十六章 エリスの世界(2)
地響きが遠く離れた後、スウェンは慎重に探索を始めた。
しばらく歩いてみたが、朽ち果てた高層ビル群ばかりが目についた。資料で見ていた都市型軍事演習場を広範囲から確認するべく、高い場所を求めてビルの外付け非常階段を上ってみると、設計上、中心地街に進むごとにビルの高さは低くなっている様子が見て取れた。
外側の区のビル郡は三十階建て、中心地あたりになると、せいぜい十階建てほどの高さだ。しかし、その中心地には、報告になかった巨大な塔が聳え立っていた。
全ての電力が途絶えた街で、中心地にある巨大な塔だけが様々な色の電光を灯していた。赤、青、緑、と誘導灯のように不規則な光を放つその塔は、ほぼ円形状で、コンクリートではなく全て鉄や機械で出来ているようだ。
その建物はあまりに異様な存在を放って鎮座しており、塔の先端は、雲まで伸びて先が見えないほどに高い。
塔の向こうには、スウェンがいる地点と同じように、静まり返ったビル郡の影が佇んでいた。目測で軽く見積もっても、塔までの距離は二十キロメートル以上はあり、移動だけでも骨が折れそうだ。
上から見降ろす街は、暴動が起こった後のような爪跡が目立つのも気掛かりだった。一部の建物は崩壊し、路上に転がる横転した車は、明らかに強い攻撃を受けた事による損傷が見て取れた。地面にも、大きく抉られている箇所が見受けられる。
最後に使用された際の光景がリセットされずに残っているのか、『エリスプログラム』の崩壊による弊害なのか、マルクが手を加えた為なのか、現時点では判断出来なかった。この状況下で、連絡手段すらなく、チームが離れ離れになってしまっている現状は悩ましい。
正直なところ、ここへ来ればすぐにでもアリスが見付けられるのではないか、という甘い考えがなかった訳でもない。スウェンがセイジから報告を受けた印象では、彼らの元へアリスを届けてくれる、何者かの存在があるとの事だったからだ。
「甘い考えだったかなぁ……」
スウェンは街を見降ろしつつ、悩ましげに呟いた。
もう一つの疑問点を上げるとすると、先程マルクが、アリスを探している様子がなかった事だろう。マルクの計画には既にアリスが必要ないという事か、もしくはアリスが何者かに連れ出された事を、マルクが微塵も考えていないか――
アリスが既に殺されている可能性については、ログの手前、スウェンは考えないようにした。マルクは何やら忙しい身のようであるので、後者の可能性も捨てきれない。
とはいえ、恐らく『仮想空間エリス』の心臓である『エリスプログラム』は、きっと中心地に建つあの塔の中にあるのだろう。
電力稼働がある筒状の塔とは、どこか巨大な支柱を思わせる存在であるし、唯一電力が通っている場所という点でもかなり目立ち、格好の目印にもなっている。恐らく他のメンバーも、そこが目的地だと判断に至るに違いないので、そう考えると、合流も難しくないように思えてくる。
連絡を取り合う手段はないにせよ、自分達はずっとチームで動いてきた。互いの行動については予測が付くぐらいに長い付き合いであり、各自が自身の最適な役割を把握している。それに、これまでに似たような状況が全くなかった訳でもない。
思考を続けながら、スウェンは非常階段を下りた。
まずは、この世界で起こり進められている事を把握し、いかに効率よく迅速に、アリスを救出して任務を遂行するかを考えるべきだ。邪魔なようなら、マルクの処分も優先順位に加えられるが、今は、自分が起こすべき最優先行動を決めなければならない。
チームがそれぞれ遠う地点に飛ばされているとすると、全員でまとめて一つずつの優先順位を手早く済ます事は出来ないだろう。スウェンは仲間であり、部下である彼らの動きについて予測した。
セイジはやたらと引きが強い事もあり、不思議な少女に出会ったのも彼であるので、恐らく本人が意識せずとも、彼が真っ先にアリスの元へ到着する可能性もある。
ログには大きな目印のない探し物は不可能であり、すぐに迷子になって逆切れする事を本人がよく知っているので、彼はアリスの件をセイジに任せて、手っ取り早く「デカい目印があるじゃねぇか」と中心地の塔を目指すはずだ。
セイジがアリスを、ログが塔を一直線で目指す事を考えると、自分もアリスの件はセイジに任せて、塔へ向かった方が早い。
スウェンは考えつつ、塔のある方角を目指して慎重に足を進めた。アリスを現実世界に連れ戻す方法に関しては、ハイソン達がきちんと準備を進めているのか確認する必要もある。恐らく、塔に行けば『外』と連絡を取る手段が見付かるはずだろう。
潜入前の説明では、『仮想空間エリス』にスウェン達が踏み込み次第、『エリスプログラム』の一部の機能を奪還し『外』への出力をオンにする手筈だと伝えられていた。生身の人間も帰還が可能であるのかは机上空論だが、マルクが既にやってのけているのなら、救出する為にはやるしかない。
恐らく『外』では、スウェン達が最終目的地に辿りつけた事を確認出来ているはずだ。脱出するための作業が、早々に開始されている可能性もある。
しばらく歩いたスウェンは、不意に、強い悪寒を感じて立ち止まった。
足元から突如として、この世界が信じられなくなるような、おぞましい空気の変化を全身に覚えた。直後に大地が音もなく空気を震わせ、脳を激しく揺らすような衝撃がスウェンを襲った。
まるで自分という人間の存在が、根底から崩されるような吐き気が込み上げる。平衡感覚が狂い、うまく立っていられない。スウェンは、どうにか精神を保とうと集中し、目を凝らした。
その時、視界がテレビ画面に走るノイズのように――一瞬、ブレた。
途端に身体から圧力が離れ、知らず堪えていた吐息が口からこぼれ落ちた。
瞬間、騒がしい無数の音が耳を叩いて、スウェンはギョッとした。眼前に広がっていたのは、先程とは打って変わった光景で、彼は数秒ほど、突如として現れたそれらが信じられずに硬直してしまっていた。
先程まで廃墟でしかなかった街には、爆音と轟音がひしめき、多くの人間の悲鳴まで響かせていた。湿った風には、焼けるアスファルトと新しい硝煙の匂いも感じた。
「――なんだ、これは」
スウェンは、思わず口に中に戸惑いをこぼしていた。
伽藍としていたはずの街は、まるで時間が巻き戻ったかのように、あちらこちらから炎と黒煙を上げ、アスファルトには破壊された車や戦車、墜落したヘリコプターや瓦礫、逃げ惑う大勢の人間の大移動で雑踏としていた。逃げ惑う人間は、どれも西洋人だった。
すると、赤子を抱えた女性が佇むスウェンに気付いて、振り返った。
「あなたッ、そんな所で何をしているの!? 早く逃げなくては駄目よ!」
「逃げる? 一体何から――」
「何を呆けているのッ、テロ攻撃があったじゃない! この街も戦場になってしまったのよ。軍は多くの民間人を守れないわ。テロリストは、誰かれ構わずに殺し回っているのだから!」
女性の悲鳴が、スウェンには虚しいものに映った。
まるで画面越しに映画を見せられているかのように、女性の緊迫感だけが伝わって来ないでいた。街の惨状は本物だが、逃げ惑う人間もまた、現在『仮想空間エリス』で発生している亡霊のようなものの一つなのだという事に、彼は遅れて気付かされた。
少ない情報から正確な答えを導き出してしまうスウェンの思考が、カチリと音を立てた。
「……そうか。マルク自身も分かっていない亡霊のようなバグの現象は、一種類じゃないのか」
目の前で逃げ惑うエキストラと、先程声もなく絶名したエキストラらしかぬ白衣の女性は、有りようは異なるが、マルクの言う『害虫』に含まれる現象なのだろう。そして、起因はどうであれ、双方は全く別物だとスウェンは察した。
スウェンが推測するに、これは時間が捲き戻るような『記録データの再生』だとも推定されるが、今のところ、双方の正体や原因は不明だ。あまりにも判断材料が少な過ぎる。
その時、銃声が連続的に起こった。
足元に流れ弾が撃ち込まれ、スウェンは、咄嗟に近くの瓦礫に身を隠した。隠れる直前一つの銃弾が右腕を掠め、焼けるような痛みを覚えて、彼は思わず顔を顰めた。
時間の巻き戻しによる『状況の再生』だと考えていたが、違ったらしい。
逃げ惑う人間達にリアリティはないが、銃弾だけは本物だった。流れ弾も現実世界と寸分違わない感覚合致率であり、受けるダメージは確実に身体に響く。つまり、巻き込まれたとあっては厄介な事になるだろう。
忌々しい事に、当初の懸念が当たってしまったらしい。
ここで死んだとすると、嫌でも死の疑似体験を味わう事になる。
「ったく、一体どういう原理なんだかッ」
何が記憶や記録の残滓だ、とスウェンは苦々しく顔を歪めた。仮想空間を進むごとにリアルになるとは推測していたが、まさか現実世界と一寸の狂いもない感覚には、思わず悪態を吐きたくなる。
畜生、この任務が終わったら、大佐から長期休暇をぶんどってやる。
今では部隊も解散されて外部機関として置かれているはずなのに、今でも関係性が変わらないとはどういう事だろうか、とスウェンは忌々しく思いながら、瓦礫の影から辺りの状況を窺った。
現場は、立ち込める黒煙と消炎が見通しを悪くしてしまっていた。迷彩服を着込んだ軍人が脇から飛び出し、逃げ惑う民間人を押しのけて銃器を構えた。彼らを迎え撃つのは私服のテロリスト達で、分かりやすい的のように、全員が髑髏マークの入った黒いマントを着ていた。
流れ弾に当たった人間や撃ち殺された軍人達は、支柱の崩壊と同じように、灰のように崩れ落ちながら消えていった。人以外の物だけが、仮想空間に再現されたまま残されている現状を見て、スウェンは、これは演習当時の風景だろうかと勘繰った。
システムに生じたバグが、当時の演習風景の記録を再現しているのか?
その時、上空からヘリコブターの羽音が近づいて来て、どこからともなく飛んできた砲弾が、スウェンの頭上にまで迫っていた空軍機に着弾し炎上した。
爆風で吹き飛ばされたスウェンは、近くにあった剥き出しの鉄筋に掴まり、何とか壁への衝突を回避した。しかし、彼は悪態も吐かずに瞬時に動き出すと、隠れられる次の場所への移動を早々に開始した。
スウェンの聴覚は既に、先程聞き覚えてしまった、厄介な最新兵器の稼働音がこちらに向かってくる気配を拾い上げていた。




