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十七章 エルの始まりと、終わりへと動き出す運命(1)上

 エルは、六歳までの幼少の記憶がほとんどなかった。


 仲睦まじい父と母がいて、小さいけれど幸福な家庭があった事は覚えているけれど、それらは切り取られたアルバムのように、時間軸もバラバラに僅かな風景だけを記憶の中に残していた。


 六歳の頃に、激しい痛みがあったとは薄ら覚えている。車に乗った経緯も、事故の瞬間の映像も思い出には残されていないが、全身を襲った強烈な痛みは、死の苦痛としておぼろげに身体の記憶に刻み込まれていた。いつだったか、空っぽになった胸をに何かが入りこんで来るような、そんな違和感を覚えた気もする。


         …… …… …… …… …… ……

 『仮想空間エリス』に降り立った直後、怒涛のように込み上げた走馬燈のような記憶の残骸達を、エルは頭の中で追い駆けた。時間軸も不明瞭な、不揃いなシーンが暗闇の中から次々に現れては、色褪せて消えていく。

         …… …… …… …… …… ……


 瞼の裏で蘇った風景の中で、懐かしい匂いがエルの鼻を突き抜けた。


 そこには、見慣れた縁側に腰掛けるオジサンがいた。片目と肩腕を、不器用に包帯で巻かれた幼いエルもそこにはいて、長い髪を背中に流し、無表情に縁側から見渡せる世界を眺めている。


 縁側に座った二人の間には、切られたスイカが乗った平皿が置かれていた。傍には華奢な若い黒猫が丸くなっていて、オジサンの足元には、だらしのない寝顔を浮かべた雑種犬が仰向けになっていた。


「ちぇッ、お前とじゃ話しが弾まんではないか」

「そんなサービスを行わせる気はない。あの男も言っていたでしょう、絶対安静だと」


 女の子の口から紡がれるのは、その年頃には不似合いな言葉だった。


「ったく、ケチケチしやがって。俺はお前が嫌いだ」

「はぁ。それは知っていますが?」


 分かり切っている事を何故口にするのだと、幼いエルの眉根に出来た皺が語っていた。最近習った『目上の者への言葉使い』も、少しずつだが様になり始めている。


 二人の間に、再び沈黙が下りた。


 オジサンが、仕方ないといわんばかりにスイカを一つ頬張った。


「しょうがない、お前が食え。せっかくもらったスイカだからな。有り難く食わないと罰があたっちまうぞ」

「この世界の『神』とやらにですか?」

「そうだ。日本にはな、八百万の神様がいるんだぞ。凄いだろう。ちなみに、このスイカをくれた婆さんの畑の辺りにも、神様の祠があるぜ」

「ふむ。それは大変な数だ」

「そうだろう。だから食え」


 オジサンは、いつも一方的だ。昔からそうだったが、彼は自分の理論で無理やり話を押し通してしまう天才だった。


 強引で、世話好きで、よく笑う人。

 首にはいつも、チェーンに通した結婚指輪を大事に提げていた。


         …… …… …… …… …… ……

 風景はまたしても変わり、頭の中の時間軸が過ぎた。

 傷だらけだったエルは傷跡すら消えて、大半の時間をエル自身の意識が占めるようになった。しかし、病気にも痛みにも弱い小さな身体の負担を受けるように、時折『彼』が出て、オジサンと過ごした。

         …… …… …… …… …… ……


 エルの中に残されていた、彼女の目を通して『彼』が見た思い出も含めた日々の映像が、蘇り流れていった。しばらく二人と二匹と、そして『彼』が、一つ屋根の下で暮らす生活が続いた。

 

 まだ彼女の身体が鍛えられていなかった頃、体術戦で『彼』が突然、エルと入れ変わる場面が蘇った。不意打ちで頭を叩かれたオジサンが、悔しそう顔をして、大人げない言葉を口にした。


「ッだーかーらー、お前が出て来ちゃ意味がねぇだろ!?」

「この身体には、まだ無理のある戦闘だと判断しました」

「くっそぉコロコロと入れ替わりやがってッ。エルだと思って警戒していなかったから、俺が負けちまっただろうが」

「妙なところで負けず嫌いですね。問題ないでしょう、私が動く全てが彼女の経験として、この身に学習されるのですから」


         …… …… …… …… …… ……

 更に場面は移り変わった。流れていく風景の中で、『彼』の時間だけが徐々に削られていくのが分かった。

         …… …… …… …… …… ……


 幼いエルが、覚えていない例の怖い夢に怯えて外に飛び出した日の夜、『彼』とオジサンは、久しぶりに月明かりの畑道を散歩した。市街地の灯りよりも美しく照らし出された、月夜の青白い世界を、ポタロウとクロエが先頭を切って歩いていた。


「お前は出来るだけ『使う』な。この子の過去が喰い尽くされちまうんだろう?」


 サンダルで小石を蹴りあげたオジサンが、ズボンのポケットに手を入れたまま、そう唇を尖らせた。


 精神世界でも異質な生まれと存在である『彼』が動くためのエネルギー源は、その個体に刻まれた『過去』だった。『力』を直接食う方が美味くて好みなのだが、それは『理』から許可されておらず、他に食えるような何かを試した事もない。


 闇は世界の奥底だと、あるべき場所は決まっている。

 そして、じっとしていればエネルギーが減る事もない。


 しかし『彼』は最近、ずっと考えていた。理屈にも言葉にも表せないこのもどかしさは、一体何だろうか、と。


「――出来るだけ、喰わないよう努力しているつもりです。この感覚をどういうのか『私』には分かりませんが、彼女は、私を視認すら出来ないのに、彼女の怖い事や痛い事、苦しい事を取り除ければいいのにと、最近そんな事ばかり考えてしまう」


 あなたの言葉を借りるのなら、出来るだけ『使わない』ようにしているのだと、珍しく作らない言葉で、『彼』はぽつりと本音をもらした。オジサンは罰が悪そうに頭をかいて、「そんな気はしていた……ただの八つ当たりなんだ、すまん」と小さく『彼』に謝った。


 六歳にして、この先もう一度死ななければならないという理解までは酷だろうと、精神世界側で『記憶』が調整され封じられていた。つまり、それは事故のショックと『一度死んだ』時に覚えてしまった苦痛と恐怖によるもので、エル自身は悪夢を見ていると錯覚していた。


「記憶じゃなくて身体が覚えたショックだからな。感情はどうにもならんとは理解しているんだが、あんまりにもエルが痛々しく泣くもんだから、そのたびに、お前とあいつの顔を、想像上でぶん殴っちまうというかだな……」


 お前らが直接的に悪くないとは知っているんだ、とオジサンはむっつりと呟いた。どうにかしてやりたいが、精神面は専門ではないので悩ましい。


 すると、『彼』がチラリと横目にオジサンを見やり、視線をそらしながらこう言った。


「……いえ、恐らくですが、克服は可能だと私は考えています」

「……出来るのか?」

「エネルギーを使わないよう、この子が恐怖心で『追い駆けてくる怖い象徴』を作り出すたびに食べるやり方と、彼女の目を塞ぐ方法を、手探りで試しているところです」


 オジサンは、どこか物想いに思案する『彼』をじっと見降ろした。


「そうか。手探りか」

「はい、手探りです」


 これまで『制御する』といったことを考えた事もなかったので、と思案しながら口にした『彼』を見て、オジサンは「お前は随分『それらしい顔付き』をするようになったな」と笑った。


 『彼は』は、オジサンの横顔にチラリと視線を寄越し、やはりよく分からないというように、そっと眉を顰めた。


         …… …… …… …… …… ……

 日々は、慌ただしくも穏やかに過ぎ去っていった。思い出の景色は、次々に蘇って目の前を通り過ぎていき、『彼』は、滅多な事がない限り表に出なくなっていく。

         …… …… …… …… …… ……


 『彼』は『器』を修復する際に、古い過去の大半を喰われてしまった不安定な少女の中から、静かに見守り続けた。



――大丈夫。必要のない物なら、私が食べてさし上げましょう。


 

 認識も出来ないのに、眠りの中の暗闇を逃げる幼いエルにそう声をかけて、幼い彼女の目を作り物の手で塞いだ。腹が膨れることもないのに、形のない曖昧な作られた『恐怖の象徴』を喰らい続けた。


 そうしている間に、包丁も持てなかった幼いエルは、台所に踏み台を置いて手伝えるまでになった。子供の成長は早く、訓練に身体が慣れ始めると、滅多な事では泣かなくもなった。


「不便なものですねぇ。もっと早くに気付いていれば、細かく使いこなせたでしょうに、まさかこの『器』のおかげで、こちらの世界でも『力』が使えるとは予想外でした。まったく、膨大な年月が無駄だと悟りましたよ。……この子が忘れてしまって『私』ばかりが覚えているというのも、妙なものです」


 夏が終わる夜空の下で、『彼』とオジサンは、短い別れの時間を設けた。エルが安定したと判断した『彼』は、加減と制御を覚えるため、自身の意思を『器』の中に深く眠らせてみる方法を選んだ。


 食べた本人は、消化した『過去』を情報として覚えているのだと説明されていたオジサンは、そんな皮肉を叩く『彼』に、「そうでもないさ」と相槌を打った。


「俺やポタロウやクロエも、エルと過ごした月日は覚えてる。だから、お前は気にせずしばらく眠ればいい。お前が出て来る必要がないぐらい、エルは見かけによらず逞しいところがあるからな」


 オジサンと『彼』は、最後に一度だけ握手を交わした。『彼』は「やけに長い握手ですが、これには意味があるんですかね」と口角を引き上げた。


 しかし、『彼』はふっと静かに笑んで、この世界で教わった「おやすみ」という言葉を述べた。それは、彼が鉄の箱に入っていた時、あの所長が飽きずに何度も掛けていた言葉でもあった。


「――……ああ、おやすみ、ナイトメア。俺は、最近のお前は嫌いじゃなかったぜ」


 たぶん俺は、お前が次に起きる頃にはもう……そう呟いて、今にも泣きそうな顔で笑ったオジサンのいる風景が、『ナイトメア』と呼ばれた異界のモノが、物質世界で最後に見た光景だった。


         …… …… …… …… …… ……

 場面は、次々に過ぎ去っていった。

 過去へ、未来へ、そして更に深い過去へと潜り込む。まだ髪の長かった頃の幼い彼女が、両親に連れられて街を歩いている光景が現れた。

         …… …… …… …… …… ……


 それは、エルが三歳の頃の風景だった。初めて綺麗な服を着て、家族写真を撮りに行った帰り道、父が珍しくレストランを利用した。


 幼い彼女は、まだ両親以外の大人をあまり知らなかったから、人見知りしていた。けれどホテルを出る際に、一人の青年社員が彼女に微笑みかけ、可愛い動物の形をした風船をくれてからというもの、彼の事はすっかり好きになった。


 その青年はホテルの制服を着て、いつも建物の前に立っていた。


 小さなそのホテルの前を通るたび、女の子は彼に挨拶をした。幼いエルにとって、唯一怖くない他人だった。父と母が口にした言葉が名前だと勘違いして、幼い彼女は、彼を見掛けるたびに「ホテルマンさん」と親しみを込めて、そう呼んだ。



 今となっては、白いホテルの壁と、青年が微笑んでいた口許しか覚えていないが、これも、きっと『ナイトメア』が消化してしまった為だろう。



 エルは、更に自身の記憶の奥底へと潜り込んでいった。

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