
「いやぁ。女ってイヤだよな。そういうことするのってたいてい女だもんな。で、戻ってどうするんだ?」
「まあ、まだ時間あるんで。ちゃんと鍵返して、荷物とって、挨拶だけはしておこうかな、っと。へへへ」
「ほうっておけばいいじゃねえか」
「まあ、それでもそこは。いちおうお世話になってはいたんで、ちゃんとしたいんですよね」
「なんか未練がましいな。ったく、そんな女のためにもったいねえな」
「いやいや。本当はすごい良い人なんですよ」
「だまされてると思うな、オレは」
14:30にヨシミの携帯電話が鳴った。ヨシミの予定通りに、彼氏が予定より少し早く着く連絡をしてきた。
ヨシミの手によって部屋の空気は、カレーの匂いを大気中に5%程度の濃度に調節してある。上書きは終わった。
セリフの練習時間なんて必要無い。そういうのは馬鹿な男に任せておけば良い。女は女優だ。それも一流の。
やがてインターホンが鳴り、ヨシミは彼氏を出迎えた。3秒ほど見つめたあと、ウブをにじませるように言った。
「おかえりなさい」
彼氏はヨシミから目をそらして、くすぐったそうに笑い、「…ただいま」と、控えめに言った。
部屋に上がると「これ、お土産」と、言って、彼氏はカバンからご当地のスイーツを出した。
「わあ、ありがとう。美味しそうね。さっそく食べる? コーヒー入れるね」
ヨシミは彼氏がお土産を買ってきてくれたことが嬉しかった。美味しそうだ。まあ、甘いものが不味いわけがない。
コーヒーはインスタントだが、ちゃんと丁寧に仕込みをしてあるので、味の方は封を切り立てのそれとは違う。しっかりと前日に買ってきて封を開けておいた。新品の風味を見せ付けるのはいやらしい。
「うん、美味しいよ。落ち着くな。…カレーの匂いがするな」ソワソワしながらに彼氏が言った。
「ごめんね。今日、帰ってきてくれるってわかっていたらちゃんと新鮮なのを買っておいたのに。もちろんインスタントだけどね。うふふ」
ははは、と彼氏はヨシミの程度の良いガサツ感に心を落ち着け、ヨシミの目線の先にあるカレンダーのハートマークの場所を見やり、またくすぐったそうに微笑んだ。
「予定では昨日、仕事が片付いて、今日には帰れることになっていたんだけど、伸びる恐れもあるから。確定的なことはギリギリまで言わないようにしていたんだ。がっかりさせたくないし」
「わかってる」
思わず自分で口にしてしまった言葉に、コーヒーカップを持つヨシミの手が一瞬止まった。まぁいいか。こんな程度のうっかりを気にしてたら恋は出来ないのだ。言葉を飲み込むように一口コーヒーをすすってから言った。
「…コーヒーの濃さ大丈夫? 甘いのに合わせて作っちゃったけど。もっと薄いほうが疲れてるときは良かったかしら」
「ありがとう。疲れてはいるけど大丈夫だよ」
ヨシミは良い奥さんになるな、と疲れた顔で言ってコーヒーを口に運んだ。ヨシミは微笑み、彼氏の手に持つコーヒーがこぼれない程度に身体を彼氏に預けた。このソファはお気に入りだ。名前ばかりのラブソファとは違う。カバーはもちろんしてあるが、コーヒーはこぼしたくない。結婚して、もっと大きいソファを買うことになっても、しばらくはこのカバーを使えるだろう。
ヨシミは彼氏に髪を撫でさせながら、さらに一段トーンを柔らかくさせて言った。「長期出張おつかれさまでした」
彼氏の手が髪から頬へ行き、ヨシミは口付けを受け入れた。口付けながら頬から首へと愛撫を続けながら下がっていく手は、もちろん胸で止まった。今日は、見た目重視のブラでなく、より実戦向きの柔らかいのを導入しておいて正解だった。寄せて上げるやつは食事に出かける前に装備しよう。
ソファに押し倒されたあと、愛撫は激しさを増した。ヨシミは悩ましげな吐息まじりの抑えた声を、顔をそむけつつ出しながら時計を盗み見た。15:15か。始めはソファで…それからベッドに移って…。出掛けるのは17:30ってところか。
服をずり上げられ始めた頃、ヨシミは思った。カレーは美味しく出来たかしら?
あれ? なんか案内標識が……。
カズオは帰る方向からずれていくことに不安を感じつつ言った。「離れていってないですか?」
「ああ、ちょっと寄るところあんだよ。ちゃんと送ってやるから心配するな」日に焼けた笑顔にのぞく白い歯がまぶしい。
「カズオちゃんはなんかやりたいことでもあんのか? ヒモなんてしてないで長距離とかどうだ?」 ドライバーは振り向いて言った。「やらないか?」
「あ、はい。うーん、良いですね。ははは。でもオレ、免許無くて…」
「大丈夫だ。オレが教えてやるよ。これを握ってみろ。そうだ。上手いぞ」
「…こうですか?」
「そうだ。良い感じだ。もっとこう動かしてくれるか」
ドライバーの大きくたくましい手が、シフトノブと、それを握るカズオの手を力強く包み込んだ。
派手で大きい宿泊施設が立ち並んでいるのが気になった。カズオは確認するように言った。「なんかラブホテル多いですね」
「この辺りはな。まあ、このトラックじゃ大きすぎて入れられないけどな。ははは」
大型を止めても差し支えなさそうな広い道と、座席後ろに鎮座している敷布団。すごい頼もしさだ。
「あの…すいません。ちょっとトイレ行きたくて。コンビニかなんかあったら停めてもらえますか?」 何かを言われる前に間髪いれずにカズオは言った。「ちょっと先に出しておきたいんですよね。へ、へへへ」
2年ぶりに全速力でカズオは走った。遠くのほうで怒鳴り声とクラクションを鳴らす音が聞こえたような気がしたが、振り返らなかった。振り返れなかった。
用意していたBの方のコーディネートに着替え、ヨシミがハンドバッグを持ったときでさえ、まだ未練でもあるかのように男はベッドに裸でいた。
お腹が空いているヨシミは、上向きの胸と笑顔を見せて催促した。「お待たせ」
男は返事もせずに裸の半身を起こし、ややあって言った。「別れてくれないか」
固まるヨシミに目を合わさず、男は1人でたどたどしく喋りだした。練習不足の話はつまるところ、赴任先で出来た女と結婚するということだった。
ソファの下に押し込まれていたカズオのボストンバッグを引き出すと、ヨシミは2歩で彼氏に駆け寄り、顔にフルスイングをした。
そういうことは出す前に先に言え。
すっかり夜になった頃、なんとかヒッチハイクを乗り継いでカズオは戻った。
カレンダーのハートマークは明後日だ、カズオは覚えている。
ノックもせずに慌てて鍵を開けて入った。
カレーの匂いがしている。ヨシミの姿は無く、電気は消えたままだ。
恐る恐る電気をつけると、カズオのバッグが転がっている。
テーブルの上に置手紙があるのを発見した。恐る恐る覗くも、自分宛では無いことが分かり、驚いて目をそらす。
充電器を挿したまま、カズオはヨシミに電話をした。
「ヨシミちゃん今どこにいるの?」
「カズオは?」
「え? おれ?」
カズオは何となく言いにくかった。「おれは今、ヨシミちゃんの部屋だけど」
「置手紙でもあった?」
「え? い、いや。あ、違う違う。うん、あるみたいですね」
「なんて書いてあった?」
「…鍵はポストに入れておきます」
「あっはっは」
「い、いや。もちろんそれだけ書いてあるわけじゃないけど」
くつくつ笑うヨシミの声が、そわそわしているカズオの耳に届く。
「それで、ヨシミちゃん。どこにいるの?」
ヨシミは笑いながら応えた。
今、海です。