十八章 抗う者達の戦場(1)
エルがマルク本人と遭遇し、戦い始めてしばらくが経った頃、セイジは歩き続けていた無人の高層ビルの中で、ようやく外の景色が眺められる場所まで辿り着いた。
セイジは『仮想空間エリス』に到着してからずっと、先程まで、暗闇の中を彷徨歩いていたのだ。
実際、そこは電灯が消えてしまった非常階段だったのだが、彼は何度も足を滑らせながら下へと向かい、一筋の明かりがさす回廊へと抜け出し、ようやくビルのフロアへと到着出来た。
割れたガラス窓から下を見降ろしたセイジは、『仮想空間エリス』の様子を一望して驚いた。荒廃した街の所々には消炎が立ち上り、遥か向こうには、こちらに迫り来る黒い壁に、世界が削られてゆく光景があったのだ。
セイジは現状が把握出来ず、しばし世界が闇に呑まれてゆくさまを眺めていた。ふと、右手の方向に巨大な塔の存在がある事に気付いて、目を向ける。
首を伸ばして確認してみると、この街で唯一電気の通った塔だとは察せた。塔の頂上は暗雲立ち込める雲の向こうに隠れており、セイジは、かなりの標高があるのだろうなぁ、と場違いな感想をぼんやりと抱いた。
目的とする『エリスプログラム』の心臓部は、あの塔の中にあるのだろう。地上がどうしてこうなっているのかは分からないが、所々戦闘音が聞こえるので、もしかしたら、また出遅れてしまっているのかもしれない。
そう考えて、セイジは気落ちした。
これはまた、ログに怒られるパターンのような気がしてきて、セイジは「どうしたものだろうか」と悩ましげに首を捻った。自分は本当に、かなり運が悪い男らしい。
スウェン達は、もうアリスを見付けただろうか。
脱出の件に関しては、一体どうなっているのだろう?
とにかく階下に降りなければ、とセイジは考えた。確認したものの、やはりエレベーターは止まっており、移動手段は非常階段しかなさそうだった。しかし非常階段は真っ暗で足元が見えないのだ。降りるまでに、余計な時間がかかってしまうだろう。
セイジは、フロアの床を見降ろした。
何度か足を打ちつけて強度を確認してみたところ、これくらいなら打ち抜けるかもしれないと思えた。そこで、セイジが「試してみよう」とおもむろに拳を振り上げた時、強く制止する女の子の声が、彼の頭の中に響いた。
――駄目よ、やめて。
聞き覚えのあるその声は、セイジが以前のセキュリティー・エリアで出会った、エルによく似た女の子の声だった。
セイジが慌てて拳を引っ込めると、頭の奥で、彼女が安堵の息を吐くのが聞こえた。
――とんでもない人ね。まさか上の方に到着してしまうなんて、よっぽど引きが強いのかしら……ああ、でも、わたしとしては助かったわ。もう、間に合わないかと思ったもの。ほとんど消えてしまって、姿も保つ事が出来ないの。『アリス』は、どうにか七階まで連れて来られたから、上から瓦礫を振らせるような事はやめてちょうだい。
その時、エレベーターに光が灯った。まさか、と思いつつも半ば反射的に駆け寄ってみると、エレベーターが到着音を上げて、電力の稼働を思わせる光を溢れさせて扉が開かれた。
乗れ、という事なのだろうか……?
セイジは少しだけ考え、まぁ大丈夫だろうと、特に危機感も覚えないまま、素直にエレベーターの中へ乗り込んだ。またお前は苦労せずに、というログの幻聴が聞こえて来そうだったが、アリスの救出は大事な任務だ。きっと、そんな懸念はないだろうと思い直す。
乗り込んですぐエレベーターの扉は閉まり、七階のボタンが点灯した。空調が壊れているせいか、密封された室内は蒸し暑かった。
高層ビルのエレベーターは、滑るように階下へ進むと、チン、と乾いた音を立てて扉を開いた。
到着したビルの七階は、ベージュのマットが敷かれただけの、椅子もテーブルもない開けたオフィス・フロアが広がっていた。ガラス片や瓦礫の欠片が少し転がっているものの、壁は真新しく、寂しいほど伽藍とした広い空間が開けている。
七階のフロアに踏み入ってすぐ、セイジは、空間の中央に横たわる一人の少女の姿がある事に気付いた。
それはマルクに連れ出された時と同じく、袖の短いレースの付いたついた上着と、たっぷりのフリルが特徴の桃色のスカートに、丸みのある黒いブーツを着用したアリスだった。アリスは、床にウェーブを描くブロンドの髪を広げ、胸の上で手を組んだまま眠っていた。
駆け寄って心音や呼吸を確認したところ、異常はなく怪我もしていないようだ。しかし、彼女を起こそうと、セイジが名前を呼びかけても、大丈夫かと頬に触れても、まるで起きる気配はなかった。
『大丈夫よ、『彼女』が既に離れてしまった今、もう少しで目を覚ますはずだから』
先程とは違う、柔らかい女性の声が部屋に響いた。
セイジは、素早く辺りを見回した。人の姿は確認出来なかったが、彼は念の為アリスの背と膝の裏に手を入れて抱き上げ、警戒しつつも尋ねた。
「あの子はどうしたんだ? アリスをここまで連れて来てくれた、あの子は――」
『あの子も言っていたでしょう。もう、時間がなかったの。彼女は、この世界の危険からアリスを隠し通し、そして、あなたに託す為に全ての力を使い果たしてしまったのよ』
「それは……消えてしまったという事か……? 私は、礼すら言えていない」
『彼女は、自分の願いと使命に従っただけ。だから、どうか悲しまないで。願いの為に消えていったあの子の為に、私達が『今』出来る事をするのよ』
十六年前に、魂と心を連れるだけの役目として『写し生まれた小さな存在』だったのだと、その声は、セイジの分からない事を語った。
本来ならそこで役目を終えて、意思も育たないまま消えていくはずの『小舟』だったのが、あの子は、短い間に見守る中で『夢人』のように『幼い彼女』を愛してしまった、哀しい子……
その女性の声を聞いていると、不思議と自分の母親の事が思い出された。
セイジには兄弟が多くいたが、いつも忙しくなく動いていた母親が、こちらに見せた微笑みと優しい声が懐かしく蘇った。何故なら姿なきその声は、まるで母性の象徴のように、温かみのある声をしていたからだ。
どこか寂しげにも語る声からは、深い慈愛も窺えた。敵意はまるで感じないと察し、セイジは、自分の本能で判断して警戒を解いた。
「あなたは、誰なんだ? 私達の事を知っている者か?」
続けて尋ねてみたが、声は答えてくれなかった。その代わり『見てちょうだい』と窓辺へ行くよう促したので、セイジはアリスを抱えたまま、ガラスのなくなった一面の窓へと立って、そこから地上を見降ろしてみた。
すると、塔の方向へログが息を切らせて駆けている姿があった。連続で『破壊の力』を発動させたのか、彼の左手の捲くられた袖は、少し焼き切れてしまっていた。
一体彼は、何をそんなに焦っているのだろうか。
滅多な事では動じない頼もしい仲間であるし、彼は逃げる事もしない男だ。強敵に遭遇した時も、あのような慌てぶりは見せていなかったように思う。
疑問を覚えてログの向かう先に目を向けたセイジは、そこで、ようやくログの行動理由を察し――ハッと目を見開いた。
高層ビルの最上階付近からは確認できなかったが、こちらから少し離れた位置の塔側の道に、複数の巨大な瓦礫が宙へ浮かび上がる光景があった。そこには、黒いロングコートを揺らめかせて佇む小さな後ろ姿がある。
それが、こちらに背を向けたエルである事に気付いて、セイジは、一瞬呼吸を忘れた。ああ、なんて事だ、と口の中で呟いていた。
『お願い、あの子を助けて。あなたになら出来るはずだから』
声が言い終わるよりも早く、セイジは心に突き動かされるがまま、アリスを強く抱きしめて窓の外へと飛び出していた。
かなり高さがあるが、きっと大丈夫だろう。
落下による風を受けながら、セイジは、ようやくそんな事を考えた。宙に躍り出てすぐ、着地に備えて両足を突き出し、抱きこむようにアリスをぎゅっと強く抱き締める。
「『助けてあげて』、だって? 当然だろう! 仲間なんだから!」
セイジがそう叫び返した時、地上を走っていたログが、その声に気付いて足を止めた。彼はこちらを仰ぎ見た途端に顔を強張らせて、「おまッ、なんつうところから登場するんだよ!」と罵倒のような驚愕の声を上げた。
ログが足を止めた場所は、ちょうど、これから着地する予定の位置だった。
互いに、気付くタイミングが少々ずれてしまったようだ。もう少し早く、こちらから声をかければ良かったかなと思いながら、セイジは、「調整が効かないからそこをどいてくれ!」とログに向かって声を張り上げた。
すぐに踵を返したログが「この前の戦車の時と同じパターンじゃねぇかよッバカヤロー!」と捨て台詞を吐いた直後、セイジの身体は地上に着地し、その衝撃で地面が大きくめり込んだ。
砕かれたコンクリートの一部を巻き込んで、凶暴な風が一瞬にして走り抜け、逃げ遅れたログがひっくり返った。




